● 思想の花びら | way out >> |
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愛とは 有島武郎 (小説家) |
愛の表現は惜みなく与えるだろう。しかし愛の本体は惜みなく奪うものだ。 |
愛とは 太宰治 (小説家) |
愛することは、いのちがけだよ。 甘いとは思わない。 |
愛とは 太宰治 (小説家) |
一豊の妻など、いやなこった。だまって、百円のへそくり出されたとて、こちらは、いやな気がするだけだ。なんにも要らない。はいっと素直な返事だけでも、してお呉れ。 |
愛とは 有島武郎 (小説家) |
愛を優しい力と見くびったところから生活の誤謬は始まる。 |
愛とは 有島武郎 (小説家) |
恋人の耳にささやかれる言葉はいつでも流暢であるためしがない。心から心に通うためには、何という不完全な乗物に私達は乗らねばならぬのだろう。
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愛とは 有島武郎 (小説家) |
他の何等かの状態において私の中に摂取された時のみ、私は他を愛しているのだ。しかし己れの中に摂取された他は、本当をいうともう他ではない。明らかに己の一部分だ。だから私は他を愛している場合も、本質的にいえば他を愛することにおいて己れを愛しているのだ。そして己れをのみだ。
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愛とは 有島武郎 (小説家) |
私の愛己的本能がもし自己保存にのみあるならば、それは自己の平安を希求することで、知的生活における欲求の一形式にしか過ぎない。愛は本能である。かくの如き境地に満足する訳がない。私の愛は私の中にあって最上の生長と完成とを欲する。私の愛は私自身のほかに他の対象を求めはしない。私の個性はかくして生長と完成との道程に急ぐ。しからば私はどうしてその成長と完成とを成就するか。それは奪うことによってである。愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし愛の本体は惜しみなく奪うものだ。 |
愛とは 有島武郎 (小説家) |
私の個性は絶えず外界を愛で同化することによってのみ生長し完成してゆく。(略) 私がその小鳥を愛すれば愛する程、小鳥はより多く私に摂取されて、私の生活と不可避的に同化してしまうのだ。(略) 私が小鳥を愛すれば愛するほど、小鳥はより多く私そのものである。私にとっては小鳥はもう私以外の存在ではない。小鳥ではない。小鳥は私だ。私が小鳥を活きるのだ。(The little bird is myself, and I live a bird) "I live a bird" ・・・・・・英語にはこの適切な愛の発想法がある。 |
愛とは 有島武郎 (小説家) |
一度愛した経験を有するものは、愛した結果が何であるかを知っている。それは不可避的に何等かの意味の獲得だ。 |
愛とは 有島武郎 (小説家) |
愛の感激──正しくいうとこのほかに私の生命はない。 |
愛とは 有島武郎 (小説家) |
ただ人間は nicety の仮面の下に自分自らを瞞着しようとしているのだ。そして人間はたしかにこの欺瞞の天罰を被っている。それは野獣にはない、人間にのみ見る偽善の出現だ。何故愛をその根柢的な本質においてのみ考えることが悪いのだ。それをその本質において考えることなしには、人間の生活には遂に本当の進歩創造は持ち来されないであろう。 |
愛とは 有島武郎 (小説家) |
愛は優しい心に宿り易くはある。しかし愛そのものは優しいものではない。それは烈しい容赦のない力だ。それが人間の生活に赤裸のまま現われては、かえって生活の調子を崩してしまいはしないかと思われるほど容赦のない烈しい力だ。 |
愛とは 有島武郎 (小説家) |
愛が完うせられた時に死ぬ。即ち個性がその拡充性をなし遂げてなお余りある時に肉体を破る、それを定命の死といわないで何所に正しい定命の死があろう。(略) 自滅するものの個性は死の瞬間に最上の成長に達しているのだ。 |
愛とは 有島武郎 (小説家) |
しかし彼れ(=基督)は純粋な愛の事業のほかには何物をも択ばなかった。彼れは知的生活のためには何事をも敢えてなさなかった。(略) 彼れはその無上愛によって三世に亙っての人類を自己の内に摂取してしまった。それだけが彼れの已むに已まれぬ事業だったのだ。 |
愛とは 有島武郎 (小説家) |
お前が愛の極印のないものを施すのは一番に大きな罪だと知らねばならぬ。 |
愛とは 有島武郎 (小説家) |
愛の反対は憎みではない。愛の反対は愛しないことだ。だから、愛しない場合にのみ、私は何ものをも個性の中に奪い取ることができないのだ。憎む場合にも私は奪い取る。 |
愛とは 有島武郎 (小説家) |
愛せざるところに愛する真似をしてはならぬ。憎まざるところに憎む真似をしてはならぬ。(略) 愛は烈しい働きの力であるが故に、これを逆用するものはその場に傷けられなければならぬ。その人は癒すべからざる諦めか不平かをもってその傷を繃帯するほか道はあるまい。 |
愛とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
愛とは思いつめる能力のことだ。 |
愛 (自愛) とは アラン (哲学者) |
だが、すべての愛は、人が自分のうちには持っていないなにかである。愛するとは、自分の富を、自分の外に見つけることだ、僕は心の富をいうので、装飾物をさすのではない。自分が愛するのだから、自分を愛することができるわけはない。人は他人に作ってもらった自分の姿を愛するのだ。その点で、もしこの姿が愛すべきものだったら、社会は好ましく、安泰なものとなるだろう。しかしこの姿は自分ではない。どんな対象も事物も自分ではない。僕とは主語だ。属語ではない。飾りつけの余地はない。僕がするもの、それだけが僕のものだ。僕のうちにはなにものも残ってやしない。習慣だとか才能だとかをあてにするのは、つまり他人をあてにすることにほかならぬ。僕のうちにあるものは勇気だけだ、(略)
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愛情とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
我々はなぜ愛情についてくりかえし語るか。 それは発見とともにある情熱だからだ。 |
愛情とは ドストエフスキー (小説家) |
愛情に満ち溢れた心には悲しみもまた多い。 |
生きるとは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
容赦なく一切を機械の餌食とする。そして人間の心は悲しむべきことに之に順応し易い。すべての精神現象は、今や拙劣な俳優の鈍感 カメラマン に対する関係において存続しはじめつゝある。 わが国の所謂文明開化の末期的姿であるが、文明開化を嘲弄し、崇高な古典を述べるものすら、一二年の間に数冊の本を大量生産するのである。過去のあらゆる偉人を渉り歩き、おそらく彼らが生涯を費したであらう精神修練の結晶を、促成的にして売りさばく。何といふ悲劇、何といふ無常さだろう。しかもこれが我々が生きて行くといふことなのだ。 |
隠遁とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
平生私は出来るだけおだやかに勉学してゐたい気持でゐるが、かういふ時勢になれば、腹に据ゑかねることも二三はある。それが私の狭量の致すところではないか、或は自分の小さな野心のためではないか、と種々思ひ惑ふが故に、夢殿まで赴き救世観音を拝しその仏意をうかゞふのである。これが私の為しうるわづかな隠遁である。
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金持とは チャーチル (政治家) |
金持は (国家の) 財源としては貴重だが、社会の健全な状態にとってはかならずしも欠くべからざるものではない。しかし、それがねたましいからというので金持が追い払われる社会も、健全な状態ではない。
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邂逅とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
本を読むといふことも大事ですけれども、しかし生身の師に出会つて、その師を通して直接的に声に接することほど重要な経験はないと思ふのです。(略) よく、イデオロギー といふ言葉を使ひますが、さういふものは抽象的に存在するのではなくて、ある特定の人間の人間的魅力として存在する。さうでなければ、実際に人をひきつけることは出来ないでせう。直接の邂逅と、そこでの人間的魅力ほど重大なものはなく、すべての思想はこれによつて生きるものです。 |
邂逅とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
青春時代とは第二の誕生日である。自我の覚醒する日であるが、そのとき 「我」 を誕生せしむる機縁が即ち邂逅である。書物でもいゝ。師匠でも友人でも恋人でもいゝ。誰に出会っつたかといふことが重大だ。 |
邂逅とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
もしこのとき、この人 (あるひは書物) に会はなかつたならば、自分はどうなつてゐたであらうと思ふことがある。そこに生ずるのは謝念である。人生に対する謝念とは邂逅の歓喜である。(略) 邂逅の歓喜あるところに人生の幸福があると私は思つてゐる。私はそれ以外の人生の幸福を信じない。 |
邂逅とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
邂逅によつて却て反撥が起ることもあるが、それでもいゝ。納得出来ないものは、たとひ世から尊敬されてゐる権威であつても、納得出来るまで追究したらいゝ。謝念は追従であつてはならない。自分の生命をのばすための苦しい戦ひである。しかもそれを通して謝念をもつならば、そこに人間の真の協和が可能だのではあるまいか。和して而して同ぜずという孔子の言葉がある。(略) 我々は多くの場合、同じて而して和せずである。妥協し外見上仲よくしてゐるが、心の中では反撥したり、ひがんだり嫉妬したりしている。人間の悲しむべき状態だが、そのために私は人生を否定的にみようとは思はない。 |
感覚とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
すべてを露はにしなければやまぬ無礼の感覚と、自己宣伝して己の存在を示さうとする焦燥と、信仰にとつておそらくこれ以上の危険はあるまい。しかもこの危険を意識せぬほど感覚の麻痺したところに現代文明の性格がある。(略) 即ち文明の利器が精妙になるに比例して、人間の感覚は粗暴になつて行く。機械が正確にになるにつれて、我々の認識は益々不正確になつて行く。
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願望とは 与謝蕪村 (俳人) |
得たきものは強ひて得たるがよし。見たきものは つとめて見るがよし。また重ねて見べく得べき折もこそと、等閑 (なほざり) に過ごすべからず。重ねて本意 (ほい) とぐることは極めて難きものなり。 |
偽善とは 有島武郎 (小説家) |
その後味を胡麻化すために、彼れは人のために社会のために義務を果たし、献身の行ないをしたという諦めの心になる。そしてそこに誇るべからざる誇りを感じようとする。社会はかくの如き人の動機の如何は顧慮することなく、直ちに彼れに与えるのに社会人類の恩人の名を以てする。それには知的生活にあっては奨励的にそうするのが便利だからだ。そんな人はそんなことは歯牙にかけるに足らないことのようにいいもし思いもしながら、衷心の満ち足らなさから、知らず知らずそれを歯牙にかけている。 |
結婚とは アラン (哲学者) |
結婚とは、成立した瞬間からおこなうべきあることであり、成就したあることではない。人は選んでもらった相手であろうとみずから選んだ相手であろうと、はじめの愛があにも明らかにしてはくれない以上、知らない人間とこの上なく親密な関係で一生をすごさねばならぬのに変わりはない。だから手をこまぬいているわけにはいかぬ、おこなわねばならぬ、性格を支配するのを目的とするあの性格の観察というものを僕は信用しない。(略) そういう観察は絵空ごとにすぎないのだが、不幸にして観察する人や、観察される人の法令によって現物となるのだ。「彼はああいう男」 という不吉な法令に 「いかにも自分はそういう男だ」 と答える。だがこんなことはうそなのだ。愛すべき性質の芽ばえはいつもそこにあるものだし、なごやかな気分はあらゆる装いをして人を楽しますものだ。もし真の愛が最もいいものを見抜く術でなければ、真の愛とはいったいなんであろうか。 |
結婚とは アラン (哲学者) |
芸術の場合でも、喜びがまずやってくる、だが彫刻家や画家や音楽家になるには喜びだけでは足りぬ、仕事の力がいる、なんでも美しいものはむずかしい、とことわざにもいうが、幸福になるのも一つの仕事だ、夫婦でも同じことだ。 |
結婚とは アラン (哲学者) |
困難な仕事は忠実を要求する。天才の条件はいろいろあるが、自分自分に対する誓言をもち、そしてこれを守るということが必須の一条件だ。(略) だが、誓言は予言ではない、誓言するとは自分は欲しまたおこなうということを意味する。それについて 「愛を約束することはできぬ」 と人はいう、それは最初の感激を経験したときから間違いのないことだ、だからだれも感激などを約束したりしてはならないものだが、完全な愛とか幸福とかは、誓うことができるばかりでなく、誓わねばならぬものだ、音楽を学ぶ場合と同じことである。またよく腹に入れておかねばならぬことだが、みずからおのれの誓言にしばられると考えはならぬ、むしろ運命が誓言にしばられて馴らされるのだ。 |
結婚とは アラン (哲学者) |
誓言は決して自由意志を束縛するものではない、それどころか自由意志を使用するようにうながすものだ。だれでも、なにかであると誓言するのではなく、なにかをする、なにかを望むと誓うからだ。すべての誓言は情熱に負けまいための誓言だのだ。 |
交際とは ラ・ロシュフコー (批評家) |
対象を見るのに隔たりを置く必要があるが、交際をするさいにも、隔たりを置かなければならない。だれでもそれぞれじぶんの観点を持っていて、そこからひとにじぶんを見られたいのである。 |
幸福とは アラン (哲学者) |
幸福とは、ショウ・ウィント゛ウ のなかの品物のように、好きな物を選んで金銭を払えば持って帰れる、というものではない。 |
幸福とは エッシェンハ゛ッハ (小説家) |
他人が幸福でないことは、ごく当たり前のことに思われるが、自分自身が幸福でないことは、つねに納得がいかないものだ。 |
幸福とは モンテルラン (小説家) |
幸福な一日とは、彼らにとっては、電話を沢山かけた日、つまり、自分の重要さを示した日のことである。 |
幸福とは ルナール (小説家) |
幸福であるだけでは十分でない。 そのうえ、他人が幸福でないことが必要なのだ。 |
幸せ (幸福) とは モーリアック (小説家) |
死ぬまでに1つの心だけにでも、深く分け入ることができたら、それで幸せとしなければなるまい。 |
幸福とは サント・フ゛ーウ゛ (批評家) |
ある年頃になって幸福になる方法は、よい機会を見て他人と没交渉になることであろう。 |
幸福とは ジード (小説家) |
幸福になる秘訣は、快楽を得ようと ひたすら努力することではなく、努力そのもの のなかに快楽を見出すことである。 |
幸福とは 吉田兼好 (歌人) |
つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。まぎるる方なく ただ一人あるのみこそよけれ。 |
幸福とは 本居宣長 (国学者) |
うまき物くはまほしく、よききぬきまほしく、よき家にすままほしく、たからえまほしく、人にたふとまれまほしく、いのちながからまほしくするは、みな人の真心也。 |
三面記事とは 森鴎外 (小説家) |
要するに三面記事は どこまでも個人の猿知恵を出すことを避けて、あくまで典型的に書かなくてはならない。女は皆 「美人」 である。恋愛は皆 「痴情」 である。何事につけても公憤を発して けしからんよばわりをしなくはならない。クリスト は裁判をするなと言ったが、三面記事は何から何まで裁判をしなくてはならない。どんな遺伝を受けて、どんな境界に身を置いた個人をつかまえて来ても、それを指を屈するほどの数の型にはめて裁判をする。そこが春秋の春秋たるゆえんかもしれない。
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実感とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
「客観的態度」 で文化政策論などせずに、自分が実際読んだり接したり、あるひは思ひ惑つてゐるところを、胸をひらいて衷心述べることだ。古来優れた為政者や武将たちが、戦ひのあひまに歌を詠じ、絵を愛し、また茶道に身をいれて、そこに痛切の思ひを述べたのは我が美しい国風であつた。
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食卓とは ジューベール (批評家) |
食卓は祭壇の一種であって、祭の日や饗宴の日には飾らなければならない。 |
真実とは 萩原朔太郎 (詩人) |
社交の秘訣は、真実を語らないということではない。真実を語ることによってさえも、相手を怒らせないようにすることの技術である。 |
人生とは キーツ (詩人) |
人生は バラ の花の希望、ただし咲かない間だけの。 |
人生とは セルバンテス (小説家) |
これが人生なんだ。だが残念なことには、この人生は芝居でみる人生ほどの値うちはない。 |
生活とは ゲーテ (詩人) |
生活はすべてつぎの二つから成り立っている。 したいけれど、できない。できるけれど、したくない。 |
成熟とは サント・ブーヴ (批評家) |
自分が知っている事がらを研究し、自分が愛している人々を見直す、これが 成熟した人間の楽しみである。 |
青年とは ゲーテ (小説家) |
青年は教えられるより、刺激されることを欲す。 |
青年とは 小林秀雄 (文芸評論家) |
青年にとっては あらゆる思想が、単に おのれの行動の口実にすぎぬ。 |
繊細とは 有島武郎 (小説家) |
僕は死ぬまで心の delicacy を失うまいと思うものだ。繊細とか何とか訳されるために、この大きな一つの力は、著しく誤解されている。働きの細かいことが力の弱いことではない、と言っても心の delicacy を失った奴等には依然として分らないのだから仕方がない。
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煙草とは コナン・ドイル (小説家) |
それは パイプ を三本ふかすのにぴったりくる問題だよ。
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道具とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
農民は美術品をつくろうと思って農具や土器をつくったわけではない。しかし、二、三百年もたてば、それが美術品のように珍重されるのは、日常の生活にむすびつき、その中でくりかえし工夫されてきたからである。そしてとくに大切な点は、役に立たなくなると、容赦なく捨てられるというきびしい運命に堪えてきたことである。 |
陶酔とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
昂揚した刹那の決意は、気分として空想化され、或は 「道徳」 として形式化され易い。そして途方もない極限の言葉だけをもてあそぶ。 |
道徳とは A. フランス (小説家) |
正直とか親切とか友情とか、そんな普通の道徳を堅固に守る人こと、真の偉大な人間というべきである。 |
涙とは モロア (批評家) |
涙のなかには つねに少しばかりの見栄がまじっている。 |
舶来とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
世の中には妙な人がゐて、救世観音をみると、あれは朝鮮からの輸入品だといふし、御物を拝すると、これは支那の工芸品だと云つて得得としてゐる。だが輸入自身に意味があるのではない。いかに享けいれ、愛し、信じ、わがものとしたか、この直ぐな純潔さに一切があるのだ。 |
貧乏とは シドニー・スミス (宗教家) |
貧乏人は ひとの恥ではない、しかし ひどく不便なものである。 |
不幸とは ラ・ロシュフコー (批評家) |
われわれは皆、他人の不幸を黙って見ていられるほど気が強い。 |
不幸とは ドストエフスキー (小説家) |
こちらが不幸の どん底にいるとき、それは お前が こんな ヘマ をやったからだと親しい友人に指摘されることくらい やりきれないことはない。 |
不幸とは モンテルラン (小説家) |
不幸は殆ど いつでも、人生に対する誤った解釈の しるし である。 |
不幸とは バートランド・ラッセル (哲学者) |
不幸な人間というものは、眠るのが下手な人が不眠を自慢にするのと同じで、いつも自分が不幸であるという事実を自慢にしている。 |
不幸とは 芥川龍之介 (小説家) |
人間の心には矛盾した二つの感情がある。もちろん、だれでも他人の不幸に同情しない者はない。ところが その人が不幸を、どうにかして切り抜けることができると、今度は こっちで なんとなく物足りないような心持がする。少し誇張して言えば、もう一度その人を、同じ不幸に おとしいれてみたいような気にさえなる。そうして いつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意を その人に対していだくようなことになる。 |
喜びとは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
明日は消えてゆくかもしれないささやかな喜びを慈しむべきである。 |
隣人とは エッシェンバッハ (作家) |
大きい考えをもった人間は、隣人としては気持ちのよくないものだ。 |
私とは 有島武郎 (小説家) |
私は私のもの、私のただ一つのもの。 |
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