2004年 5月 1日 作成 | 読書のしかた (書物の読みかた) | >> 目次 (テーマ ごと) |
2009年 5月16日 補遺 |
書物の読みかたと ノート の作りかたについては、以前、取り扱っています (146ページ と 150ページ)。
(1) 或る研究領域を、はじめて、対象にして、入門段階の知識を正確に入手する。 いずれにしても、以上の読書のやりかたは、読書対象 (人物の思想、事態の論点など) を、記述の体系に沿って、正確に、個々の概念を理解して、それぞれの概念の関係を理解することを目的としています。したがって、こういう読書のやりかたでは、以下の 2点が論点となります。
(1) 正確性 (個々の概念に関する記述) 喩えてみれば、外科医が、生きた肉体を対象にして、メス を使って丁寧に手術するように、こういう読書は、書物を対象にして、鉛筆を使って丁寧に解読する作業です。こういう読書の訓練は、中学校および高等学校でやっているはずですが、遺憾ながら、こういう読書を、ちゃんと、できる人たちが少ないようです。言い換えれば、記述されている趣旨を正確に読み取れない人たちが多いようです。本当の読書というのは、根気のいる単調な──しかし、めいっぱいの思考力を使う──作業なのであって、「手っ取り早く」 理解できるような キーワード に訴える論点は、比較的にわずかであって、きびしい訓練を積んではじめてやりとげることができるといった作業です。
読書では、知力が、直感に比べて、正当であることを痛感するでしょうし、手っ取り早い──したがって、丁寧に咀嚼されていないし、批判 (あるいは、検証) されていない──信念などは価値がないことを痛感するでしょう。 上述した丁寧な読書では、概念を検討して純化するので、書物の提示した論点が、実は、すでに述べられてきた概念の焼き増しにすぎない──したがって、参考文献として記載しなくてもよいし、再読することもない──か、あるいは、新たな概念や新たな視点を提示しているので、今後も、検討に値する書物であるか、ということを判断できるでしょう。 丁寧な読書を、かならず、いくどか、繰り返すことになるでしょうね。というのは、新たな研究領域に関与するときとか、師と仰ぐ人物の著作を読むときとか、書物を執筆するなどの機会があれば、かならず、こういう読書をすることになるから。 気晴らしに読書することも趣味の 1つとして大切な行為です。そういう読書は、寝そべって、興味の赴くままに、書物を読んでも良いでしょう。しかし、知識を得る読書では、読書の際、鉛筆を手にして、概念や論旨を見極めるやりかたが正当なやりかたです。 ウェッブ の或る ページ では、「いくども読み返さなければ、論点を把握できないような書物は、実務的ではない」 などという言いたい放題が綴られていたそうですが、提案書や企画書なら、一回読めば理解できるような中身でなければならないけれど、およそ、思想 (考えかた) を扱った書物を、一回読よめば理解できなければならないという言いかたは、「実務家は アホ です (あるいは、逆に、天才です)」 と言っていることと同値でしょう (苦笑)。コッド 氏 (Codd, E.F.) の難解な論文が、どれほど、実用的であるか、ということを考えてみればいい。そして、コッド 氏の論文を、一読して理解できる人など、そうそう、いないでしょう。コッド 氏の論文は、読み返すたびに、新たな着想を得ることができます。 一回読めば理解できるなどという小賢しい読みかたをする人ほど、書物の中身を即断し早とちりして、書物が論証している意見とは外れた概念を抱くようです。日本語をしゃべることができれば、日本語で綴られた文を、直ちに、正しく理解できる、ということにはならない。読書というのは、訓練のいる周到な作業です。 |
[ 読みかた ] (2009年 5月16日)
「ことば (語彙) は、文脈のなかで 『意味』 を帯びる」 のであれば、文脈から切り離された キーワード は 「意味」 が曖昧でしょうね。私は、モデル を作る仕事に就いているので──あるいは、少なくとも、システム・エンジニア という職に就いているので──、キーワード など単なる 「記号 (文字列)」 としか見ていない (なんらかの キーワード を、「オロンガ、オロンガ、アババ、モロンバ、モローバ」(参考) と言い換えても同じです)。もし、世間の口上になっている キーワード で興味を惹くような語があれば、システム・エンジニア は、かならず、その キーワード を具体的な文脈のなかに入れて概念 (意味) を確認するのでしょう。 書物を読んで その書物の主張を 「正確に」 把握するというのは、(本 エッセー のなかで述べたように、) 非常に難しい作業です。主張そのものは、たぶん、一文で記述できる簡単な意見になるでしょうが、その主張は、当然ながら、いくつかの 「前提」 (そして、制約) を置いているし、かつ、いくつかの 「定理 (論理法則)」 を使って推論されていて──時には、いくつかの 「例」 を示していて──、「構成」 を正確に追跡するのは根気のいる解析作業です。これほどの解析作業を、一度の読書で おこなうことができるというのは 「聖徳太子」 (七つの話を一度に聴くことができたという逸話が遺っています [ でも、ほんとうかしら ? ]) くらいでしょう──フォン・ノイマン 氏は、そういうことができたそうです [ この逸話は実話のようです ]。われわれは天才ではないのだから、丁寧に読むしかないでしょうね。そういう丁寧な読書を はしょって、一読して批評を述べているような ヤツ は気取っているにすぎない。 読書 ノート を作成するには、その書物を 「最低限」 3回読むことを かつて 述べました (本 ホームページ の 146ページ を参照されたい)。勿論、3回以上読まなければ理解できないこともあるし、数多く読み返しても、現時点で、じぶんの FOR (Frame of Reference) では理解できない [ 将来に持ち越す ] ことも起こるでしょう。いずれにしても、書物に述べられている思想を理解するというのは、根気のいる作業でしょうね。 そして、或る書物を丁寧に読み込んで、その意見を理解したとしても──その意見が たとえ 或る構成のなかで完結しているように思われても──、意見 (言明) には完了など絶対にないということを知っておくのは大切でしょうね。完結している状態というのは、或る範囲 (あるいは、前提) において妥当であるということであって、その閉じられた範囲の外 (そと) には、その閉じられた範囲と接触している広大な世界があるので、閉じた範囲を拡張できるかもしれないし、あるいは、或る限られた範囲のなかで使われた前提を変えることもできるかもしれない。そういうふうに 「芋づる式」 に読書を拡げていけばいいでしょう。あるいは、もし、いままでの読書のなかで いくつかの概念が それぞれ併存しているのであれば、それらの概念を統括する関係を考えるのもいいかもしれない。 (参考) 昔の テレビ 番組 「少年 ケニア」 のなかで、現住民族が使っていた語です。この語は、われわれにとって、単なる文字列であって、「意味」 を理解できないでしょう。 |
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