2005年 3月16日 作成 読書のしかた (科学書と哲学書) >> 目次 (テーマ ごと)
2010年 3月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「科学書と哲学書」 について考えてみましょう。

 
 私は、(事業のなかで使われている データ を対象にして、) データ 構造を設計する仕事をしていますが、データベース に関する技術書を、ほとんど、読まない。「読まない」 という点を勘違いされたら困るので、少々、注釈を施しておきましょう。「読まない」 という意味は、「無視して読まない」 とか 「怠けて読まない」 ということではない点を、まず、明示しておきます。読みたいのですが、読む余裕がないです。ラスキン 氏(美術評論家)は、読書に関して、以下のように、時間的制約を的確に述べています。

    「人生は短い。この書物を読めば、あの書物は読めないのである。」

 私には、ほかに読まなければならない書物が多数あるので、データベース に関する技術書を読む (選ぶ) 余力がないのです。

 私が データベース に関する仕事を選んだのは、30歳頃です──今から逆算すれば、20年以上も、昔のことです。そして、当時、4年ほど、DBA (Data Base Administrator) として、仕事をしました。当時、私の仕事は、(RDB が、日本では、いまだ、使われていない状態だったので、)RDB を日本のなかに導入して普及することでした。そのために、RDB の プロダクト (DATACOM/DB) を、あたかも、逆解析するように、徹底的に分析して──幸いなことに、RDB を作った天才的な エンジニア たちから、直接に、指導を得ることもできましたし──、プロダクト の mechanism を調べて、プロダクト の運用技術を習得して、(プロダクト の) サポート・エンジニア や ユーザ を指導するのが私の仕事でした。
 したがって、DBA と云っても、現代の DBA とは、若干、仕事の中身が違っていて、どちらかといえば、プロダクト を作った エンジニア と DBA との中間にいるような仕事でした。そういう状態でしたから、私が、当時、読んでいた書物は、マニュアル をはじめとして、ほとんど、技術に関する文献でした。

 そして、私は、(プロダクト の マニュアル を再体系化して、さらに、プロダクト を作った エンジニア たちから 「聞き覚えた」 知識を加味して、)1,000ページ を超える マニュアル (「Data Base Administration」 という サブノート、英文、非売品) を作成しています。その マニュアル を、(サポート・エンジニア および懇意な ユーザ に謹呈するために、) 50部ほど コピー したら、意外なことに、プロダクト (DATACOM/DB) に付属する言語を作っている エンジニア たち (米国 ニュージャージ 州) や、香港の代理店から注文がきました。この話は、当時を想い出して、私の自慢話です(笑)。
 さて、当時、それくらい、一生懸命になって、私は、マニュアル や (データベース の mechanism に関する) 専門文献を読んでいました。

 30歳代のなかば頃、私は、DA (Data Administrator) に転職しました。そのために、(データベース の mechanism に関する書物を読まなくなって、) データ 設計に関する文献を読むようになりました。データ 設計に関する書物を読みながら、データ 設計の 「理論」 を──そのなかでも、コッド 関係 モデル を──、実地に使うようにするための工夫をして、30歳代の後半になって、T字形 ER手法を作りました。この頃から、私の人生計画が 「狂ってしまった」 (笑)。当初の計画では、DA をやって、コンサルタント になって、仕事の収入を増やして、貯蓄して、りっぱな家を建て、(仕事を、60歳で辞めて、) 趣味に専念するはずだった。いまでは、当初の計画から逸脱して、私は、研究に専念するために、仕事を減らしているので、収入が少なくて、貧乏なまま、「ウサギ 囲い(rabbit hutch)」 のような小さな・古い (ボロな) アパート に住んでいます。では、私の人生は 「失敗だった (failed)」 のか、と問えば、私は、そう思っていない (笑)。

 T字形 ER手法を作ったら、モデル として、無矛盾性と完全性を証明しなければならなくなった。T字形 ER手法は数理 モデル ではないので、無矛盾性や完全性を証明しなければならない、という訳ではないのですが──(理論的な検証を無視して、) 簡単に使うことができる技術として、理論的な検討を省いて、もし、齟齬が出れば、そのつど、対応すれば良い、というふうに考えても良かったのですが──、少なくとも、1つの モデル であれば、「使っていて、破綻しない」 ということを証明しなければならない。
 T字形 ER手法を理論的に検討するために、私の読書は、数学・論理学・哲学の書物が対象になった。

 過去 10数年のあいだ、私の読書傾向は、コンピュータ 技術に関する書物が消えて、数学・論理学・哲学の書物が、高い比率を占めるようになりました。限られた日々 (時間) のなかで、数学・論理学・哲学の書物を読めば、ほかの書物を読むことができない。

 科学書は、一般の読者が嫌がる数式を除いてあれば、そして、読者が、中身を、すべて、理解しようなどと思わなければ、おおいに読んだほうが良い書物でしょうね。というのは、物理学・生物学の一般向け書物は、我々の視野を広めてくれます。小説を読んでも、そういう知識を得ることはできない。
 ただし、科学書の (そして、コンピュータ 技術書の) 寿命は、10年くらいでしょうね。科学理論や コンピュータ 技術は、日進月歩に、改良が進められます。私が執筆した書物のなかで、寿命が一番に長かったのは、「クライアント・サーバ データベース 設計技法」です。一昨年 (2003年)、絶版にしました。1993年の出版ですから、ちょうど、10年目に絶版にしました。その書物のなかで、前半に綴ってある データ 設計技法は、いまでも、「或る程度」 通用するでしょうが、後半に綴った クライアント・サーバ に関する技術は、1990年代の終わり頃には、もう、古い技術になってしまいました。

 科学書に比べて、数学・論理学・哲学の書物は、比較的、寿命は長い。当然ながら、数学・論理学・哲学でも、専門家にとっては、10年前の理論が、いまでも、通用する訳はないのですが、我々 シロート にとっては、「古い」 書物でも、着想を得るための材料として、最高級の書物でしょうね。
 たとえば、アリストテレス に比べて、(現代に生きている) 我々は、豊富な 「知識」 を得ていますが、「思考 (思うこと、考えること)」 に関して、我々は、(2,300年以上も前に亡くなった) アリストテレス が示した思考力の豊かさを超えることが、できないのではないでしょうか。

 1つの事象を、科学的に観ることもできるし、哲学的に観ることもできるし、芸術的に観ることもできるでしょう。逆に言えば、我々は、様々な事象が数多く起こる世界のなかで生きているのだから、「1つの観点しか知らない」 というのでは、つまらない人生になってしまうでしょうね。
 専門家として、1つの領域を徹底的に究めることは当然ですが、いっぽうで、「社会人」 として、ほかの学問領域の観点も、知っていたほうが良いでしょうね。

 



[ 読みかた ] (2010年 3月16日)

 本 エッセー で私が謂いたかったことは、今読み直してみて、「1つの視点しか知らない」 というのは、豊富な現実的事態に対して乏しいということでしょうね。では、「複数の視点」 を持てば、現実的事態を いっそう把握できるのか と問えば、どうも そうにはならないようです──というのは、「複数の視点」 で観た複数の状態の 「論理積」 が事態の 「本質」 にはならないから。「複数の視点」 を持っても、「複数の違う見かた」 がある、ということを実感するだけでしょうね──尤 (もっと) も、「1つの視点」 のみで事態を 「決め打ち (決めつける)」 態度には陥らないようになりますが。

 昨年 (2009年)、ソクラテス を読み直してみて──「プラトン 名著集」 (田中美知太郎 編、新潮社) を読み直してみて──、ソクラテス の思考法の すごさ に改めて感嘆しました。現代に生きる私は、ソクラテス の信じていた 「魂 (プシュケー)」 を信じてはいないのですが、全篇を通して、(プラトン の筆力が すばらしいこともあって [ とりもなおさず、翻訳が すばらしいこともあって ]、) ソクラテス を生々しく感じることができました。ソクラテス を語るときに、「対話」 という キーワード が使われますが、「対話」 という語のみを聞けば、さまざまな想像が起こってくるのですが、私が 「プラトン 名著集」 を読んで感じた ソクラテス の思考の 「逞しさ」 を内包しきれていないと思います──では、「対話」 のほかに、的確な言いかたがあるのかと問われれば、思い浮かばないのですが、、、[ 「対話」 としか云いようがないのですが ] )。ソクラテス の やりかた は、現代風に云えば、最高級の インタビュー (ジャーナリスト の対話法) かもしれない。

 ソクラテス が 「対話」 を通して至る着地点は、たいがい、相手の推論上 (あるいは、前提) の不備を見出して、「知っていると思っていたことが、実は、知らないことだった」 ということですが──「皮肉な」 対話術と云うひとがいるかもしれない──、じぶんの思いこみを排除するには、的確な やりかた でしょうね。尤 (もっと) も「無知の知」 を思い知らされた相手にとって、気持ちのいい やりかた じゃないけれども。ソクラテス の やりかた を 「正しい やりかた」 と考えるか、それとも 「高慢である」 と考えるか、、、。この点が 「哲学」 に対する考えかたの わかれ道でしょうね。そんなことを知らなくたって生活できるのだから。私は、「哲学」 のほうに向かう道を選びました。それで生活が (金銭的・物質的に) 豊かになった訳でもない。私の思考が以前に比べて周到になって、現実的事態というのは豊かだなあと思い知ったのみです。





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  佐藤正美の問わず語り