2005年12月 1日 作成 文を綴るための辞典 (作文手帖) >> 目次 (テーマ ごと)
2010年12月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「文を綴るための辞典 (「作文手帖」)」 について考えてみましょう。

 
学生時代の作文教本 (教科書) を辞典として使う。


 作文手帖を 「 」 で括った理由は、それが書物だからです。私が愛読している書物です。
 そして、その書物を辞典として使っています。

     文章作法 作文手帖 (改訂版)、遠藤嘉基・伊藤 博、中央図書、昭和 42年。

 
 昭和 42年ですから、西暦で言えば、1967年です。私が 14歳のときに──中学生の頃に──出版された書物です。私が、この書物を購入したのは、たぶん、大学生の頃だった、と 朧気に記憶しています。あるいは、高校生の頃に、学校で副読本として使っていたのを、高校を卒業したときに手放して、大学に入学してから、古本店を巡りながら文芸書を漁っている最中に、偶然、目にして、(直ぐに読もうという気持ちはなかったのだけれど、) 購入したのかもしれない。(160ページ ほどの) ページ 数の少ない書物です。

 結婚したときに、新居として借りた アパート が狭かったので、独身時代に購入した ほとんどの書物を処分したので、(高校生向けの) この書物が、いまも遺っているというのは不思議です。
 この書物には、随所に、鉛筆で、私の引いた線が遺っています。いちじ、丁寧に読んでいたのでしょうね。

 その書物が、いまでは、作文作法の辞典として活躍しています。40年弱ほど前の出版ですから、紙が やや 茶色に変色していますし、愛用してきたので表紙は手垢で汚れていますし、表紙には コーヒー の水滴が飛び散った シミ も遺っています。

 私は、いちじ (30歳代の頃)、作文作法の書物を多数読んだのですが、それらを、ほとんどすべて、廃棄しました──言い換えれば、再読する価値がなかったので、廃棄しました。それらの書物に述べられていたことは、すべて、「作文手帖」 のなかに記述されているから。そして、それらの書物は、「作文手帖」 に比べて、作文作法の 「網羅性」 を欠如していました。それらの書物は、作文作法のいくつかを選んで──「テーマ をしぼる」 ことは良いのですが、その テーマ に対して、新たな視点を提示しないで──興味本位に 「言い直した」 にすぎない ミーハー 本ばかりでした。

 「作文手帖」は、以下の 4部から構成されています。

   (1) 文章のいろいろ
   (2) 文章のくみたて
   (3) 文章の技術
   (4) 文章の表記

 それぞれの編は上下 2段組になっていて、下段には解説が記述され、上段には実例が豊富に記載されています。

 たとえば、感想文と論文と レポート のちがいを的確に述べることができますか。そして、そういう文では、どういう構成・文体にすれば良いかを的確に述べることができますか。この ホームページ (「問わず語り」) のなかで綴られている文体・段落構成は、私の著作のなかで使われている文体・段落構成と比べて、相違しています。その相違点が、どうして起こるのかという点を的確に述べることができますか──あるいは、文の種類 (たとえば、通信文、感想文、記録文、報告文、論文、レポート、宣伝文など) ごとに、構成・文体を、適宜、使うことができますか。
 この ホームページ (「問わず語り」) 向けの構成・文体を使って書物を執筆しても、更々、「読みやすい」 著作になる訳ではない。

 もし、この ホームページ 向けの構成・文体を使って著作を認 (したた) めたら、文そのものは 「読みやすい」 かもしれないけれど、テーマ に対する論考が粗い状態に陥ってしまいます。そして、最近、専門書とは云いながら、そういう類の ミーハー 本が多い。あるいは、専門書と云いながら、journalese の多用された ミーハー 本が多い。専門領域の学習を進めようとしている若い世代の人たちは、そういう文を真似しないで下さい。

 作文作法を学習するには、まず、高校生向き・大学生向きの教科書・参考書 (作文作法の書物) を購入して下さい。そして、それを 一通り読んで、読後も てもとに置いて、「辞典」 として使って下さい。どうか、「実用書」 というふうに名打っている ミーハー 本を買わないで下さい。

 
句読点も文字なので、作文法に従ったほうが良い。


 句読点は文字です。でも、読点を ちゃんと打てる人たちは少ない──私のことを言えば、読点を多用する傾向がつよい。以下の文に対して、句読点を打ってみて下さい (「作文手帖」から引用しました)。

   (1) すると かれは 突然 こう 言った それは しかし 問題だ と 思う

   (2) 母 が 大きな 声 で 「おやめなさい」 と いった

   (3) 「おやめなさい」 と 母 が 大きな 声 で いった

   (4) その時 かれは さびしい 話 だ と 言って黙った

 
 正解を以下に示します。

   (1) すると、かれは、突然こう言った。それは、しかし、問題だと思う。

   (2) 母が大きな声で、「おやめなさい。」 といった。

   (3) 「おやめなさい。」 と、母が大きな声でいった。

   (4) その時、かれは、さびしい話だと言って黙った。

 
 (4) では、私は、「さびしい話だ、と言って黙った。」 というふうに、読点を打つ癖があるのですが、「 」 を用いない引用文を 「と」 で受けたら、読点を打たないそうです。

 日本語では、句読法が確立していないそうです。日本語は、文末に一定の形が収斂するので、マル (。) は、小学校 2年生くらいになれば、ちゃんと使うそうですが、テン (、) の打ちかたは、個人任せになっているそうです。それでも、読点の打ちかたには、一定の (最大公約数的な) 標準作法があるようです。そういう標準作法は、「作文手帖」 のなかに記述されています。

 
「または、もしくは」 と 「ならびに、および」 の使いかた


「作文手帖」 を補強するために、文章の構成法および文章の表記法に関して、私は、以下の書物を参考にしています。

   (1) 文章の構成法について、「コミュニケーション 技術」、篠田義明、中公新書

   (2) 文章の表記法について、「用例豊富な日本語表記大辞典」、天沼 寧・高木教典 監修、三宝出版

 
 (2) の辞典は、「語の意味を調べるための一般の国語辞典とは性格を異にし、官公庁や各分野の会社、団体等で働く人々が、例えば報告や事務連絡のための文章を書く場合、相手方に正しくその意を伝えるにはどの語を使えばよいか、また、その語をどう表記するのがよいかと迷うときに利用してもらうことを目的として作られた辞典」 (「この辞典の編集方針」 の原文まま) です。そのために、法律用語・経済用語などについては、簡便で実用的な事典としても使えるように構成してあります。たとえば、「又は・若しくは」 「及び・並びに」 の相違などが簡潔に示されています。
 以下の文構成を考えてみます--ただし、「OR」 は 「∨」 を使い、「AND」 は 「∧」 を使います。

   (1) { p ∨ (q ∨ r) }.

   (2) { p ∧ (q ∧ r) }.

 
 (1) は、「p 又は q 若しくは r」 として表記します。 (2) は、「p 並びに q 及び r」 として表記します。こういう表記法は、1つの規約です。「又は・若しくは」 「並びに・及び」 は、概念の階-構成を示しているので──「又は > 若しくは」 (「若しくは」 のほうが小さい集まりを示す) 「並びに > 及び」 (「及び」 のほうが小さい集まりを示す) という関係になるので──、規約に従わなければ、文意を損なってしまいます。

 作文作法の書物および表記辞典は、てもとに置いて、疑問点があれば、いつでも、(辞典として) 参照できるようにしたほうが良いでしょう。



[ 読みかた ] (2010年12月 1日)

 私は、英文日記を 10数年来 綴ってきているので、英語の文法書・語法書を てもとに置いて、つねに参照してきました。日本語の文を綴るのであれば、日本語の文法書・語法書を てもとに置いて つねに参照したいのですが、英語の文法書・語法書に対応するような 「日本語に関する文法書・語法書」 がないので、本 エッセー で記載した 「作文手帖」 を使っている次第です。たとえば、英語の語法書 Dictionary of English Usage (Arnold Leonhardi & W.W. Welsh) に並ぶような日本語の語法書がない──Dictionary of English Usage は、私が英文日記を綴るときに参考にしている語法書です。

 学校を卒業して、職場で文を綴る機会が増えるにつれて──たとえば、報告書とか企画書などを綴らなければならなくなって──作文の技術を学ぼうとしたときに、書店に出向いて、作文の書物を探しても、本 エッセー で指摘したように、ミーハー 本ばかりが多くて本式に作文を学ぶことが難しい。実は、そういう ミーハー 本に較べて、学校で使っていた作文の書物のほうが充実していることを 「社会人になった」 われわれは見損なっているようです。「社会人になった」 のだから、学校の書物は役立たないと思い違いしている。もし、作文の書物を探すのであれば、高校生向けの参考書が並んでいる書棚に足を向けたほうがいいでしょう。

 「文は人なり」 と古くから言われてきましたが、確かに、文には書き手の すべて が現れる──というか、逆に、「書いた物が すべて である」 というふうに見なされる。書き手が、どういう感性で、どういう視点で、どういう知識枠 [ frame of reference ] で、どういう論法で、どういう表現で意見を述べているか を顕しているのが文です。文には、書き手の すべて が晒される。そうであれば、作文の技術を学ぶことは じぶんを的確に表現するために当然の学習でしょう。作文作法の書物は、てもとに置いて、つねに参考にすべきでしょうね。ブログ (Weblog) で子どもじみた文を綴らないためにも。





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  佐藤正美の問わず語り