2004年12月16日 作成 読書のしかた (無相の相) >> 目次 (テーマ ごと)
2010年 1月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「無相の相」 について考えてみましょう。

 
 前回、「源泉の感情」 について述べました。「源泉の感情」 として感応できる作品は、自らの考えかたに対して、基底を形成するので、往々にして、それが 「最高の」 作品であると考えて、他の作品を軽蔑する罠に陥るようです。読書というのは、そもそも、「囚われない」 思考力を養うことが主眼であるはずが、うっかりすると、1つの型に填った思考しかできない罠に陥ってしまうようです。その罠に気づかないままでいれば、いつのまにか、「(この考えが、唯一、正しい、というような) 固定観念」 や 「(ほかの考えかたを見下げるような) 対立意識」 や、「(こうあるべき、というような) 当為癖」 が出てくるようです。

 そういうふうに 「囚われてしまった」 自惚れは、事物が眼前で起こっているにもかかわらず、事物を凝視しないで、自らの抱いている概念を、そのまま、事物に宛おうとしがちです。まるで、自らが、すべてを知り尽くして、見通しているかのように。

 聖徳太子曰く、

          事は無為を以て事と為し、相は無相を以て相と為す。

 
 「無為」 や 「無相」 という東洋的な概念が、(西洋的思考に慣れた) 現代の若い人たちにとって、どのくらい、認識されているのか、という点は、はなはだ、危ういのですが──世代的に観て、TH さんや私も、こういう概念に対して、きわめて、興味を抱いて調べていなければ、認識できないのですが──、「無為」 や 「無相」 は、「いい加減 (無責任)」 という意味ではなくて、「囚われない」 という意味です。言い換えれば、「(せっかちな) 即断をしない」 という意味です。「割り切る」 の反対語だと思っても良いでしょうね。

 したがって、「無為・無相」 は、下手をすれば、「確固たる態度」 と対極になる概念かもしれない。「下手をすれば」 と言った理由は、「無為」 も 「無相」 も、ちゃんとしていれば、きわめて、確固としているのですが、「ぐずぐずした」 態度と混同されるかもしれない。「無為」 と 「無相」 が、どうして、確固たる態度になるのか、と言えば、「無為」 も 「無相」 も、「自由」 という意味だから。認識や理解に対する我執を拒絶する態度だから。

 我執を排除する 1つの手段が読書だ、と私は思っているのですが、「自らを形成するために、読書する」 というふうに考えれば、間一髪、逆転現象が起こるでしょうね。ただ、(私は、さきほど、「無為・無相」 が東洋的概念だと言いましたが、) 西洋的な考えかたでも、「汝自身を知るために」、研鑽しても、知り尽くすことができないし、自らの考えかたが間違っていると思えば、間違いを潔く訂正する態度というのは、「無為・無相」 と、一脈、通じるようですね。いずれにしても──東洋的であれ、西洋的であれ──、我執を排除する、というのが、正しい教養のようです

 西洋では、我執に陥らない手段 (概念) として、「justice」 という概念が、主張の前提にあるようです。「justice」 は、「正義」 として、1つの独善的な観点を貫くのではなくて、「equality (対等、あるいは、そのものがもつ価値を正当に評価すること)」 を配慮する概念です。

 読書は、知識の貯金ではない、という点を忘れてはいけないでしょうね。

 



[ 読みかた ] (2010年 1月 1日)

 私は、いかなる場合でも、「決め打ち (決め付け)」 すること──相手の謂うことを傾聴しないで、相手の説を断じて言い切る (要約する) ことや、じぶんの説のほうだけのことを考えて押し通す──を嫌っています。その思いを 本 エッセー で綴ってみました。

 「決め打ち (決め付け)」 を嫌う私の態度は、本 エッセー で言及した 「聖徳太子」 の著作から学んだのではなくて──本 エッセー で述べているように、私には、そもそも、「無相」 という難しい概念を若い頃に悟り知り得た訳でもないので──、たぶん、書物を多数読んできて、さらに、多くの人たちと知りあって、それらの つきあい のなかで醸成されてきたのだと思います。

 特に、私の かつての上司 (ビル・トッテン 氏) と仕事をしてきて、仕事のなかで、私は justice という概念を学んだように思います。かれは、新しい事業を起こすとき、つねに、かれの考えを検証するために、私を対話相手にして、私に devil's advocate を演じるように指示していました──すなわち、私が たとえ かれの意見に賛同していても、かれの意見に対して反対する論を述べるように指示していました。そして、かれは、私が提示する反論の 一つ一つに対して、丁寧に反証を示して、かれの主張を補足し整合的な意見として整えていました。私は、そういう体験を通して、賛否両論を対等に扱うことを学びました。そして、そういう体験で得た意識 (我執を排除して、賛否両論を公平に傾聴する意識) を いっそう確認できたのが読書です。





  << もどる HOME すすむ >>
  佐藤正美の問わず語り