2004年 8月16日 作成 読書のしかた (再読) >> 目次 (テーマ ごと)
2009年 9月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「再読」 について考えてみましょう。

 
初心のほどは かたはしより文義を解せんとすべからず

 本居宣長(注 1) は、「うひ山ぶみ」(注 2) のなかで、以下のように述べています。

   初心のほどは かたはしより文義を解せんとすべからず
   まず 大抵に さらさらと見て 他の書にうつり かれやこれやと読みては
   また さきにみたる書へ立ちかへりつつ 幾遍もよむうちには
   始めに聞えざりし事しも そろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也

 
 本居宣長は、儒教・仏教を排して、古道に帰ることを説いた人なので、仏教 (禅) を奉ずる私としては、彼の考えかたを、かならずしも、承諾している訳ではないのですが、「うひ山ぶみ」 は、一読を お薦めします。
 「うひ山ぶみ」 は、入門段階にいる人たちに対して、学問論・読書論として綴られた書物です。この書物は、現代人でも、古語辞典を使わなくても、読むことができる平明な文で綴られています。

 さて、本居宣長は、以下のように、助言しています。

 (1) 文章の意味を、かたっぱしに、理解しようとしてはいけない。
 (2) まず、さらさらと、おおよそに読む。
 (3) 他の書物を、あれこれと読む。
 (4) 最初に読んだ書物にもどって、いくども、読み返す。

 私が 「うひ山ぶみ」 を読んだのは、かれこれ、30年くらい前のことだと思います。
 それ以後、私は、彼の助言を、忠実に守ってきました。

 
他の書にうつり かれやこれやと読みては また さきにみたる書へ立ちかへりつつ 幾遍もよむ

 たとえば、32年前に、「論理哲学論考」 (ウィトゲンシュタイン 作)(注 3) を読んで、その後に 「うひ山ぶみ」 を読んで、「うひ山ぶみ」 の助言が役立ちました。「論理哲学論考」 は、以下の文で、始まります。

   世界とは、その場に起こることのすべてである。

 もし、語義を、丁寧に理解しようとすれば、最初から躓いてしまいますね (笑)。
 ちなみに、「世界」 という意味を、我々を取り囲んでいる実世界として理解すると、「論理哲学論考」 を、間違って読んでしまうことになるでしょう。「論理哲学論考」 では、「世界」 は、「論理的」 空間のことです。そして、途中から、なんと、意味が、やや変質して、「世界は生と1つである」 とも綴られています。

 「論理哲学論考」 を、さらさらと 一読しても、おおよそにも理解できないでしょう (笑)。
 「論理哲学論考」 に関する注釈書・解説書を、多数、芋ずる式に読んで、いくども 「論理哲学論考」 にもどって読み直しました。そういう作業を、いくども、くりかえしているなかで、「論理哲学論考」 を、次第に、読むことができるようになりました。「正法眼蔵」 (道元 作)(注 4) も、そういう読みかたをしました。
 私の考えかたに対して、多大な影響を及ぼした書物は、すべて、そういう読みかたをしてきました。

 自らの考えを拡げて、かつ、深めるために、書物を読むということは、自らの都合の良いように読むということではない。しかし、うっかりすると、さっと一読して、おおざっぱに理解して、いっそうの読書を進めないまま、一読した文意を拡大解釈してしまうことがあり、わかりきっていると思われる基本概念を軽視してしまいます。理解したと思いこんでしまうと、正確な意味を知ることができなくなってしまい、概念が、空回りしてしまいます。

 「この基本概念を、いったい、確実に知っているのか」 ということを問いただしてみればよいでしょう。問い詰めていけば、かならず、いずれ、あやふやな点と向きあうはずです。その あやふやな点は、「直接に知っている」 事物を引用すれば、消え去るのかどうか、という点を確認すればよいでしょう。

 入門というのは、起点であり、終着点です。本居宣長の助言は、入門段階にいる人たちに向って述べられているのですが、或る程度、研鑽を積んだ人たちにも通用します。初心忘れるべからず、ますますの初心忘れるべからず。

 
(注 1)
 江戸時代中期の国文学者。 国学四大人の一人。
 賀茂真淵に師事して、古道を研究し、30余年を費やして「古事記伝」 を完成した。

(注 2)
 国学 (広い意味では、学問) の入門書。 1798年 (寛政10年)、69歳の作。
 弟子たちの頼みに応じて執筆された。

(注 3)
 正式名称は、「Tractatus Logico‐Philosophicus」。
 生前刊行された唯一の書物 (1922年出版、英独対訳版、ラッセル 序文)。
 言語を前提にした世界認識の構造として、事実認識と価値判断を切り離して、科学的認識の領域を限界づけた。

(注 4)
 仏法の神髄を和文で綴った書物。
 75巻本、12巻本、95巻本がある。 ほかに、「真字正法眼蔵 (漢文体)」 もある。

 



[ 読みかた ] (2009年 9月 1日)

 本 エッセー の表題 「再読」 のなかで 「うひ山ぶみ」 を引用していますが、私は、今年、「うひ山ぶみ」 を再読しました。今年、本居宣長の著作群を丁寧に読んできて──ただし、「古事記伝」 を除いて──、その読書のなかで 「うひ山ぶみ」 も再読しました。ちなみに、「うひ山ぶみ」 は、彼の畢生の大作 「古事記伝」 を脱稿したあとに記された著作です [ 彼が 69歳のときの著作です ]。彼が弟子たちに 「学びかた」 を示した著作なので、「古道学」 を基底にしていますが、「古道学」 に無縁の人たちでも 「学ぶ」 というのは どういうことか を 「ひとつの道を究めた」 英才の言として聴くことができるでしょう。「うひ山ぶみ」 のなかで宣長曰く、(参考)

    しょせん学問はただ年月長く、うまずおこたらずに、はげみつとめることが肝要である。まなび方は
    いかようにしてもよいだろう。さして拘泥するにはおよぶまい。方法がどれほどよくても、おこたって
    つとめなければ効果はない。

    さてまたおいおい学問に入りこんで、事の筋道もおおかたは合点のゆけるほどにもなったときは、
    どの書でもあれ、古書の注釈を作ろうと、早くこころがけるがよい。ものの注釈をするのは、すべて
    大いに学問のためになることである。

    語の詮議とは、もろもろのことばにつき、そのようにいう本来の意味を考えて、これを釈 (と) くこと
    をいう。(略) されば、ことばはすべて、そのようにいう本来の意味を考えるよりは、古人がこれを
    どう使ったかをよく考えて、しかじかのことばはしかじかの意味に使ったということをあきらかに
    きわめ知ることこそ肝要である。

 彼は、さほど難しいことを謂っている訳ではないのですが、われわれが うっかりすると忘れてしまうことを的確に撃ち抜いていますね。上に引用した文の対極にあるのが、「法則」 さえ覚えれば (実際に それを事態に適用して起こる帰趨を観ないで、) 事態をわかったつもりになる態度でしょうね。あるいは、「学びかた」 (学問の 「方法論」 とか「総論」) ばかりに興味を示して、それを実際に適用した個々の実証を軽視する態度ですね。上に引用した文では、「学ぶ」 という行為は、当然ながら、同じ対象に対して くり返し向きあうこと [ 再応・反復 ] を前提にしています。

 
(参考) 「宇比山踏」、石川 淳 訳。
     中公 バックス 日本の名著 21 「本居宣長」、石川 淳 責任編集。





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  佐藤正美の問わず語り