2005年 6月16日 作成 辞書を読む >> 目次 (テーマ ごと)
2010年 6月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「辞書を読むこと」 について考えてみましょう。

 
 「辞書を読む」 ということに関して、かって、「問わず語り」 のなかで、多くを語ってきました (22ページ、30ページ、110ページ、118ページおよび 202ページを参照してください)。いまさら、それらに対して、あらたに、補足しなければならない点はないのですが、いままでとは違う観点から考えてみましょう。

 「小説を読む」 ことと 「辞書を読む」 ことのあいだには、「読む」 という営みでも、目立った違いがあります。「小説を読む」 というのは、作家が、あらかじめ、構成した筋書きを辿ることですが、「辞書を読む」 ことには、筋書きはない。「辞書を読む」 というのは、或る ことば が起点になって、その ことば が誘導する ほかの ことば を 「芋蔓式に」 辿る、という読みかたになるでしょう。つまり、概念の系統樹を、読み手が、みずから、作る、ということになります。

 「旅」 に喩えてみれば、「小説を読む」 ことは、観光地を訪れて、案内人に導かれ、「見所」 が、はっきりしているのですが、「辞書を読む」 ことは、みずからの興に任せて歩き回る、気ままな放浪の旅なのかもしれない。

 ぼくは、日本語の或ることばを起点にして、日本語の辞書を読むときに、かならずと言ってよいほど、それらの日本語に対応する英語も調べるようにしています。
 或ることばの意味を調べるために、国語辞典 (および、類語辞典) を読んで、そのことばに対応する英語を探すために、和英辞典を読んで、(日本語と英語は、かならずしも、「one-to-one correspondence」的な意味対応をしないので、) 英語としての意味を把握するために、英英辞典 (および、thesaurus) を調べる、という手順を辿ります。

 たとえば、「反文芸的断章」 (2005年 6月16日) では、「追憶」 と 「悔恨」 が主調音になっているのですが、英語として、(英語の 「ことわざ」 辞典のなかから、) 「Many a one sings that is full sorry」 を選んでいます。その英文は、日本語で言うなら、「曳(ひ)かれ者の小唄」 に対応するでしょう。「追憶」 と 「悔恨」 の底辺に流れる気持ちとして、(「ひょっとしたら、ぼくの人生は、failed したのではないか、という) 「悲しみ・寂しさ」 が浮かんだのですが、英語として、「sadness、depression」 ではなくて、「regret、sorry」 を選び、「負けたけれど、平気なさまをして、強がって、鼻歌を唄う」 ことに対応する英文ことわざを探して使いました。「Never say you are sorry」 という言いかたがありますが、映画 「Love Story」 のなかで使われた言いかたです──主人公は、「Love means never having to say you are sorry」 (「愛とは後悔しないこと」 という訳になるかな) というふうに言っていた、とぼくは──その映画を、かつて、観たのですが──記憶しています。「Never say you are sorry」 は、英語の類語辞典 (LONGMAN ACTIVATOR) に記載されていました。

 「辞書を読む」 というのは、ピアノ 演奏に喩えれば、ことば という鍵盤を押して、観念という音を出すのでしょうね。
 とすれば、概念の構成は、1つの (起点となる) ことば を選べば、ことば のほうが、響きあって、ひとりでに作られるのかもしれない。興に任せたまま演奏する即興曲なのかもしれない。ただし、それは、整えられた構成ではない。即興であっても、構成のない作品は、美しくはない。あるいは、「考える」 というのは、「構成する」 ことである、と言ってもいいでしょうね。したがって、(文を、いったん、綴ったならば、) いずれ、推敲されなければならないでしょうね。
 ただ、「着想を出す」 という営みでは、ひょっとしたら、「無理をしてはいけない」 のかもしれない。

 「辞書を読む」 ことが、語感を養うために役立つということを、ぼくは主張するつもりはないのであって、「辞書を読む」 ことが、みずからの着想を膨らます愉しい営みである、という点を述べたいのです。「辞書を読む」 ことを趣味 (あるいは、習慣) の 1つにしても良いのではないでしょうか。



[ 読みかた ] (2010年 6月16日)

 本 エッセー の最後のほうで 「『辞書を読む』 ことを趣味 (あるいは、習慣) の 1つにしても良いのではないでしょうか」 と綴っていますが、勿論、小説などを読む趣味と同じ質量で薦めている訳じゃないことは念のために注意書きしておきます。「辞書を読む」 のは、手持ち無沙汰のときに限っていいでしょう。ちなみに、「読むための辞書」 として私が気に入っている辞書 (国語辞典) は、「ローマ 字で引く 研究社 国語新辞典」 (絶版) です。

 最近 (2010年 2月頃) 「ローマ 字で引く 研究社 国語新辞典」 を読んでいて、「三多」 という語を知りました。
 「三多」 は、その国語辞典で以下のように記述されています。

    文章上達の秘訣三条: 看多すなわち多く書を読むこと、做多 (サタ) すなわち多く文を作ること、
    商量多すなわち多く工夫し推敲することの三つ (中国の欧陽修の語)。[ much reading, much
    writing and much polishing ]

 ちょうど その頃に私は或る会社の社員教育で 「作文作法」 を指導していたので、さっそく、指導のなかで 「三多」 という語を使いました (笑)──ちなみに、「三多」 は、「広辞苑」 に記載されていますが、一般の国語中辞典には記載されていないようです。

 国語辞典を手持ち無沙汰のときにしか読まないとしても、国語辞典を読むことを いったん趣味にすれば、少なくとも 「ことばに対する意識 (配慮)」 が鋭くなることは間違いないでしょうね。





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  佐藤正美の問わず語り