2005年10月16日 作成 文を綴るための辞典 (英語類語・語感) >> 目次 (テーマ ごと)
2010年10月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「文を綴るための辞典 (英語類語・語感)」 について考えてみましょう。

 
 私は、英文日記を綴るときに、たまに thesaurus を使うことがありますし、類義辞典 (Webster's や Longman's activator)を使って、synonyms のあいだで ニュアンス の違いを調べることが たまに あります。「たまに」 と綴ったように、英語の専門家でない 私は、そういう辞典を つねに (あるいは、たびたび) 使う訳じゃない。
 ただ、以下の 2冊は、つねに、てもとに置いて拾い読みします。

  (1) 日英語表現辞典 (最所 フミ、研究社出版)
  (2) 英語類義語活用辞典 (最所 フミ、研究社出版)

 以上の 2冊は、英語の語感を養うには、打ってつけの辞典だと思います。それらの辞典のなかに記述されていることを、すべて、理解して英語を運用することは、英語の専門家でない われわれには到底できない ワザ ですが、英語とは、いったい、どういう 「言語」 なのか、という点を知るには非常に役立つ辞典だと思います。

 たとえば、「tenuous」 という語意を、私は掴みかねていたのですが、日英語表現辞典を調べたら、「tenuous」 が記載されていて、説明を読んだら、私は意味を納得できました。以下の文の意味を 「的確に」 把握できますか。

   Human relationships in this office are so utterly tenuous.

 「Tenuous」 を、英和辞典的に 「希薄な、浅薄な、薄弱な」 と訳しても意味が曖昧ですね。日英語表現辞典の説明では、「日本語の 『ちゃちな』 とか 『お粗末な』 とか 『吹けば飛ぶような』 に似ていないこともない。内容の稀薄なことを言う。布や ロープ などが すぐに破れたり、切れたりするようなのを言う」 そうです。

 以下に示す表現を私は いかにも アメリカ 的だと思っています──もっとも、(欧米化が進んだ) 最近の日本でも、以下の考え方は、ふつうに通じるかもしれないけれど。

   He has nothing to show.

 日英語表現辞典によれば、この文の意味は、「彼は自分の能力を証明するような具体的なものは何ひとつ持っていない」 とのことです。そして、「nothing to show for (見るべきものがない)」 という言いかたは、英語では、さかんに用いられるそうです。日英語表現辞典は、以下の的確な例文を記載しています。

   I have nothing to show for the money my family spent on me.

 この文の意味は、「私は家族に お金を さんざん 使わせたかいもなく、何の見るべき成果も上げることができなかった」 ということです。私の感覚では、対価 (for) に見合う示し (show) がない、ということかな、と理解しています。

 英会話ができて、英語を 或る程度 運用できると思っている (自惚れている) 人は、ぜひとも、前述した 2冊の辞典を読んでみてください。ひとつの 「言語」 を学習するということが、いかに、「むずかしい (でも、魅力的)」 であるか、という点を理解できるでしょうし、「英語ができる」 などという自惚れは、吹っ飛んでしまうでしょう。
 最所さんが、日英語表現辞典の 「はしがき」 のなかで述べられていらっしゃる以下の意見を、私は共感します。

 
    日本語の水準は高ければ高いほどよい。 この点 私は英語の幼児教育を重視しない。 それどころか、大人になってから
    英語を学ぶことに大きな利点を認めるものである。 それは何かと言うと、日本語に関する ゆるぎのない自信である。
    自国語こそ どんな人からも取りあげることの出来ない個人の財産であり、コミュニケーション の利器である。 なぜなら
    それは万国共通の価値判断の思考能力を、一貫した言語体系として自分のなかに持っていることだからである。 この
    思考能力を テコ にして英語を自国語の水準にまで引き上げることは、やりかたによっては さほど むつかしいことでは
    ないはずである。



[ 読みかた ] (2010年10月16日)

 日本で生まれて日本で育って日本で英語を学習しているひとが、英語の ニュアンス を 「実感」 するのは、英語を使うことを本職にして、まいにち、英語を使って仕事をしている人たちのなかでも わかずかなひとを除いて、できないのではないでしょうか。というのは、ことばの意味は、そのことばが使われている 「時と所」 (発話状況) のなかで決まるので、そういう 「時と所」 を数多く経験して ことばの使われかたを実感していなければ、ことば の ニュアンス を体得することができないので。

 私は、英語を話すときに (あるいは、英文を綴るときに) ニュアンス を考えて ことば を運用することが ほとんど できないし、本 エッセー のなかで述べた 「ニュアンス の学習」 を 「たまに」 やる程度では埒が明かないでしょうね。では、どうして、私は、そういう学習をしているのかといえば、「英語を自在に運用できるようになる」 という学習目的を考えているのではなくて、英語の面白さを感じたいというのが理由です。では、英語のほかの言語を学習しないのか、と問われれば、たまたま、英語を学習しているという返事しか私はできない。フランス 語であってもいいのだし──私の大学生・大学院生のときの第二外国語は フランス 語で、大学院の入試では フランス 語の点数のほうが英語の点数に較べて良かった──、ドイツ 語や他の言語であってもいいのですが、英語を長いあいだ [ 中学生の頃から ] 学習してきた途上で、英語に興味を抱いたので、英語を学習しています。

 中学校で英語を習いはじめたときに、私は、英語に興味を抱きました。高校生の頃には、「英和活用大辞典(勝俣銓吉郎 編)」 や 初級の英英辞典を買って、たまに使っていました──「英和活用大辞典」 は、3年間やそこらの英語学習しかしていない高校生に使いこなせる辞典じゃないので、英作文のときに、ときたまに参照していた程度で、ほとんど ツンドク 状態でした。ただ、高校の英語の授業には、全然、興味を覚えなかった。そして、NHK の ラジオ 英会話 (松本亨 氏)・テレビ 英会話 (國弘正雄 氏) を聴視していました。当時、同時通訳者たち──西山千 氏、國弘正雄 氏、鳥飼久美子 氏ら──を テレビ で観て、あこがれていました。大学生になって──大学の英作文の授業で──、「英和活用大辞典」 を多用するようになったと記憶しています。就職したあとで、最所 フミ 氏・松本道弘 氏の著作を知って、かれらの著作を買いあつめて夢中で読んでいました──たぶん、このときに、英語の面白さを知ったのだと思います。英語の 「シノニム や ニュアンス」 については、高校生のときから興味を抱いていましたが、高校生が系統だった学習をできるはずもなかった。
 私が、英語の類語・語感に多大な興味を抱くようになった契機は──高校生の頃に興味が芽生えてはいましたが──、最所 フミ 氏の著作を読んだことだったと思います。ちなみに、英語の運用において ロジック を強く意識するようになった動因は、松本道弘 氏の著作を読んだことだったと思います。

 最所 フミ 氏は、「この思考能力を テコ にして英語を自国語の水準にまで引き上げることは、やりかたによっては さほど むつかしいことではないはすである」 とおっしゃっていらっしゃいますが、英語を まいにち 使う人たちにとっては、そうかもしれないのですが、たまにしか英語を使わないひとにとって──私も その一人ですが──、「英語を自国語の水準にまで引き上げること」 は ほぼ できない相談でしょうね。私は、英文日記を綴っていますが、寝床に入る前に綴るので、英語を使うといっても、一日のなかで、せいぜい 10数分程度にすぎない状態です。そういう状態では、英語学習とはいっても、せいぜい、できごとを正確に記述しようと務めるのが関の山で、対話であれば相手の反応を観ながら ことば の使いかたを変えることができますが、日記では そういうことはできないので──発話状況が考慮されないので──、ことば の ニュアンス を実感するのが難しい。言い換えれば、いつまでも 「畳のうえの水練」 でしかない。それでも、そういうふうに培った ちから を実地に使う機会が多々あれば、学習したことを実地の使用のなかで確認・訂正できて、そういう学習は学習として意味があるのですが、私の場合では、そういう機会がないので、英語の面白さを感じるという域で立ち止まっています。





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  佐藤正美の問わず語り