2003年 9月16日 作成 | ハンドアウト の作成 (その 1) | >> 目次 (テーマ ごと) |
2008年10月 1日 補遺 |
ハンドアウト の作成自体は、以前に述べた 「サブノート の作成」 と同じなのですが── 154ページと 162ページ を参照してください──、ほかの考慮点を、3つほど お話しましょう。
(1) 最初から、簡潔な キーワード のみを綴った ハンドアウト を作成しない。 きょうは、(1) について、綴ってみます。(2) および (3) は、次回、お話します。 プレゼンテーション に参加していただいた人たちに、論点となる簡潔な キーワード を記述した ハンドアウト を配ることは 「悪くはない」 (not bad, but not so good)。ただし、(論点に関して豊富な知識があるとしても) ハンドアウト を作成する際に、キーワード のみを記述するやりかたは お薦めできない。
プレゼンテーション を聴いている人たちの反応を観ながら、プレゼンテーション を調整することを、前回、述べました。プレゼンテーション を調整する際、ときには、中味を変更することも起こります。 そのためには、テーマ 自体に関する知識ばかりではなくて、スラック (slack、「ゆるみ」 とか 「たるみ」) として、テーマ に関連する周辺知識も提示できるようにしておかなければならないでしょう。実際に配付される ハンドアウト の量に対して、周辺知識の情報量は、30 %程度の量を、いつでも提示できるように準備しておいたほうがいいでしょう。すなわち、100 ページ の ハンドアウト であれば、30 ページ ほどは、(実際に配付されないけれど) いつでも提示できる周辺知識として用意しておいたほうがいいでしょうね。プレゼンテーション の準備に対して労力を費やすというのは、スラック の準備に対して労力を費やすことをいいます。ハンドアウト のなかに記述されなかった膨大な知識が、プレゼンテーション の成功を導く杖です。
音楽の演奏では、(訓練を得た人たちが) 「楽譜」 を読めば、演奏される音楽を想像することができます。
書物ほどの詳しい中味は、ハンドアウト ではいらないけれど、ハンドアウト は、それぞれの論点に関して、3 階層 (主要概念、重要細目、例) から構成される 「やや詳細な」 記述のほうがいい。キーワード は、最初の ページ のなかにでも、列挙しておけばいいでしょう。ディベート の論理構成 (86ページ) を想い出してください。それを手本とすればいいでしょう。ディベート では、以下の 4点が基本的な構成項目と見做されています。 1つの proposition は(通常、)複数の issue から構成され、さらに、1つの issue は複数の argument から構成され、さらに、1つの argument は複数の evidence から構成されます。 |
proposition | issue | argument | evidence |
evidence | |||
argument | evidence | ||
evidence | |||
issue | argument | evidence | |
evidence | |||
argument | evidence | ||
evidence |
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[ 読みかた ] (2008年10月 1日)
本 エッセー の前半で、セミナー (あるいは、講演) の中身を──聴衆の反応を観て、──変更することがあると綴っていますが、たぶん、本 エッセー を綴った 5年くらい前までは、私は、そうしていたのかもしれないのですが、「相手意識と目的意識」 (238 ページ) の 「補遺」 (2008年 8月16日付) で綴ったように、私は、最近、そういうふうな やりかた を ほとんど やらない──あくまで、当初に案内した コンテンツ を粛々と語り進めることにしています。 本 エッセー で述べているように、私が じぶんの セミナー で用意する ハンドアウト は、事前にセミナー 案内で告知した コンテンツ を 「超える」 質・量をもっています。わずかな セミナー 時間わくのなかで語ることは、せいぜい、いくつかの キーワード と それらの キーワード のあいだの関連と、いくつかの具体例くらいにすぎないし──クラシック 音楽に喩えれば、 ひとつの整った交響曲を通しで聴くのではなくて、その交響曲のなかから じぶんの気に入った楽章のみを抜粋して聴いているような事態と同じであって──、書物ほどの精確な定義・構成を示すことができないので、それら (正確な概念・構成) を補うために、あるいは、セミナー を聴いて さらに学習を進めたいと思うひとのために、セミナー で語ったことが、どのような系のなかで どのような役割を果たしているのかを示すために、本 エッセー で述べたような周到な ハンドアウト を作成している次第です。 私は、或る セミナー (1 日 セミナー、有料)で、いつものように、ぶあつい ハンドアウト を用意していたのですが、そして、いつものように、ハンドアウト の中身を すべて 語ることができないので、「この ページ は、あとで読んでおいて下さい」 というふうに、半数ほどの ページ を読み飛ばしたら、セミナー の事後 アンケート で 「高い セミナー 料を払っているのに、ハンドアウト を読めば わかるというのは論外」 と非難されて 「たいへん悪い」 という評価をされました。私のほうでは、寧ろ、1 日の セミナー では入手できない情報を惜しみなく与えたつもりだったのですが、、、ちなみに、ハンドアウトは、「見開き 1 ページ」 形式で、左 ページ には、書物のように文を綴って、右 ページ には (左 ページ の論旨を まとめた) 図を記述してあるので、「あとで読める」 ようになっています。件 (くだん) のひとは、これほど多量の情報を 1 日で学習できると思ったのかしら、、、それとも、そういう ハンドアウト を止めて、多数の キーワード を 1 日くらで語ることのできる数に制限して、それらの キーワード を説明して、聴いている人たちが 「わかったつもり」 になってもらうほうが ウケ がいいのかしら、、、(ただし、私には、そういうことはできないし、そういうことをするつもりもない)。 キーワード というのは、膨大な概念を圧縮した符牒であって、ひとつの キーワード の意味を共有するためには、当然ながら、その キーワード がでてきた土壌 (対象領域) に身を置いていなければならない。言い換えれば、キーワード は、その領域の専門家たちが専門的知識を圧縮して伝達するときに使う符牒であって、その専門領域にいないひとが キーワード のみを聴いて事態を推測することなどできないし、もし、そういう推測をすれば、たいがい、本来の 「意味」 を外してしまうでしょう。なぜなら、キーワード として総括される対象になった多量の evidences や──当然ながら、「例外」 もふくみますが──、それらの evidences を一次的資料として使った argument (あるいは、warrant) は、それぞれの研究領域で それぞれの妥当とみなされた やりかた があるから、evidences も argument も示されないで キーワード のみを説明されても、その研究領域のそとにいるひとには理解できないでしょうね。 本 エッセー では、ハンドアウト を 「楽譜 (スコア)」 に喩えましたが、音符 (個々の evidence) を並べて──「並べる」 というのは 「構成する」 ということであって、文法に従った論証という意味ですが──ひとつの 「作品」 を作ることは、およそ、どの研究領域でも同じ行為だと思います。 |
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