2004年 4月 1日 作成 | 読書のしかた (書物の選びかた) | >> 目次 (テーマ ごと) |
2009年 4月16日 補遺 |
● 多読というのは、読書を、そうとうに積んできたあとで、意識される。
1つの概念を理解するためには、ほかの概念と比較するか、あるいは、1つの公理系として、推論の飛躍がないことを証明するしかないでしょうね。公理系として検討するためには、論理学や数学を前提とするので、普段の読書では、公理系の検討をするようなことは、まず、起こらないでしょうから、概念を比較・対比するやりかたが、理解のための手段でしょうね。とすれば、数多くの概念を習得していればいるほど、思考に対して役立つ、ということです。
とすれば、多読が良い、ということになります。ただし、多読するためには、1つの前提があるのですが。その前提というのは、「思考を促す」 あるいは 「情操を養う」 ということです。つまり、書物が提示している概念を 「咀嚼」 する、ということが前提です。「咀嚼」 するには、それなりの日数 (あるいは、月数、年数) を費やすことになります。とすれば、多読と云っても、読むことができる書物の数は、「咀嚼」 との相関関数のなかで調整される、ということですね。
実は、基礎概念というのは、「入門書」 を読んでも習得できないのです。基礎概念を確実に理解するためには、専門家向けの文献を読まなければならないのです。でも、いきなり、専門家向けの文献を読むことはできないでしょうから、それを読むための準備として、「入門書」 を読むのです。「入門書」 というのは、それぞれの領域のなかで、どういうことが対象になっているか、という大まかな フレームワーク を提示しているにすぎない。したがって、「入門書」 を読んで習得した基礎概念を振りかざして議論しても、竹光を振りかざして、チャンバラ ごっこをしているにすぎない。 さて、書物の選びかたですが、基本的には、仕事関係の書物は、もっとも新しい文献を読み、教養としての書物は、古典を読むのが良いでしょう。ただし、自らの専門領域では、現代の思想・技術の根底となっている古典も読むことは当然でしょうね。古典は、精読しなければ、理解できないでしょうね。古典を読み返して、消化して、同化して、自らの思考を促すように再生しなければならない。 古典のなかから、自らが読む書物を選ぶには、友だちを選ぶようにすればいいでしょう。古典は、作文技術の才として遺ったのではなくて、一人の 「人間」 の生々しい思想 (考えかた) が継承されてきたのです。たとえ、それが、学術論文であっても。たとえば、ゲーデル 氏の 「不完全性定理」 を読んでみてください。私が言っていることを理解できるでしょう。
友だちとつきあって、おたがいに、切磋琢磨するように、古典を興味深く読んで、自らの思考を促すことが、古典を選ぶ判断規準になるでしょう。読んでいる書物に対して興味を感じなければ、読書は、金輪際、時間の浪費です。
(1) 仕事関係の読書は、「入門書」 を、数冊、読んだら、専門家向けの最新版の文献を、多数、読む。 |
[ 読みかた ] (2009年 4月16日)
本 エッセー のなかで綴った文 「読んでいる書物に対して興味を感じなければ、読書は、金輪際、時間の浪費です」 「興味を感じた書物のほかは、読まない」 は、字句だけを読めば misleading になりそうな文ですが、それらの文の前提として、「古典」 を まず読んでいることを置いています。「古典」 が たとえ みずからの意見と反対の意見を述べていても 丁寧に読んでいるという前提に立って、(「古典」 を起点にして、) 「興味を抱いた」 点を 「芋ずる式」 にたぐって読書範囲を拡げればいいでしょう。「なにを読めばよいか」 迷っているのならば、「なにを読めばよいか」 を述べた解説書を いくつも読み漁るよりも、「古典」 を まず読めばいい。 本 エッセー のなかで注意しましたが、「入門書」 を読んでも、基礎概念を理解することはできない。「入門書」 は、その対象領域の体系 (あるいは、視点) を示していると思ったほうがいいでしょう──勿論、その体系は ひとつではなくて、「入門書」 ごとに (言い換えれば、著者ごとに) 視点が違うという点も注意していてください。したがって、「入門書」 は 1冊だけ読めばいいのではないのであって 3冊か 5冊ほど読んでください。そして、3冊か 5冊ほど読んだら、もう、「入門書」 を読まないで、専門書を読めばいい。「入門書」 を 10冊読んでも専門家になれない。 書物を執筆する側から言えば、書物を執筆する順は、「中級 → 上級 → 初級」 となります。すなわち、著者は、膨大な事例と それらを資料にして検討した説をもっていて──その説を検討するために執筆されるのが 「専門書」 なのですが──、それらの事例・説を前提にして 「入門書」 を綴ることになります。膨大な事例や それらを資料にして構成された説を 「入門書」 として ページ 数の限られた書物にするのだから、当然ながら、詳細な・正確な定義を述べることができないし──「入門書」 の体系のなかで misleading にならない程度の定義を導入することになりますが──、説を正当化するための事例も ほとんど省略することになります。したがって、「入門書」 を読んでも、正しい (正確な) 概念を習得できる訳ではないというのが 「入門書」 の性質です。逆に言えば、「入門書」 は、その対象領域を そうとうに研究してきた専門家のみが執筆できる書物です (私は、いままで 9冊の著作を上梓してきましたが、「入門書」 を執筆できる段階にないことも正直に述べておきます)。専門的知識の量・質を持ちあわせていないひとが 「入門書」 を綴っても、綴られていることには幅も深さもない──そもそも、専門的知識の量・質を持ちあわせていないひとが 「視点」 を示すことなどできないし、そういう薄っぺらな書物が seminal な性質をもっている訳がない。専門家は、40歳を超えるまで──専門的研究を そうとう程度に積むまで──「入門書」 を執筆しないというのが専門家のあいだで口伝になっているほど、一通りの知識を一つの まとまった体系として構成するのは難しいのです。「入門書」 であれば専門家が執筆しなくても良いというのは間違いです。 |
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