2006年 3月 1日 作成 | 文を綴るための辞典 (国語便覧) | >> 目次 (テーマ ごと) |
2011年 2月16日 補遺 |
同じように、国語にも、そういう 「便覧」 があります。私が愛用している便覧は、以下の書物です。 新詳説 国語便覧、東京図書
この便覧は、高校生用の副読本です。文学史・有職故実・国文法・修辞法は、当然ながら、記載されていますが、ほかにも、古典のなかに出ている動植物が写真入りで記載されていますし、「漢文学の世界」 として、中国文化史年表・漢文の修辞法・日本文学への影響なども掲載されています。 私は、有島武郎と亀井勝一郎を読み込んできましたが──それぞれ、全集を所蔵していますが──、いっぽうで、芥川竜之介と小林秀雄にも興味を抱いています。かれらの 「関係」 を 「評論」 という観点からまとめれば、興味深い連鎖があるようです。「新詳説 国語便覧」 では、かれらの 「関係」 は、以下のように まとめられています。引用は、少々、長くなりますが、興味深いまとめなので、そのまま掲載します (「新詳説 国語便覧」 299ページ - 300ページ)。
中野秀人は 「第四階級の文学は労働者自身によって企てられるものだとは限らない」 としたが、有島武郎の (1) 「第四階級」 を、現場で働いている SE としてみる。
(2) 広津和郎の意見を以下のように読み換えてみる。
(3) 小林秀雄の意見を以下のように読み換えてみる。 私は、みずからの セミナー のなかで、ときどき、日本語を使った記述と英語を使った記述の相違点を、セミナー に参加している人たちに意識してもらうために、「牛」 の例を語ります。たとえば、私が、以下のように言ったとしましょう。 「今朝、通勤電車の窓から外を眺めたら、牛が見えた。」
この文を聞いた人たちは、頭のなかに、朧気な 「像」 を描きますが、私は、「牛」 を一頭とも二頭とも言ってはいないのに、「像」 を描いていました。私が語った文は、「事実を記述する」 には不正確な文なのに、聞いた人たちは、なんらかの 「像」 を描いていました。その 「像」 は、ひょっとしたら、聞いた人が、かって、牧場を訪れて、放牧されている多数の牛たちを観た経験を呼び起こしているかもしれないし、丑年の年賀状のなかに、はがきの真ん中に安定した構図として収まっている一頭の牛を思い起こしているのかもしれない。あるいは、禅の 「十牛」 を思い浮かべるかもしれない。 主観的な 「像」 を離れて、「意味 (指示)」 を問うことは、いったい、どういう技術を云うのかは 「反 コンピュータ 的断章」 の主題になるので、これ以上に述べるつもりはないのですが (笑)、日本語を使って 「論理的に考える」 ということは、どういうことなのかという点を、われわれは意識していなければならないでしょうね。 日本語の特質をまとめた 「国語便覧」 は、日本語を使って 「描写を考える」 人なら、1冊 てもとに置いて、読んだり参照すれば役立つ書物です。そして、(修辞法のみならず、) 「小説の歩み」 「近代詩の歩み」 や 「演劇の歩み」 などの思想史を鳥瞰するためにも役立ちます。また、近代名歌選、近代名句選および近代名詩選として、近代を代表する いくつかの歌・句・詩が引用されています (引用例は、当然ながら、鑑賞辞典と比べたら、数は少ないのですが、古代から現代に至る日本文学全体のなかで考慮したら、相応でしょうね)。ちなみに、(本 ホームページ の) 「読書案内」 で記載している日本古典文学の作品に関して、「読みかた」 を綴る際、私は、「国語便覧」 を、まず、参照しました。
いまになって考えてみれば、高校生の頃、副読本として使っていた書物は、いまでも──いな、(人生経験を積んだ) 「いまだから」 と言うほうが正確なのもかもしれないのですが──、非常に役立ちます。
「国語便覧」 のなかに記載されている名歌を引用して、この随筆を終わりにしましょう。
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ |
[ 読みかた ] (2011年 2月16日)
取り立てて、補足説明は いらないでしょう。あえて言うならば [ 本 エッセー を強調する意味で ]、調べたいことがあれば──たとえば、江戸時代の文芸の流れとか、現代小説の生い立ちとか──、その テーマ について 「全体感」 を掴むために、「国語便覧」を私は多々参照しているということを ここで綴っておきます。 |
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