川端康成のことば (作品「末期の眼」から引用):
芸術家は一代にして生まれるものではないと、私は考へてゐる。父祖の血が幾代かを経て、
一輪咲いた花である。...また一方、旧家の血はたいてい病み弱まってゐるものだから、
残燭の焔のやうに、滅びようとする血がいまはの果てに燃え上がったのが、作家とも見られる。
既に悲劇である。
小生は、いま、51歳である。今年、52歳になる。50歳を超えて、自らの人生をふりかえれば、「(知識の) 進歩」を認めて喜ぶのではなくて、人生に対して、言い知れぬ 「悲しみ・恨み」を、痛切に感じている。小生は、臨終の間際、一筋の涙 (悲しみ・恨みの涙) を流しそうな気がする。そういう気がするようになった理由は、小生が、年老いたからか、、、。小生は、若い頃、「前進」している手応えを感じて、自らの「成長」を喜んでいたが、いま、悲しみを感じるのは、(このさきには、力量が落ちるしかない、という) 「滅びゆく自覚」か、、、。
燃え切ってしまうまでに、自らが生きた証として、はたして、どのような作品を作ることができるのか、、、。
自らの痕跡を遺さぬままに、きれいさっぱりと、人生の舞台を降りるほど、小生は、落ち着いてはいない。足掻いた爪痕でも遺したい。そして、いっぽうでは、こういう執着を、「下衆(げす)い」 俗物として、軽蔑する思いも、つよい。
さて、戸惑いを抑えるために、新たな年に向かって、年間計画を作成するか、、、。