2003年 8月16日 作成 話すことの実際 >> 目次 (テーマ ごと)
2008年 9月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、プレゼンテーション の注意点について お話しましょう。

 
プレゼンテーション では、テーマ と話の進めかたが評価点となる。

 話しことば は、書きことば に比べて、冗長です。
 「話すように書け」 というのは無理なことであって、話しことばが、書物の文体のように、言葉の厳正な定義と パラグラフ の周到な構成を前提にしていたのでは、聞き手は疲れてしまう。逆に、書きことばが、話しことばのように、冗長であれば、読者は疲れてしまう。

 プレゼンテーション では、講師が言葉の使いかたを厳正にしようと思っているほど、聞き手のほうは正確さを期待していない。言葉の厳正な定義と パラグラフ の周到な構成は、配付される ハンドアウト のなかで記述されていればよい。
 プレゼンテーション では、以下の 2つが大きな評価点になります。

  (1) テーマ (主題、中心思想、視点)
  (2) 話の進めかた

 1 つの テーマ を聞き手に訴えて説得するには、15分 (あるいは、20分) を費やさなければならないでしょう。
 聞きやすい話しことばの速度は、1 分間に 300語程度です
(NHK の アナウンサー 黒田あゆみ さんは、この速度で ニュース を読んでいたので、聞きやすかった)。たとえば、20分間の プレゼンテーション だとすれば、語数は、400字詰め原稿用紙に換算して、15枚です。しかも、プレゼンテーション は原稿を読むのではないのだから、話しのなかに冗長な言葉も出てきて、豊富な中味を盛り込める訳じゃない。

 
テーマ を 1つにしぼる。

 テーマ は個性的でなければならない。しかも、簡潔であり、明確でなければならない。個性的であるためには、「欲張らない」 ことです。「削ぎ落とす」 ことを覚えてください。これも言いたい、あれも言いたいと思っても、材料を精選して、余計な材料は捨て、ただ 1つの テーマ に集中してください
 テーマ が 1つにしぼられていれば、たとえ、話す順序 (題材の順序) を間違えたとしても、あなたの意見は聞き手に確実に伝わります──プレゼンテーション が終わってから、非難が出たとしても、「言っていることは端的にわかったが、話しかたが下手だなあ。」 というくらいでしょうね。

 
プレゼンテーション では、話しかた、身振りや服装も評価点となる。

 プレゼンテーション が書物と相違する点は、一過性 (「here and now」) の伝達であるという点です。
 つまり、プレゼンテーション では、以下の諸点が、テーマ と同じように、良否をきめる評価点になります。

  (1) 発声のしかた、声の抑揚、話す速度、間の取りかた
  (2) 身振り、手振り
  (3) 服装

 これらは、プレゼンテーション の評価のなかで 50%の比率を占めている、と思ってよいでしょう。
(なお、もう 50%は テーマ です。)

 私が聴いた プレゼンテーション のなかで最高だったのは、キリスト 教宣教師 (米国人) の プレゼンテーション です。
 米国では、日曜日の朝、キリスト 教宣教師の講演を テレビ で放映しているのですが、(私が米国に出張していたときに) 10年ほど前に聞いた宣教師の講演は、今でも、思い浮かべることができる。
 ウィリアム・シャトナー (米国人の俳優、「スター・トレック」 の カーク 船長役) に似た顔つきで──美形というのは 1つの勝ち点ですね (笑)──、発声のしかた・声の抑揚・話す速度・間の取りかた・身振り・手振りのすべてが聴衆を魅了していました。それは プロ しかできない所作でした。

 我々 (講演の) シロート が、発声のしかた・声の抑揚・話す速度・間の取りかたを改めて訓練しようと思っても、時間の余裕がないので無理でしょうね (ほかにやらなければならない仕事が山ほどあるのだから)。
 本来なら、こういう基本的な テクニック は、(小学校から大学に至るまでの) 学校教育のなかで訓練されていなければならないはずなのですが、、、私が学生だった頃には (30年前まで)、日本の学校では、そういう科目はなかったけれど、以後 30年間、教育制度が 「改革」 されてきたそうですから、プレゼンテーション の科目は導入されていても当然だと思うのですが。我々には、そういう基本的な技術が身に着いていないのだから、せいぜい、はっきりとした声で話すことを肝に銘じるしかないでしょうね。

 
身振りをさかんにまじえた話しかたは見苦しい。

 身振り・手振りについては、欧米人の ジェスチャー を真似して、プレゼンテーション のなかで、両手を バタバタ と忙しく動かす人たちを多く観ますがみっともない [ 下衆 (げす) い ]。
 日本語は、ほとんど、身振り・手振りをひきおこすことのない音節・拍を特徴としています。すこしも うごかないで朗読を聞かされるというのも困りますが、多くの ジェスチャー をまじえたしゃべりを聞かされるのも閉口します。ジェスチャー をさかんにまじえたしゃべりを聞いていると、フォルティッシモ だらけの音楽を聞いているようで疲れます。
 強調したいことをしゃべるときに、身振り・手振りが出る、というのが自然でしょうね。

 服装については、「コンサルタント の服装」 (214 ページ) を読み返してください。

 
「here and now」、プレゼンテーション は一過性の・再現できない 「生演奏」 である。

 さて、たとえば、講演なら、聴衆した人々が、帰宅途上、興奮冷めやらない、という状態にあれば、最高の講演でしょうね。一過性の・再現できない プレゼンテーション ですから、プレゼンテーション の最中は、「いま、ここで(here and now)」、全身全霊を打ち込んでください



[ 読みかた ] (2008年 9月 1日)

 私は、過去 20数年のあいだに数え切れないくらい多数の プレゼンテーション を おこなってきましたが、いまだに、プレゼンテーション を嫌いですし、どちらかと言えば、(話しかたを訓練されていないので、) 下手くそなほうです。でも、私は、それを恥じ入ってはいない。というよりも、以前に綴りましたが、話しかたを専門の仕事にしていないひとが、プロフェッショナル 並に話す様を私は 「いかがわしい」 と思っています。というのは、アナウンサー の職業のような・話しかたの プロフェッショナル は、色々な話題を 「聞きやすく」 報道するのが使命なので、話しかた そのものが プロフェッショナル としての証ですが、われわれが プレゼンテーション する理由は、われわれの専門領域のなかで、なんらかの話題になっている テーマ に関して話すのであって、つねに、われわれの専門家としての テーマ が問われています──そして、その テーマ は、環境変化のなかで、つねに移ってゆくので、たとえ、同じ テーマ を選んだとしても、1年前に語った中身と今語る中身は違ってくるはずです。だから、話しかたが巧みでも、型に はまった視点・意見しか語れないのを聴けば、「もっと研究しなさい」 と皮肉のひとつでも言いたくなります。

 もし、専門家として なんらかの意見を述べるのであれば、しかじかの テーマ に関して、かくかくの問題点・争点があるので、じぶんは、かくかくの視点で、しかじかの取り組みをやっていますというふうな 「報告」 になるはずです。そして、そういう プレゼンテーション であれば、まっすぐに、テーマ に向かいあうことになるので、噛みしめるように logical thread を辿るはずです。プレゼンテーション なので、勿論、書物ほどの精確な定義・構成を示すことはできなのですが、それでも、着想が ひとつの構成に至る様を伝えることはできるでしょう。そして、Logical thread が明らかであれば、プレゼンテーション は漂流しないでしょう。この点が、プレゼンテーション の一次的考慮点だと思います。したがって、それ以外は、二次的な所作にすぎない。ただし、「語る・伝える」 ことが プレゼンテーション の目的の ひとつですから、「はっきりとした口調」 で語るのは当然のことです──或る気象予報士 (女性) が、民放 テレビ の天気予報 [ 朝の放送 ] で、口を ほとんど開けないまま、早口に語っていたのですが、聞き苦しい (私には、彼女の言っていることがほとんど聞き取れなかった)。彼女は、テレビ で番組を担当しているのだから、当然ながら、プロフェッショナル としての話しかたを習得しておくべきです。

 「いま、ここで──再現できない状態のなかで──、じぶんが考え得る 『意見 (の構成)』 に関して logical thread を明らかにしながら、はっきりとした口調で集中して語る」──これが、プレゼンテーション の わざ でしょうね。そして、それは、とても ふつうの やりかたであって、取り立てて、プレゼンテーション の 「匠」 などあるはずがない。




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  佐藤正美の問わず語り