● 思想の花びら | way out >> |
職業と労働と成功 | 芸術と学問と勤勉 | 友情と恋愛と家庭 | 自然と文化と衣食住 | 生と死と信仰 |
安心とは アンドレ・プレヴォ (評論家) |
伝染病に罹っているひとは、隣人も感染したことを知ると、大いに安堵の胸を撫でおろす。 |
安心とは ニーチェ (哲学者) |
きみは生を容易にしたいか。それならばつねに群衆の間にとどまれ。そして群衆といっしょになって、われを忘れよ。 |
怒りとは アラン (哲学者) |
怒りは恐れから生れがちなものだ。(略) これは力いっぱいわめいている子供でも見ればよくわかることで、わめく苦しさと耳に はいるわめき声とにあおられていよいよわめくのである。いったいそこにあるものは怒りか、それとも恐れか、だれも知らない、おそらく両方の混合だ。これが大人となると、どんな怒りにでも常に自己に対する ある恐れがあり、同時に、怒れば救われるといったような安心への希望がある。(略) しかし、怒りにしても効果をおさめるには、明察がいるし、あるていどの自己統御もいるわけで、だから プラトン も、猟師に犬が役立つように、怒りは勇気の手助けをすると言った。 しかし、怒りは、手足や言語のように、僕らの注文どおりになるものではない。怒りのために、思わぬところまで引きずられていくのは だれも承知している。 また、怒りがもはやただ神経的な痙攣や発作ではなくなってしまうと、怒りのうちには、おそらく当人が白状する以上の粉飾があるものだ。人間は腹を立てることを学ぶ、腹立ちをどう持ってまわろうかを学ぶ、なにごとであれ学ぶように。自分を反省しながら行動をおこす、すなわち自在に力をふるいながら、しかもなにごとができるか正確に知らずに行動をおこすと、たちまちそこに怒りが現われるだろう。(略) だから、真の即興には恐れが先立ち、常に怒りが伴うというわけになる。 |
怒りとは アラン (哲学者) |
充分予見せずに、やっつけようとする際には、いつでもそこに少しばかりの怒りがあるはずだろう。恐怖を押しておこなおうとすることが、そもそも怒りそのものだといえよう。(略) 思いきって言えないことが言いたいということと怒るということとは同じものだ。臆病者やうそつきに共通したあの赤面というものもおそらく内攻した怒りなのだ。(略)相手を傷つけやしないか相手から悪く思われやしないかという恐れのために、怒りの助けをかりなければ思い切って恋愛行為ができないという始末になるのだ。ところで、どんな結果を見せつけられようが、僕にはどうも憎悪というものは信じがたい、愛とおそれとがあれば僕らの罪悪の説明には充分なのである。
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怒りとは アラン (哲学者) |
怒りは常に自分に対する恐れだ、まさしくこれからしようとすること、いま、準備中だと感ずることに対する恐れである。
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怒りとは アラン (哲学者) |
最大の不幸はおそらく正義は権力によってできあがるというところにある、人は、ために、正義をにくみ、悪を愛するに至るからだ。しかし、この事情には、たちのよくない混同があるだけだ。つまり、思想はあくまでも法を信じてゆずらない、一方肉体は肉体で行為を要求する、この二つのものの混同だ、そう考えれば、この不幸にやみに、どうやら微光がさすのであって、怒りが思索の務めを明かすこともある。正義の復讐の成るまえに眠ってはならぬ、と感情は言うが、じつはまず眠らなければいけないのだ。
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怒りとは アラン (哲学者) |
人はただ怒りによって相手を憎む、怒りとは底を割れば恐怖である。僕は僕に恐怖の念をおこさせた人間を憎む。
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おしゃべり とは アラン (哲学者) |
心にうかんだところを口に出すという僕らの要求を誤解すまい。この要求は動物の要求だ、衝動にすぎぬ、情熱にすぎぬ。狂人は心にうかんだことをみなしゃべる。(略)僕は気分をすぐ面と向かってぶちまけるおしゃべり熱というものを好まぬ。
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お洒落とは シェークスピア (劇作家) |
財布の許すかぎり身のまわりには金をかけるがいい、といって、けばけばしく飾りたてちゃいかん。凝るのはいいが、華美は禁物。たいてい着るもので人柄がわかるものだからな。 (「ハムレット」) |
外見とは ジード (小説家) |
見かけだけの価値は厳密に持つこと、そして価値以上には見せかけないこと。 |
邂逅とは 亀井勝一郎 (批評家) |
人間が一個の人間として形成されるのは、ただ自分自身の力だけに基くのではない。必ず自己を形成させてくれるところの外部の原因というものがある。その原因の中で最も直接性を帯びるのは、自分の先生とか、先輩とか、友人とか、仲間とかいった具体的で身近な人間関係であり、そこに成立する邂逅である。多くの人は、思い出の中に必ずこうした意味での邂逅の思い出をもっているにちがいない。思い出とは元来そういうもので、それがその人の生涯に深い痕跡を残すのである。しかし生涯のいかなる時期に誰と出会うかということは偶然である。こういう人間に出会いたいと思っても出会うことが出来ない。またふとしたはずみに、自分の生涯の師とも仰ぐほどの人物に出会うこともある。友人の場合も同様だ。だから心と心との結びつきを促すような人間関係の成立というものは、強烈な印象を与えるものである。即ち思い出となる。 |
邂逅とは 亀井勝一郎 (批評家) |
人生とは広大な歴史と云つてもいゝ。歴史とは無数の人間の祈念の累積だと云つてもいゝ。或は果さうとして果しえなかつた様々な恨みを宿すところとも云へるだらう。私はそれを学びつつ、やがて自分も束の間にしてその歴史の中に埋没してしまふことを知る。人間の一生は短いものだ。しかし自分は生きてゐると、たしかに感じさせるものがあるわけで、(略) したがつて人生における一大事、人生を人生として私達に確認させるものは、一言でいふなら邂逅であると云つてよい。 |
邂逅とは 亀井勝一郎 (批評家) |
しかし自己に絶望し、人生に絶望したからと云つて、人生を全面的に否定するのはあまりに個人的ではないかと私は思つてゐる。こゝでさきに述べた邂逅といふ事実を思ひ出して頂きたい。人生は無限にひろく深い。我々の知らないどれほどの多くの真理が、美が、或は人間が、隠れてゐるかわからない。それを放棄してはならぬ。自分中心だけで考へると狭くなるものだ。その狭さからくる人生否定を私は好まないのである。 |
買い物とは マルクス・ボルキウス・カトー (政治家) |
きみのほしいと思うものを買うな。 必要なものだけを買え。 |
会話とは アラン (哲学者) |
暇なときに人々が出会うと、めいめいの考えを交換するものだが、この交換はいってみれば、既知の諸公式によっておこなわれるのであって、精神はたかだか言葉を楽しんでいるだけだ、音楽の変調でも楽しむように、意外な音でも聞こえてこなければべつにおもしろいことはないといったふうをしている。(略) 精神がこれに反逆してみたところで、結局不毛な戦いに終わる。(略) 論戦に勝つことによってなんらかの真理が樹立された例はかつてなかった、そんなことがあったと信じるのは子供である。 |
観察とは アラン (哲学者) |
しかし、頭でばかり人を観察していると、いつも人を見破りすぎていることに、やがて気がつくだろう。このよくない観察術は、自分自身が対象になる場合には、かなり危険な無分別に導くことは人の知るところだ。 |
感受性の頽廃とは 亀井勝一郎 (批評家) |
感受性の驚くべき頽廃は現代の特色と云つてもよかろう。しかもそれは個々人の至らなさといふやうなものではない。現代人が寄り集つて、さういふ感覚といふよりは無感覚の性格をつくり出したのだ。(略) あらゆる苦悩に対してすら、今や無感覚の性格はやをら肩から写真機をひきずりおろし、その苦悩に向つて カメラ をさしむけかねない。或は肉眼が カメラ 化したと云つてもよかろう。そして驚くべき迅速な映写と忘却。──至高の精神すらこの巨大な歯車にまきこまれて行く。精神はかゝる地獄を生きねばならぬ。 |
感情とは ロマン・ロラン (小説家) |
人間の感情の四分の三は子供っぽいものだ。しかも その残りの四分の一だって子供っぽいものだ。 |
疑心暗鬼とは アラン (哲学者) |
人間がだれでも、疲労から、気まぐれから、心配から、苦労から、退屈から、あるいは単なる光線のたわむれからでも、各自かってなごたくを並べているものだ。けわしい目つきだとか、なごやかな目つきだとか、あるいは焦燥の身ぶり、まの悪い微笑などというが、そういう記号くらい人をまどわすものはない。元来が生命というものの効果にすぎぬ、いわば蟻の運動のようなものだ。いったい人間は、他人のことなど心配する暇はまずないもので、相手が、同じ原因から、自分と同じくらいな疑心を当方に対してもいだいているという場合に限って、諸君には相手のことがとやかく気にかかる。この場合に現われる、さまざまな記号の上に孤独と反省とが働く、疑心暗鬼を生ず、ということになる、暗鬼を判じて腹をたてれば、暗鬼は本物になる、そして敵を作る。記号がどういうものであれ、そこには常に分別などはない。人間は、そう奥の深いものではない。
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恐怖とは アラン (哲学者) |
およそ恐怖には、恐怖に対する恐怖というものしかないのである。だれでも承知しているところだが、行動は恐怖心を追い払うし、また危険がはっきりわかれば恐怖が静まることも少なくない、そのかわり明瞭な知覚が欠けていると、たとえば演説とか試験とかが近づくにつれてはかりがたいおそれを感ずるように、恐怖の念は、おのずから養われるものだ。(略) 恐怖が始まる、ぎょっとしては ほっとする、そういう小さな驚きがいくつも重なって、恐怖は増大する、要するに行為の伴わなぬ警戒が相重なって恐怖は大きくなる。 |
恐怖とは アラン (哲学者) |
この病気から救ってくれるものは行動だ、不安と躊躇とは病勢を悪化する。手を下すことができず待っているというのがすでに苦痛だ、恐怖とは本来、これからなにをしたらよいかがわからずに待っていることにほかならぬ。しかし、この場合、こまごました、むずかしいが、よく心得た行為をあれこれとやって気がまえていれば、やがて心は落ち着く、(略)
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恐怖とは アラン (哲学者) |
この恐怖の小さな世界も ただ君の手でささえられてこそ 一つの世界であり、 しかも君の恐怖の念はただ君の勇気にささえられて立っているものだからだ。ここには地獄落ちの道開けている、恐怖に屈する者は、思想のないやみに落ちる。さて諸君は道徳的意識とは意識自体にほかならぬ、ということがなっとくしたくはないか。
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恐怖とは アラン (哲学者) |
恐怖の念をおこさせるものは正しく想像だ、想像物の不安定だ、まぼろしの原因でもあり同時に結果でもある唐突なつぎ穂のない心の動きだ、要するに、事物の力につながりがもてず、ただ事物の提供するやくざな手がかりに頼っている行為上の無力が恐怖の種を作るのだ。
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教養とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
大切なことは、自分が身につけたと思い込んでいる教養のすべてを、根底から破壊してみることである。 |
教養とは 夏目漱石 (小説家) |
こうして ひげ をはやしたり、洋服を着たり、シガー をくわえたりするところを うわべから見ると、いかにも 一人前の紳士らしいが、実際 僕の心は 宿なしの乞食みたいように 朝から晩まで うろうろしている。二十六時中 不安に追いかけられている。情けないほど落ち着けない。しまいには世のなかで自分ほど修養のできていない気の毒な人間はあるまいと思う。
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虚栄とは アラン (哲学者) |
世間では、自分に満足した人間がいるということをいうが、僕はそんな人を一度も見たことがない。くりかえし他人からほめられる必要を感じているのは、ばか者に限る。成功は一種の安心をもたらすものだ。しかしことごとく成功した場合でも、この成功をささえる必要から、やりきれぬ思いをするのがふつう人の感情である。だれでも人を不快にするのはいやだ、人の気に入るのはうれしい。ただ自分の力で、人から好かれる自信のあるような男女がはたしているだろうか。ずいぶん確信の強い人でも、身のまわりに装飾や礼儀をつけている、友人の力で元気をつけている。無為な社会の悪習と自己反省に対する嫌悪とに押されて、世をあげて、阿諛追従を求める、金を払ってまで。そして、一種の安心に達する。だが、これは自愛ではない、虚栄心である。(略) しかし、この装飾は長持ちしない、虚栄はついに虚栄である。 |
金銭とは ドストエフスキー (小説家) |
いま私はやっと五十五歳でまだ男の部類に属するが、これから先二十年くらいはまだまだ男の部類にはいっていたいものだ。だがそんな汚らしい老人には、だれも喜んで寄りそってはくれないだろう。さてそこで必要になってくるのが金である。 (「カラマーゾフ の兄弟」)
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金銭とは アラン (哲学者) |
どんなに金をためようとしたところで、だれからも生産物を奪うわけではなし、一時交換の手段を壟断するにすぎないからだ。この種の悪は小さい、人間の情熱をどんなに控え目に見積ったところが、人々が情熱に負う悪にはとうてい抵抗できないものだ。不正はそこにはない。
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言語生活とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
すべての表現が、宣伝の性格を帯びることほど言語生活にとって危険なことはない。 |
言語生活とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
中途半端の外来語と、崩れた日本語と、その混血が、現代の言語生活の悲劇である。 |
権利とは アラン (哲学者) |
常に正しくありたいと願い、認められぬ権利のために戦うすべての暴君の口実を偽善だとは僕は決して考えない。なぜかというと、彼にいちばん嬉しいのは所有ではなく、所有権だからだ。同様に横領者というものも、要するに人々の承知を求めているのだ。彼がどんなに詭計を弄したりうそをついたりしたところが、プラトン がすでに洞察した深い人間真理、つまり隠れた正義がなければ不正も無力だという真理を覆うことはできぬ。野心は一つの理想だ、講和条約でよくわかるように、戦争は常に説得を目的とし、相手の要求をなだめようと骨をおるものだ。だから不屈な義人は強者なのだ。思想の見つけるものは常に思想だ、正義の皆無な思想とはもはや思想ではない、考えるとは認めるということだ。 |
権利とは アラン (哲学者) |
世には、気のきいた侫人の嬌態というものがあり、ことのならぬまえに先決すべき判断を、ことがなってからとやかく言っては自由な態度をよそおう。勝ち誇った力が、常に他人を説得しようと試み、しばしばこれに成功したと信じこむのもそのゆえだ。だが、これはむちをふるって定理を証明しようとするにひとしい。自由な承諾と真の平和とを目的とするあらゆる誠実な説得の仕事はすべて、自分に敵対する精神に完全な自由を許すにある、これは、ユークリッド の精神が他の諸精神に話しかけるのと同様なやりかたで、つまり、承諾を盗もうとは思わないのだ。 |
権利とは アラン (哲学者) |
権利は論証と証拠との力で発見される、他のものの力に頼るのではない、ただ思想の力によって発見されるのであって、その以外のものに助力を仰ぐのではない。その点、真の反抗は、追跡されようが投獄されようが、死を求められようが自分の意識の命ずるところにしたがって誇りあるいは書くことになる。 |
行為とは 芥川龍之介 (小説家) |
われわれの行為を決するものは善でもなければ悪でもない。ただわれわれの好悪である。あるいはわれわれの快不快である。そうとしかわたしには考えられない。 |
後悔とは エッシェンバッハ (小説家) |
後悔とはなにか。われわれが、あるがままの おのれ でしかないという1つの大きな悲しみである。 |
後悔とは アラン (哲学者) |
だから、僕はおのれをあまりきらいすぎてはいけないと忠告するのだ。人間ぎらいが自己嫌悪までいく例は、一般に考えられているよりはるかに多いのである。僕らは他人を裁こうとすればするほど、自分自身の態度や言葉や行為につまずくものだ。言わなければよかったと後悔するような言葉のなかに、熟考された言葉がいったいどれだけあるか。そんな言葉をあとになって詮議だてするからいけないのだ。詮議だてして自分の心のなかに、ありもしない悪意だとか、よくない性質だとかを探ろうとする、いよいよいけない。諸君をしばるものはなに一つない、諸君の欠点も美点もありはせぬ。要するに、人間は元来親切なものだと信ずる間違いが一つ、意地の悪いものだと信じる間違いが一つ、この二つの誤りはたがいに手を取り合ったものだ。 |
幸福とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
空想してはならない。 不平家とは幸福についての空想家であって、自分と他人とを比べては いつも嫉妬心に悩まされている。 |
幸福とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
邂逅と謝念と、更にそこに生ずるのは信従ということである。(略) そしてここで開眼ということが起る。それまで見えなかったものが明らかに見えてくるということだ。同時に、ここに人間の転身ということが起る。(略) そしていままで見えなかったものが明確に見えてくるということは、言葉を換えて言えば、人間としての苦悩が更に深まるということだ。(略) だから邂逅と謝念と信従と転身は、そのまま必ずしも人間の心の安らかさを意味するものではない。むしろ逆に一層多くの不安を我々にもたらすかもしれない。しかし、幸福とはそういう不安に耐えぬく勇気だ。 |
心とは 有島武郎 (小説家) |
人間の生命的過程に智情意というような区別は実は存在していないのだ。生命がある対象に対して変化なく働き続ける場合を意志と呼び、対象を変じ、もしくは力の量を変化して生命が働きかける場合を情といい、生命が二つ以上の対象について選択をなす場合を智と名づけたに過ぎないのだ。人の心的活動は三頭政治の支配を受けているのではない。もっと純一な統合的な力によって総轄されているのだ。(略) 虹彩を検する時、赤と青と黄との間に無限数の間色を発見するのと同一だ。(略) 分解された諸色をいかに研究しても、それから光線そのものの特質の全体を知悉 (ちしつ) することはできぬと同様に、智情意の現象を如何に科学的に探究しても、心的活動そのものを掴むことは思いもよらない。
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個性とは 「荘子」 (荘周) |
世俗の人、皆人の己に同じきを喜びて、人の己に異なるを悪 (にく) む。 |
ことば とは オスカー・ワイルド (小説家) |
重大な問題の場合には、物の言いかたが美しいか美しくないかってことが大切なんです。ほんとうか嘘かなんて問題じゃないんです。 |
ことば とは 貝原益軒 (儒学者) |
言葉多ければ口のあやまち多く、人に憎まれ、わざはひ起こる。つつしみて多く言ふべからず。 |
ことば とは 吉田兼好 (歌人) |
心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。 |
ことば とは 柳田国男 (民俗学者) |
現今は言語の効用が やや不当と思われる程度にまで、重視せられている時代である。言葉さえあれば、人生のすべての用は足るという過信は行き渡り、人は一般に口達者になった。もとは百語と続けた話を、一生涯せずに終わった人間が、総国民の九割以上もいて、今日いうところの無口とは まるで程度を異にしていた。それに比べると当世は全部が おしゃべりといってもよいのである。 |
娯楽 とは 亀井勝一郎 (文芸批評家) |
これだけ娯楽が発達して、人は却ってほんとうの楽しみを失っているのではないかという疑いを私は抱く。楽しそうな外観を呈しながら、却って深い不安におびえているようにさえみえることがある。とくに大都会ではそうだ。つまり疲れているのだ。疲労の深さは刺戟を求めるものである。より強い刺戟によって疲労を痲痺させるわけだ。 |
酒 とは ゴーリキー (小説家) |
理窟をこねるのは どんなときでも馬鹿げたことだ。まして酒に酔ったうえでの屁理窟などは問題でない。酔うために必要なのは酒で、良心の苛責や歯ぎしりではない。(注) (注) 原文では、vodka (ウオツカ) になっているのですが、「酒」 にしました。 |
酒 とは 清少納言 (随筆家) |
かたはらいたきもの、----思ふ人のいたく酔ひて、同じことしたる。 |
酒 とは 吉田兼好 (歌人) |
月の夜、雪の朝、花のもとにても、心長閑 (のどか) に物語して盃出したる、万の興をそふるわざなり。つれづれなる日、思ひの外に友の入り来て、とり行ひたるも心慰む。冬せばき所にて、火にて物いりなどして、へだてなきどちさしむかひておほく飲みたる、いとをかし。 |
自然とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
驚異すべき秘密をこっそりと内にひそめた平凡さ、これが自然というものではなかろうか。 |
自然とは 芥川竜之介 (小説家) |
われわれの自然を愛する所以 (ゆえん) は、──すくなくとも その所以の一つは自然は我々人間のように妬んだり欺いたりしないからである。 |
自然とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
しかし今ふりかへつてみて、自分の感性を養つてくれたものがあつたとすれば、それは故郷の自然ではなかつたかと思はれる。(略) 自然と風景の影響は思ひの外我々の心に 「文学」 を植ゑつけるのでなからうか。 |
ジャーナリズムとは 亀井勝一郎 (批評家) |
この文明の利器 (ジャーナリズム) は、事物そのものに直接ふれることなしに、事物そのものを見たという錯覚を生ぜしめやすい。(略) 即ち 「性急な裁断による限定」 という形をとる。それは限定であるが故に明快な外観を呈するが、この種の 「明快さ」 に我々現代人は毒されていないだろうか。 |
社会とは 亀井勝一郎 (批評家) |
自己形成のために社会的条件が必要であることは言うまでもないが、その社会という言葉をよく吟味して行くと一つの抽象的性質にぶつかる。なぜ抽象的かというと、社会という概念だけはもっているが、さて実質的に自分の目で見、自分の手で直接触れる範囲を考えると、それは実に狭い。自分の家族とか職場とか団体とか、そういう限られた範囲内で我々は活動している。そして、一般にひろく社会という場合には、その大部分は様々の報道機関とか書物とか映画を通して 「考えられた社会」 むしろ 「軽信された社会」 であって、その意味で私は抽象的なものとよびたいのだ。たとえば ジャーナリズム が示す社会は果して社会であるか。社会学が教える社会は果して社会であるか。そういう疑問をもてということだ。私の恐れるのは社会的観念だけで物事を見て判断して、その実質にふれることの極めて少ないことである。社会的関心は無用だと言うのではない。むしろ逆に我々が社会的関心と呼んでいるものが、果して正当に社会的関心かと自己に問うてみよと言いたいのだ。 |
自由とは エッシェンバッハ (女流作家) |
幸福な奴隷は、自由のもっとも憎むべき敵である。 |
自由とは 芥川竜之介 (小説家) |
自由主義、自由恋愛、自由貿易、──どの 「自由」 も生憎 (あいにく) 杯の中に多量の水を混じている。しかも大抵は たまり水を。 |
自由とは 亀井勝一郎 (批評家) |
一体、自分で自分を束縛するとはどういうことであるか。その一つは、人間の認識能力と称するものへの 「我執」 と言ってもよかろう。人は 「自分の観点」 「自分の立場」 なるものをひとたび決めてしまうと、それに執着し、そのことで自己を束縛してしまうものである。自分の 「観点」 とか 「立場」 への懐疑を失ったところに、自ら意識しない 「不自由さ」 が生ずる。自分では 「自由」 であると錯覚しながら。
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習慣とは アラン (哲学者) |
習慣の力のおかげで、行為は不必要な運動なしにすぐに判断にしたがうのだ、というべきである。少しでも横道のことを反省したり考えたりしたら、体操家はたちまち失敗を演ずる。 |
勝負とは ラ・ロシュフコー (批評家) |
賢人は勝負に勝つよりは勝負に加わらないことを利とする。 |
食物とは 貝原益軒 (儒学者) |
食は身をやしなふ物なり。身を養ふ物を以て、かへつて身をそこなふべからず。 |
人生とは ショーペンハウアー (哲学者) |
青年の立場から見れば、人生は無限に長い未来なのだが、老人の立場から見れば、それは非常に短い過去にすぎない。若い頃には、ちょうど オペラグラス の対物 レンズ を眼にあてた時の物体のように見えるが、晩年には、接眼 レンズ を眼にあてた時のように見える。人生がいかに短いかを認識するためには、人は年をとってしまわなければならない。つまり、長生きをしてみなければならないのだ。 |
人生とは ショーペンハウアー (哲学者) |
青年期には直観が支配し、老年期には思索が支配する。だから青年期は詩作に適した時期であり、老年は哲学に適する時期である。実践的にも、青年期には人は直観したものと その印象によって決心するが、老年期には もっぱら思索によって決心する。
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人生とは 芥川竜之介 (小説家) |
人生は一箱の マッチ に似ている。 重大に扱うのは ばかばかしい。 重大に扱わなければ危険である。 |
人生とは 芥川竜之介 (小説家) |
人生は一行の ボードレール にも若 (し) かない。 |
人生とは ショーペンハウアー (哲学者) |
人生の知恵の一つの重要な点は、われわれが自分の注意を一部は現在に対し、一部は未来に対して払う割合が正しく保たれていて、一方のために他方をだいなしにしないようにするところにある。多くのひとびとはあまりにも現在に生きすぎる軽薄な連中であり、──他のひとびとはあまりにも未来に生きすぎて、臆病な心配家になってしまう。
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人生とは 芥川竜之介 (小説家) |
人生はつねに複雑である。 複雑なる人生を簡単にするものは、暴力よりほかにあるはずがない。 |
人生とは 「大学」 (儒教の経書) |
苟 (まこと) に日に新たに、日に日に新たに、又日に新たなれ。
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人生とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
だから人生を人生たらしめる基本として、私はいつも邂逅と謝念について語ってきた。社会という言葉を使うなら、少なくともこうした結合の成立の場として考えたい。
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人生とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
人生とは何ぞやといふ広漠たる問題に私は答へることは出来ない。しかし自分の半生をかへりみて、成るほどこれが人生といふものであらうかと、確と感じさせられたものはある。それは私を一人間として育ててくれたもの、現に育ててくれつゝあるその条件である。私は自分一個の力で生きてゐるわけではなく、自力で成長してゐるわけでもない。書物を通して接した東西の先師、或は現存してゐる先輩友人の導きによつて成つてきたわけで、条件とはつまりこの相伝相続を云ふのである。
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人生経験とは バーナード・ショウ (劇作家) |
四十歳を過ぎた男は だれでも みな悪党である。 |
人徳とは 荘子 (荘周の作 ?) |
巧を以て人に勝つことなかれ。謀を以て人に勝つことなかれ。戦を以て人に勝つことなかれ。 |
新聞とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
我々は新聞の活字の大小によって左右されながら生きている。 |
進歩とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
「進歩」 を無条件に信ずることは出来ない。知恵が増すにつれて憂いもまた多くなる。そして未来についての 「言葉」 だけが涯もなく空転しているようにみえる。文明の発達と饒舌は不可分にむすびついているらしい。
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正義とは アラン (哲学者) |
正義は外からの助けをなに一つ借りないで、ただ自己の力で、会ったこともない知らない人間を相手に、作ったり作り直したりしなければならぬ或るものだ。 力は不正そのものと思われがちだが、じつは力は、正義にとってはあかの他人だと言った方がいいので、狼が不正だとはだれも思わぬ。だが、お話に出てくる理屈を言う狼は不正だ、この狼には他人の承認がほしいからだ、そこに不正が現われる、つまり不正とは精神のある主張だということになる。 |
正義とは アラン (哲学者) |
正義は、相互の自由な率直な是認が おこなわれる僕らと他人との関係という一つの状態を仮定する、ということを記憶しておこう。 |
正義とは アラン (哲学者) |
金持になったことで満足しているがいい、正しくなることはあきらめたまえ、と。この場合、諸君を処罰したのは諸君自身の判断だ。ここから次の鉄則が生ずる、だれも承知のものだが、「どんな交換や契約にあっても、相手の立場に自分が立ってみること、しかもできるかぎり自由な見地から、あらゆる君の知識に相談の上、相手の立場に立ったとして、はたして自分はこの交換なり契約なりを是認するかどうかを見きわめること」、人生はこの種のみごとな交換に満ちている、ただ人々はこれに注意を払わぬだけだ。しかし、明らかに富は、常に他人が価値を知らぬ物を買った、あるいは他人の感情や不幸を利用したところに由来する。僕は自分の畳句に還る、金持になっただけで満足しろ、と。 |
正義とは アラン (哲学者) |
正義とは平等である。 |
正義とは アラン (哲学者) |
慈愛とは正義の予感にほかならぬ。完全は正義とは、正義の紀律と基礎とを仮定するにある、つまりすべての人々に自分と同様な見識を備えてほしいと望むところにある。むとんじゃくな男だとか、なんでも信じられるやつだとか、いつも満足しきった人だとか、と他人を苦もなく考えるのは正しくないことはだれでも承知している。正義はまず設けられ、次に仮定され、しまいに是認された平等である。やさしさにも阿諛にも、虚偽の威厳にも、あるいはこれも一つの職務といった態の入念に仕上げられた狂気ざたにもつまずかず、警察官の傲然たる判決のまえでも、みじめな罪人のまえでも、これらを高い平等の観念のもとにながめるのをよしとするあのまなざし、人々の信ずるよりはるかに尋常一般なあのまなざしを知った人が、裁く人とはなにを意味するかを知っている。
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正義とは アラン (哲学者) |
無駄に働くことは、共有の財を乱費することにほかならない。
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正義とは アラン (哲学者) |
要するに、こういう金持の目じるしのようなそらぞらしい装飾物は、軽蔑されるよりむしろ羨望の目でながめられている、(略) しかし、僕は、虚栄心や人に喜ばれようとする迷いにまっこうから反対する努力には多くを期待しない、むしろ ダイヤモンド や レース をながめて失われた パン を思う聡明なまなざしに期待する。
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正義とは アラン (哲学者) |
正義の認識が、不正をこらそうとするある怒りなしにおこなわれることはまれだ、あたかも正義などにはまったく盲目的なある種の人間がこの世に存し、そういう連中は地上から追い払わねばならぬといった調子だが、これはむろん子供じみだことだ。あらゆる情熱は不正であり、すべての人間は情熱におぼれる。この正義のための怒りが、あらゆる行為の上で正義の道連れだということもやはり本当ではない。
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誠実とは アラン (哲学者) |
人々の他人に関する意見というものは、断固として人を処罰するほどに断固としたものではない。どんな処罰も苦痛をもたらす。子供というものは感心しないという意見を持ったからといって、子供にそれを白状するやつは困りものだろう、子供のいちばんいいところだけを信じてやるに越したことはあるまい。大人だってそうだ。だれにもいやな思いをさせずに話をしなければならぬという事態に立ち至ったら、自分のことも他人のことも話さず、事物について口をきくことだ、事物をどう判断しようが事物をどうするわけでもない。 いろいろな効果を経験してみて、教育と礼儀とがこういう思慮に導く。 |
誠実とは アラン (哲学者) |
礼儀上隠さねばならぬ判断はいっさいあえて表に現わさずうやむやにしておくというかぎりで、礼儀のうちに道徳がある。したがってさまざまな情熱をもち、これを追求する者には、礼儀は誠実なものだ。要するにうそをつかぬ方法に二種あって、一つは心にうかぶことをみな口にだす方法、これはむろんなんの価値もない、一つは気分しだいの即興というものを過信しない方法。こう考えれば、礼儀正しい会話というのも悪くはない。 |
精神とは 西行桜 (謡曲) |
埋木の人知れぬ身と沈めども、心の花は残りけるぞや。 |
精神とは アラン (哲学者) |
(略) 僕になかなかいいことを言ってくれた。他人の考えを変える思想の力とは、自分には一種の暴力に思われた、と。もっともだ。多数人にとって、思想とは職人のようなもので、保護者を持っている方が勝つに決まったものだ。なんとかして僕をものにしようとかかる作家は、実際、僕は大きらいだ。能弁の無価値な理由の一つもそこにある。精神は孤独でなければならぬ。 |
精神とは アラン (哲学者) |
精神が道化者然と芸当を演じたり、賦役労働のようなことに甘んじているとき、じつは人は無秩序の頂上にある。だが、僕が考えているとき、その効果だとか条件だとかに注意を払わぬものだ、ということを見抜いておくべきで、人間には自分は考えていると反省すると同時に充分に考えることはできないものだ。自己修練とか努力とかではなく、むしろ暫時の逃走、あるいはすべての物からの超脱、万事を抛棄して一事に専心する必要もここに生じるので、真の観察家は放心したように見えるといわれるゆえんだ。要するに、ラ・ブリュイエール が言ったように、なにごとにも拘泥せずなにものにも駆られない、ということが必要だ。 |
精神錯乱とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
感動を失ってただ刺激だけを求め、 沈黙を失って饒舌となり、 熟考力を失って即断し、 自分で自分の言ったことを忘却する。 .....精神錯乱の前兆である。 |
制服とは アラン (哲学者) |
制服というものは、人間に安堵と尊厳とを同時に与える。 そしてあらゆる服装は多かれ少なかれ制服である。 |
節制とは アラン (哲学者) |
古代人は、伝統的な知恵の力で、放縦の感激や饗宴の興奮のその場限りの楽しみを、なにか人間をさわがす神さまのしわざにすることを忘れなかった。儀式によって、いわば秩序ある酩酊によって、神さまの心を鎮めることを考えた。この同じ考え方から、古代の賢者たちは、僕らよりはるかに礼節の形式というものをすべて重んじた。これにくらべれば、節制というものを、恐れからくる禁欲に化してしまおうとしている僕らは、僕らの真実な動機や真実な力を忘れすぎている。だから、僕らは常に個人にねらいをつけていながら、個人には触れない。儀式の好きな古代人は、もっと大道を闊歩して人間の魂に到達した。 |
節制とは アラン (哲学者) |
無遠慮な作家あるいははずかしがりの作家は少なくない、力がないとはいわぬが、常に優美なものを欠いている。この危い修練で無上の均衡を物にしている作家を僕はほとんど知らぬ。必要なものはおそらく反抗でも戦いでもない、むしろ解放だ、こういう放縦の動きを計るのにかけては、羞恥より節度というものの方が一段とたくみなものだ。神々の歩いた道もそれだ。 |
節制とは アラン (哲学者) |
そして、真の過失は常になにものも信じないところにあるのだ。悪を成就するのは鎖を解かれた精神だが、悪に手をかけるのは鎖につながれた精神だ。だが自由な精神は、行きあたりばったりに酩酊することができる、だが、どうしてもまた酔わずにはいられぬほど酩酊に未練をもたぬものだ。楽しみを分ちながらでも他人を害することができるし、破廉恥に従えばことごとくの人を害する、そうなると節制を破る過失もまた恐ろしいものになることを言い添えておく。 |
善とは 亀井勝一郎 (批評家) |
善行とは恥しい行為ではあるまいか。少なくとも自ら 「善行」 したと思いこむことは。 |
宣伝とは 亀井勝一郎 (批評家) |
「宣伝」 は現代の特徴だが、そこには必ずある効果を露骨に追求する精神がみられる。同時にそのくりかえしは、必ず誇張を伴う。本当に人の心を打つのは事実の正確な伝達であって、それは宣伝しようという下心を放棄したときはじめて可能となる。人に伝え難いものを敢えて伝えようとする時の、複雑な気持ちを伴うからだ。 |
憎悪とは アラン (哲学者) |
僕は、憎悪を怒りの原因というよりむしろ結果だと考える。憎むとは、自分がいらだつのを見越すことだ。(略) 怒りを我慢するのはむずかしいが、怒りから憎悪に飛び移ることは賢者が決してやらないことだ。
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想像力とは アラン (哲学者) |
想像力は、空想を生む肉体の運動がなければ空想裡になんら現実的なものをもつことができない。(略) 内に蔵した心配は、身体を動かしはしないが、烈しい努力と同様に人を疲らす。これがために生じた諸結果は、今度はさまざまな徴候をなって現われる。恐怖によって生じたさまざまな結果が、恐怖心を増大さす。思想は生命の首を絞める。(略) 考えないようにする、こういうことは、考えているよりはるかに容易な仕事だ。ことわっておくが、そんなことはできないと信じこめば、実際に不可能事になる。
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束縛とは ジード (小説家) |
人間は束縛によってのみ自己を絶滅から救いうる。 |
俗物とは ゲーテ (小説家) |
俗物は、じぶんとは異なる状態を否定するばかりでなく、すべての他の人間たちも じぶんと おなじ仕方で生活すべきだと思っている。 |
即効性とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
薬の濫用というが、実は「即効薬」を濫用しているのだ。 何事においても即効性だけをのぞむこと、これが自然を失った現代人の病気である。 |
正しさとは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
すべての人間の心に訴えるものは、正しさではなく、むしろ正しくあろうとしてまちがったとき、そのまちがいから発せられた正しさへの欲求であり、祈りである。 |
楽しみとは シャルドンヌ (小説家) |
うまい食事、友情、健康、恋愛、物の所有などが、貧しい人々の楽しみである。 |
楽しみとは 鴨長明 (随筆家) |
身を知り、世を知れば、願はず、わしらず (世事に奔走しない)。 ただ、しずかなるをのぞみとし、うれへなきを たのしみとす。 |
旅とは 松尾芭蕉 (俳人) |
旅の具多きは道のさはりなり。 |
知恵とは アラン (哲学者) |
知恵は本来悟性の徳だ、だからと言って、他の道徳がみな知恵という言葉で一括できるというふうに解してはならぬ。知恵だけにたよる道徳には、大胆さとか物をつくり出そうとする熱とかが欠けている、知恵の真反対の悪は、愚かさ、つまり軽率や偏見による過失だ。だから賢明だというにすぎぬ知恵の徳は、要するに過失に対するさまざまな警戒の総括であって、過失から生れぬ真理は、少年時をもたぬ大人のようなものだ。ただ、知恵、あるいは慎重といってもいいが、それがないとなにものも成熟しないだけだ。年をとっても子供のような人がいくらもある。 |
知恵とは アラン (哲学者) |
知恵の最初の果実は仕事だ、といって精神の仕事という意味ではない、そんなものはいったいどんなものだか僕は知らぬ、仕事というのは判断に対して物を準備する手か目の仕事の意味だ。なにもかもはじめから発明したいと思うのはなるほど立派なことだし、予想したり予言したりするあの性急な心の動きにしてもかけがえのないものだが、学校に上がって、本に書いてあること、著者の仮定したこと、結論したことを、わかりきったものでも真実として受け入れるのがやはり賢明だ。だから、物をたくさん写したり、習字をしたり、くりかえし本を読んだりすることはみなよいことで、ことに精神の努力と間違えられる緊張感、常に横道で働いているあの緊張感にとらわれずにやるようにするとよい。学校の勉強はすべて知恵に発するもので、勉強を軽蔑するのもこれにあまり関心をもちすぎるのも同様に危険である。 |
知恵とは アラン (哲学者) |
こういう気の短い人は、自分で指揮をとって考えないような人は自由な人とはいわれないと断ずるが、そう断ずる人こそ、おのれの要求に従って考えている以上、自由な人とはいえぬと僕なら言いたい。だから、自分とはなにものかと探索してはならぬ、そんなものはみな対象であって君ではないのだから。 |
知恵とは アラン (哲学者) |
謙遜は、自分になにごとも約束しない、つまり自分を他人からかれこれと期待される思考器械と考えないというところに成立する。(略) 真の思想家は、むしろ試練のうちに睡眠がくるようにあるいは喜悦と快活とが得られるようにと沈黙して祈念する、これは、自分には自分自身が必要だと思ったときに、ソクラテス がみごとにやってみせたところだ。たとえば、手をこまぬいて待っているより仕方がないのがれようのない危険に面接する場合のように、僕らの力や企図を超越した自然の巨大な光景を眼前にするということも、真の思索には有益なことだ。そういうのが試練というものの意味だ。諸君の孤独、諸君の僧院は、人々のまっただなかにあるものであってほしい。 |
知覚とは アラン (哲学者) |
知覚とは、まさしく僕らの運動とその効果に関する予想だ。よく知覚するとは、そういう目的に達するのに、どういう運動をすればいいか あらかじめ知ることで、正しく知覚する人はなにをすべきかを知っている人だ。 |
知覚とは アラン (哲学者) |
幽霊を知覚する誤りは僕らの予想のうちにある。幽霊をみるとは幽霊をだと推測することだ。見える対象から、手を延ばせば、なにか動いているものにさわるだろうと推測することだ。しかし、僕が実際に感じているものはまさしく感じている。その感じているそのことについての学問というものは成り立たない。なぜかというと感じていることには誤りというものがまるでないからだ。僕の感ずることについての研究とはすべて、それはどういう意味か、僕の運動によってそれがどう変化するかというところに成り立つ。と、言えばおわかりだろうか。(略) くわしく言えば、物の真とはその形とか位置とかその他すべての物の特質を定める空間上の諸関係全体にほかならぬ。 |
手紙とは キケロ (政治家) |
手紙では、ひとは赤面しない。 |
手紙とは 吉田兼好 (歌人) |
手のわろき人の、はばからず文かきちらすは、よし。見ぐるしとて、人にかかするは、うるさし。 |
道徳とは A. フランス (小説家) |
道徳とは風習の科学である。それは風習とともに変化する。 それはあらゆる国において異なり、どこでも十年と同じではない。 |
道徳とは 亀井勝一郎 (批評家) |
抽象的な道徳がいかに危険であるかということである。(略) 即ち言葉自身としてみればすべて正しいのである。絶対にまちがいのないことばかりなのだが、絶対にまちがいのないことばかり並べられると、人間性は忽ちそれに反抗するものである。ましてそれが権力による強制を帯びる時、「正しさ」 は逆に 「不正」 となる。「善」 は 「悪」 に転化する。何故なら、人間はその正しさのために傷つくか、あるいはその 「正しさ」 を装おうとするために偽善者になるからである。
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道徳とは 亀井勝一郎 (批評家) |
道徳を完全に実行する人間というものは事実上存在しない。真の道徳家とは、道徳の完全な実行者のことではない。実行しようと思っても、実行出来ないでいる苦しみを、身にしみて感じた人、それが真の道徳家である。
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東洋とは 亀井勝一郎 (批評家) |
しかし今ふりかへつてみて、非常に遺憾だと思ふのは、せつかく仏教や仏教芸術を学びながら、もつと視野をひろくして、東洋全体に眼をあけなかつたことである。ことにお隣の中国に対しては、全く無智、無関心であり、それのみならず侮蔑感さへ抱いてゐた。近代ヨーロッパの文化に対しては卑屈なほどこれを讃美しながら、東洋に対しては優越感を抱き、まるで自分が東洋人でないかのごとく考へてゐた。
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賭博とは アラン (哲学者) |
実際の世界は、短気者が望むように、しかりと否とでは答えてくれぬ、信念のもとに希望をおく、厳格な指令に従って、答えはおのれのうちから引き出さねばならぬ。しかし賭博は、いつもしかり、否で答えてくれる、賭博者は仕事を継続しない、くりかえしやりなおすのだ。 |
泣くとは アラン (哲学者) |
どうやら人間は泣くことを学ぶものらしい。どうにもこうにもならなくなり、われとわが身に腹がたってくると、人は涙を求める。(略) 涙に身をまかせてしまえば、人の命をつるしあげ、すぐにも息の根を止めかねない絶対的な絶望からは救われるが、同時に自分の無力を身にしみて味わわされる。これは立ち上がろうと唐突な努力を試みてはまたくずれ落ちるあの動きによく現われている。ただし、反省と判断との力で、人間はこの種のいたましいあがきを、純然たる メカニスム の手びきにわたす、つまり、自然の手にそれだけのことをさせてやるのだ。そのとき、人間は嗚咽せずに泣く、涙をとおすと、おのれの不幸がいっそう見わけられさえする、こうなればちょうど雹害のあとの農夫のように、すでに人はおのれの不幸に制限を付している。 |
涙とは アラン (哲学者) |
涙の羞恥というものがあって、礼儀の上から言っても人前ではあまり泣かぬものとされている。これはあたりまえで、人前であまり泣くのは、相手が隠したがっているかもしれぬ苦しみを無遠慮に尋ねだすことだからだ。だから喪中の婦人は面衣をまとう。(略) 涙についていろいろ述べていると読者の胸裡に、こんどは正気の不幸という一種の不幸がうかびあがるだろう。そういう不幸は、思慮ある哲学者の扱わぬものだとはすでに述べたはずだ。 |
人間とは 井原西鶴 (小説家) |
一日まさりになじめば、人ほど かはいらしき者はなし。 |
人間とは ラ・ロシュフコー (批評家) |
人間一般を知ることは、ひとりひとりの人間を知ることより、やさしい。 |
人間とは オスカー・ワイルド (小説家) |
人間のことを、あの人は良い人だとか、この人は悪い人だとか、そんなふうに区別するなんて、まったく馬鹿げた話ですよ。人間は魅力があるか、さもなければ退屈か、そのどちらかですからね。 |
人間とは イプセン (劇作家) |
一体ね、人間というものは、まるで ドブ 鼠かなんぞのように、ガタガタ 大騒ぎをやるくせに、広い外の世間の存在を忘れている。 くだらん、狭い判断を下して得々としているんだ。 まるで、なっちゃいない。 |
人間ぎらいとは アラン (哲学者) |
人間ぎらいは、いちばん美しい道徳はまたいちばんふつうな道徳だということを率直に考えるべきだ、そうすればこの人間という高貴な種が好きになるだろうし、あわせて自分自身もかわいくなるだろう。 |
判断とは 亀井勝一郎 (批評家) |
人間の精神が衰弱の方向をたどる時、その徴候が一番に どこに現れるかというと、判断力の衰弱である。即ち性急な裁断による限定という形をとる。それは限定であるが故に明快な外観を呈する。 |
悲劇とは 亀井勝一郎 (批評家) |
怯懦の群れ特徴は、あたりさわりのない生存をつづけるところにある。だから、何びとにも喜ばれず、憎まれもしない。「我らも彼らのことを語らず、ただ見て過ぎよ」。完全に無視され黙殺される以上の悲劇があるだろうか。 |
病気とは 亀井勝一郎 (批評家) |
肉体上の病気にもまして危険なのは、今日の我々の精神状態そのものが、様々の意味で病的になっていることである。文明が進歩すると、新しいすぐれた薬が発見されると同じ程度に、また毒薬の方も発達するものである。(略) 自分の内面に即して、いかなる意味で自分が病的であるかという、そういう自覚をもつことは極めて大切ではなかろうか。自分は健康であると思いこんでいる方が却って危険だ。 |
貧乏とは ナポレオン 一世 (軍人) |
いつまでも貧乏でいるための最も間違いのない方法は、いわゆる君子人であることだ。 |
風俗習慣とは アラン (哲学者) |
尋常な生活の規約に従い、一般の風俗習慣をも受け入れて、そういう機会から遠ざかっているのが賢明だということになる、もっとも精神だけは別の仕事をもっていなければならぬ。(略) 月並みな習慣を賛美するよりむしろ、さようなものを頭から判断しない方がよろしい。そこにこの世の別の一つの純潔があるわけだ、眠りのように美しい純潔が。 |
不作法とは ラ・ブリュイエール (批評家) |
よく語るだけの才知も持たず、さればといって、黙っているだけの判断も持たないことこそ、大きな悲惨である。これこそ あらゆる無作法の源である。 |
文化の低下とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
ある時代の文化の低下を示す最も端的な例は、質問が露骨になり、回答が単純になることだ。 |
暴力とは アラン (哲学者) |
戦いはあらゆる情熱の終末であり、いわば解放だ。情熱はみなそこへいく。めいめいがただ機会を待ちかまえているにすぎない。恋人が不貞な相手を罰しようと思うとか、富者が貧者をあるいは貧者が富者を罰しよう、あるいは不正の徒が正義の徒を、正義の人が不正な人間を罰したいと思うとかいう状態は、みな真に平和な状態ではない。そういう際には、思想はもはやただいろいろなとげにさされて不眠の状態を続けている。そこで自然の諸原因が戦いのうちに戦いにそむくものも投げ入れたのだ。とげにさされた思想は、なにか大きな衝動とか無碍の怒りとかがなければ収りがつかなかったのだ。(略) 戦いは一つの解決ではない、戦いと解決とは同じものだ。嫉妬に燃えた男は、喜びに燃えて女を殺す、こわくなるのは殺してからだ。 |
微笑とは アラン (哲学者) |
疑心が疑心を呼ぶように、微笑は微笑を目ざめさす。微笑は、他人にわが身をかえりみて安堵させ、すべてのものが微笑のまわりに落ち着く。幸福な人が、すべてが自分にほほえみかけたというのも、もっともなことだ。見知らぬ他人の苦痛も、微笑でいやしてやることもできる。 |
微笑とは アラン (哲学者) |
さまざまな情熱におぼれないようにする、なにごとにつけてこれが精神の力だ。(略) 最も深い意味での精神は、微笑自体のうちにあるのだ。なぜかというと、みずから制限してはるかかなたに置いたものをみて仰天してしまうのは、人間の暗愚の最も隠微な最後の現われだからだ。この恐怖のうちにすべての偶像崇拝がある。これに反し、神はおのれの姿を見て微笑する。形を成就してこれを解説する動きはそこにある。あらゆる偉大さは、準備された力の盛りあがるところに、易々として成るものだ。そのような人の風格ないしは表現こそ、その報酬だ。 |
微笑とは アラン (哲学者) |
人は意志の力で笑うこともできる。ことに微笑することができる。この心の動きは情熱に抗していちばん強く働くもので、微笑こそ意志の、というのはもう前にも言ったはずだが、理性の本質の最高の標識だとさえ言いたい。 |
満足とは ゲーテ (詩人) |
人間は じぶんのおかれた境遇に満足していることが なんと少ないのだろう。 みんな じぶんの隣人の境遇を好ましく思っているのだが、その隣人のほうも、おなじように、なんとかして じぶんの境遇から抜け出したいと思っているのだ。 |
勇気とは アラン (哲学者) |
世の中は思いきってやる機会にことをかかぬものだ。思いきって真実の価値を評価すること、警察官がどんなにえらかろうと、警察官は警察官だ、うそつきはうそつきだ、おだて屋はおだて屋だ、と評価すること、しかもすべてを精神にしたがって評価して、明察の力によってすべてを許すというところまでいく。これが戦争よりもっと冒険なのだ。 |
有名 (売名) とは 列禦寇 (中国の道家思想家) |
名を去れば憂いなし。 |
欲望 とは 礼記 (五経の一つ) |
傲 (おごり) は長ずべからず、欲は縦 (ほしいまま) にすべからず、志は満たすべからず、楽 (たのしみ) は極むべからず。 |
欲望 とは 芥川竜之介 (小説家) |
物質的欲望を減ずることは必ずしも平和を齎 (もたら) さない。我々は平和を得る為には精神的欲望も減じなければならぬ。 |
旅行とは フロベール (小説家) |
旅行は人間を謙虚にします。 世のなかで人間の占める立場がいかにささやかなものであるかを、つくづく悟らされるからです。 |
礼儀とは アラン (哲学者) |
礼儀は、ある思想なり意図なりを隠すところに成り立つより、むしろわれ知らずみずから願わぬ意味を相手に感じさす身ぶりや表情を整頓するところに成立していることがわかる。自分の言行を危ぶんだり筋肉の自然な反応をおさえようとしたりすることは、礼儀としては甚だ拙劣なものをもたらすということも注意しなければならぬ、なぜかというと、そういうことは身体がこわばるとか顔が赤くなるとかいうさまざまな徴候となって現われるもので、だれでもなにか隠しているなと感づく、要するに明瞭な侮辱と同じように相手の感情をかきたてる始末になるからだ。だから礼儀とは、おのれの欲するところ以外は相手に知らさぬようにする表現の体操のようなものだ。礼儀は言語と同様に国々によって異なるが、平静と適度とはあらゆる国々の礼儀である。 |
礼儀とは アラン (哲学者) |
礼儀は親切ではないことを注意しておく。礼儀を欠かないで、意地悪くもなれば不愉快なこともできる。 |
礼儀とは アラン (哲学者) |
だが知らねばならぬところに通暁する人はいかにもまれなもので、そんなことに努力しているうちに新しいことはなにも言わぬという始末になる。なるほど言葉がいよいよ簡明になるが、だれでも同じことをしゃべるようにもなり、退屈がやってくる。この退屈をささえる強い野心とか恋愛の情熱のおかげで、人々はさまざまな表現に力をこらすようになり、いきおい声の規則的な抑揚とか言葉の順序だとかを重んずる話し方わからせ方が生れてくる。音楽にも同じ性質が現われる、まず安定感を与えるありきたりの規則的な転調を使用すると同時に、規則を破らぬ程度の不意打をくわして、聴衆をたのします。この点、詩は、音楽に似ている。(略) そうなると、感情の動きは、肉体が着物のひだから判じられるように、節奏による規律的な変化から判じられる。情熱は判じることによって育つものだから、礼儀正しい社会の快楽は、感動を情熱に変形させる傾向がある。しかしことわざにいうように、病気より薬の方がこわい。 |
礼儀とは アラン (哲学者) |
二人がどんなに仲がよくても、なんらかの礼儀が強制されていなければ、平和は維持できないということを理解すれば、はっきりわかることだ。礼儀を強制されることは必要だ、思うことをみな言おうとして人間は思うこと以上をしゃべるものだから。 |
歴史とは 亀井勝一郎 (文芸評論家) |
歴史は二度とくりかえさない。しかし悪いことにかぎって幾たびもくりかえすように思われるのは、悪いことの可能性が人生には はるかに多いからだ。希望の予言よりも絶望の予言のほうが当たる。 |
歴史とは 倉田百三 (小説家) |
私は人間の悪が根深い根深いものに見える。ふたりや三人の力で抵抗してもなんの苦もなく押しくずされるような気がする。私の父、父の父、また私のあずかり知らない他人、その祖先、無数のひとびとの結んだ恨みが一団となってうずまいている。私はその中に遊泳しているにすぎない。 |
連帯とは アラン (哲学者) |
諸君をここに生活させよそには生活させない自然の強制だ、諸君をこの町に生れさせた、あるいはこの小さな学校に閉じこめた自然の強制である。連帯関係とはこの自然のきずなだ。意気のあった仲間同士の間のきずなではない。無遠慮な和解しがたい敵同士の間のきずなだ。 |
連帯とは アラン (哲学者) |
きずなが堅ければ、そこに生れる友情はいよいよ強く長続きのするものとなる、因人とか学生とか兵士とかの間に生れる友情のように。だが、なぜか。もし僕らが自由な身なら、まず拒絶せざるをえないものを、強制が受諾させるからだ。そしておたがいの親切は、たとえ強制された親切でも、明らかないろいろの記号によってまた新たに親切を目ざます。 |
連帯とは アラン (哲学者) |
信義はどうあっても愛したいというところに成立する。ここで順序を転倒しないように注意しなくてはならぬ。愛着の力で愛着が信義あるものとなるのではない、愛着を強くするのが信義の力なのだ。だから、必然の僕らを信義ある人にする事実の強制というものに、あまり不平を言わぬようにもしなければならぬ。ただ、強制された信義はあまり目先がきかぬものだし、みずから欲するものを生む力も弱いし、要するにずるずると満足してしまうものだということは言っておく。持っている愛を、手をつくして利用しなければならぬ。 |
連帯とは アラン (哲学者) |
恐慌や熱狂の動き、あの人間の海の高鳴る力、人々はおよそ人間のいるところならどこでもこの力に従う。この力が母国にうず巻くとき、いや自家の戸口に押しよせるとき、僕らはもういやも応もない。(略) 恥辱感とはこの強制された判断と他の判断との間の戦いである。たとえ、この群集の動きに負けないとしても、僕は大きな怒りにとらわれる。こういう群集のいろいろな動きは、常に群集の狂気を僕に与えざるを得ぬ。そうでなければ群集の動きに挑戦する狂気を僕に与えざるをえない。僕はとらわれの身だったのだ。そしていま怒りに身をふるわしている。こう考えてくれば、社会集団というものは痙攣的な狂信者たちの集団だけということになる。そして、事実、あらゆる社会は結局そういうものだ、戦争をみればよくわかる。こうして情熱が倍加すれば別個ができあがる。どうしてレヴィヤタンとして生活したらよいか。
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老年とは ベンジャミン・フランクリン (政治家) |
みんな長生きしたいのですが、年をとりたくないのです。 |
老年とは 貝原益軒 (儒学者) |
老人の保養は常に元気を惜しみて滅すべからず。気息を静かにして荒すべからず、言語を穏やかにして早くせず、言少くし、言語あららかに、口ばやく声高く揚言すべからず。怒なく憂なく、過ぎ去りたる人のあやまちをとがむべからず、わが過ちを悔ゆるべからず、人の無礼なる横逆を怒り恨むべからず、これ皆老人養生の道なり、また老人の徳行の慎みなり。 |
私とは 有島武郎 (小説家) |
思えばそれは淋しい道である。 最も無力なる私は私自身にたよるほかの何物をも持っていない。 |
笑いとは パニョル (劇作家) |
何を笑うかによって、その人の人柄がわかる。 |
悪口とは ヴォルテール (詩人) |
人は何も言うことがないと、いつも悪口を言う。 |
悪口とは 紫式部 (女流作家) |
すべて、人をもどく(* 1)かたはやすく、わが心を用ゐんことは難 (かた) かるべきわざを、さは思はで、まづわれさかしに、人をなきになし、よをそしるほどに、心のきは(* 2)のみこそ見えあらはるめれ。。 (* 1) 悪口を言う。 (* 2) 心の底 (の浅はかさ)。 |
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