思想の花びら way out >>
職業と労働と成功 芸術と学問と勤勉 友情と恋愛と家庭 自然と文化と衣食住 生と死と信仰


愛とは
有島武郎
(小説家)
基督は 「汝等互にさばくなかれ」 といった。その言葉は普通受け取られている以上の意味を持っている。何故なら愛の生活は愛するもの一人にかかわることだ。その結果がどうであったとしたところが、他人に絶対にそれを判断すべき尺度を持っていない。しかるに知的生活においては心外に規定された尺度がある。人は誰れでもその尺度にあてはめて、ある人の行為を測定することができる。だから基督の言葉は知的生活にあてはむべきものではない。基督は愛の生活の如何なるものであるかを知っておられたのだ。ただその現われにおいては愛から生れた行為と、愛の真似から生れた行為とを区別することが人間にとっては殆ど不可能だ。だから人は人をさばいてはならぬだ。しかも今の世に、人はいかに易々とさばかれつつあることよ。

 

愛とは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
愛のあるところに過去といふもののある筈はない。
信仰のあるところには一切が現存であろう。

 

悪魔とは
ゴーゴリ
(小説家)
一生のあいだに一度も悪魔と近づきにならなかったと言いきれる人間が、はたして この世にいるのだろうか?

 

悪魔とは
シェークスピア
(劇作家)
よしんば悪魔であるにもせよ、あなたは たしかに お美しい。

 

悪魔とは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
キリスト の信仰、あるいはその理想精神は、敗北のかたちで最終の勝利を得たと云ってよい。悪魔の悪魔たる所以は、敗北することが出来ないということの裡にある。悪魔は永久に地上に残される、地上において不死なるものである。つまり現実的なるものはいついかなる場合においても地上的であり地衣類のように強烈に生きつづけるものだ。そして常に信仰を疑い、理想精神をためしてみるものなのだ。ところが人生において、試練という言葉がほんとうに生きるのは、この場をおいて他にない。「現実的なるもの」 と妥協し屈伏してゆくのが人間の実情にちがいないが、それだけであるか、それで満足かと問われるなら、誰でも 「否」 と答えるであろう。長いあいだには 「あきらめ」 ということもあるが、生きる意志はつねに何らかの形で理想を求め、信仰を求めている。それは挫折するかもしれない。恐らく挫折の方が多いであろう。しかし挫折のない人生とはどんなものであろうか。敗北の経験のないということはどういうことであろうか。

 

怒りとは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
しかし真の怒りとは何か。罪悪感に発した祈りによって支えられたゐ怒りこそ真実であり、純粋である。私は パウロ の叫びの中にそれを見る。同時にこうした怒りが、現代には失われていることに気づかざるをえない。現代ほど怒りの材料にみちているときはない筈なのに、却て真の怒りは見失われているようである。宗教や道徳が、「怒るなかれ」 と教えるのは、人間においてそれはつねに恣意的な憎しみや復讐心に変るからである。個人の嫉妬心や野心から発し、一時の激情となって相手を傷つけるからである。かかる怒りは避けなければならない。しかし真の怒りを忘れてはならぬ。奴隷とは真の怒りを忘れたもののことだ。私がいま述べたような神の怒りとは、人間にとっては大切な倫理であり、美徳だと云ってもよい。

 

怒りとは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
真の怒りは罪悪感と祈りによって支えられなければならないと言ったが、このときの祈りとは持続する意志である。それは対象を明確に凝視する能力でなければならない。人間の転落の実相を冷静的確に指摘し弾劾してこそ怒りは美徳でありうる。パウロ の中に私はその純粋な一典型をみたかったのである。純粋という意味は、「我」 の怒りでなく、「信仰」 に由る怒りという意味である。

 

生きるとは
シラー
(詩人)
生きるとは、夢みることだ。 賢明であるとは、.....こころよく夢みることだ。

 

生きるとは
エッシェンバッハ
(小説家)
あなたの夢が一度も実現されなかったからといって、みじめに思ってはいけない。ほんとうにみじめなのは、一度も夢みたことのないひとである。

 

生きるとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
生きるとは執着することだ。同時にこれが一切の迷いと悪の根源である。

 

生きるとは
キケロ
(政治家)
なんじは生きるために食うべきで、食うために生きるべきではない。

 

生きるとは
ゴーリキー
(小説家)
他人をあてにしてはならない...それは期待するほうが、まちがいなのだ。
われわれは、みんな、取るために生きているので、与えるために生きているのではないのだ。

 

生きるとは
武者小路実篤
(小説家)
なんのために あなたたちは生きているのですか。国のためですか、家のためですか、親のためですか、夫のためですか、子のためですか、自己のためですか。愛するもののためですか。愛するものを持っておいでですか。

 

生きるとは
ドストエフスキー
(小説家)
人生において なによりもむずかしいことは──嘘をつかずに生きることである・・・そして自分自身の嘘を信じないことである。

 

生きるとは
太宰 治
(小説家)
生きてゆく力・・・・・・
いやになってしまった活動写真を、おしまいまで見ている勇気。

 

生きるとは
カール・サンドバーグ
(詩人)
弁舌だけで生活しているようなひとから、私は宗教を得たいとは思いません。

 

生きるとは
大伴旅人
(歌人)
生けるもの竟 (つひ) にも死ぬるものにあれば、此の世なる間 (ま) は楽しくをあらな。

 

生きるとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
粉飾は剥奪されねばならない。しかも剥奪の後に、だゞ物質関係を基準として働く人間を発見するにすぎなかつたとすれば、これは悪意にみちた復讐であるか、錯誤か、或は人生智の偽らぬ相であるか。遺憾ながら、人間はつねに高貴であるとは限らない。パン 以上のものへ憧れつゝ、奴隷であることも多い。悲惨を悲惨と自覚せず、却てそれが世の実相だと考へないわけにゆかないこともある。この側面からの解決が一切の基本であると。かゝる問題に面して、人間はまさに妥協の一歩前に立つ。この誘惑に勝つか負けるか。

 

生きるとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
私は多面的に色々のものを摂取してきた。文学を学ぶことは人生を学ぶことであり、人生いかに生くべきかを問ふことであり、その意味は決して単純ではない (略)。そして与へられた時代の苦しみと人生の苦しみを、まともに背負つて、よろめきながらも生きてゆきたいと思つてゐるのである。
現代は云ふまでもなく、日本にとつて大へんな苦難の時代である。かういふ時代には過去のものは美しくうらやましくみえるものである。しかし過去の芸術家も宗教人も、やはりその時代の苦悩はまともに背負つて生きたわけで、時代苦や人生苦を味ふ点では変わらなかつたであらう。人一倍感じやすい人々にとつて、楽な環境などある筈はない。どんな時代、どんな環境にめぐまれても、与へられただけのものには不満を感じ、それに抵抗し、孤独において仕事を残したのである。

 

生きる技術とは
モーロア
(作家・評論家)
生きる技術とはひとつの攻撃目標を選びそこに力を集中することである。

 

祈りとは
キルケゴール
(哲学者)
祈りとは呼吸であると古人はよくいってくれた。私はなぜ呼吸をするのか、しなかったら死んでしまうからだ。祈りについてもそうである。ただ、呼吸しつづけることで、世界を改革しようなどと思うのでなく、新陳代謝によって活力が再生されればよいのである。

 

祈りとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
キリスト 自身は様々の奇蹟を行っている。しかし自分自身のことについては奇蹟を求めない。エホバ への信仰が自分をどこへ導いてゆくかわからないが、しかもなお自分はその信仰を掲げて進まざるをえない。そこに彼の祈りがあった。「一粒の麦 地に落ちて死なずば」 という祈りが。

 

祈りとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
たいせつなのは試練、すなわち、人生という荒野における修業ということだ。いかに堪えるかが問題なのである。(略) しかし堪えるとは祈りを宿した行為である。祈りとは意志の持続である。あるいはその持続の与えられんために祈りがある。

 

祈りとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
求信の第一歩において我々の犯す過失がある。それは、最も神聖な筈の祈り自身にひそんでゐる。人生の痛苦故に人は祈るであらう。(略) しかも祈ることによつてどんな報酬もないと知るまでには時間がかゝる。自己は昔さながらに空想的な自己である。たゞ信心に入つたといふ余計な虚栄が一つ加つただけだ。信そのものが迷ひの所作である。迷ひと自覚するものは幸ひである。多くの場合我々は小さな安心に落着く。少くとも一つの問題は解決したと思ひ易い。そして次の問題は、といふ風に上昇して行く。上昇して行くやうに思ひこむ。(略) 愚かしい演技である。

 

祈りとは
アラン
(哲学者)
礼拝の原則はいろいろな衝動を訓練して情熱や感動を静めるにある。祈りの態度とは、まさしく烈しい衝動はいっさい許さぬようにする態度だ。肺を充分に安静にして、あわせて心臓も安静に保とうとする態度だ。

 

祈りとは
アラン
(哲学者)
困難な事態に立ち至って、じっと待っていなければならぬようなとき、いちばんいいのはなにも考えないことだ、そういうとき礼拝は人をいら立てたり疑心をおこさせたりするあの忠告などという術はいっさい使わず、なにも考えないようにたくみに人を導いてくれる。

 

祈りとは
アラン
(哲学者)
適当な体操の力で一瞬にして魂を清めうる、(略) 実行が信仰に人を導く。やってみてうまくいかない人には、僕はやりかたが悪いのだと言ってやる、つまりただ単純に実行しないで信仰しようとばかり念ずるからだ。

 

一跳直入とは
薬山弘道大師
(禅僧)
思量箇不思量底。(箇の不思量底を思量す)
不思量底如何思量。
非思量。

 

因果応報とは
保元物語
過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ。

 

疑いとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
自分 (法然上人) が知識とか教養のためにどれほど迷ひわづらはされてきたか。はたして自分は念仏を唱へながら心安らかに死ぬことができるかどうか。自分に対して疑つてをつたにちがひないと思ふのです。

 

怨みとは
紫式部
(女流文学者)
世に亡くなりて後に怨残すは、常の事なり。

 

憂いとは
良寛和尚
(禅僧)
君看雙眼色 不語似無憂

[ 君看よや 雙眼の色 語らざるは憂なきことをしめす ]

 

憂いとは
旧約聖書
魂の憂は骨を枯らす。

 

運命とは
ショーペンハウアー
(哲学者)
運命が カート゛ を混ぜ、我々が勝負をする。

 

運命とは
芥川竜之介
(小説家)
運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」という言葉はけっして等閑に生まれたものではない。

 

エロス とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
エロス は、「産む」 という観念を無視して存在しない。プラトン の饗宴に出てくる恋愛の神であるが、まず注目すべき点は、プラトン はここで恋愛の基礎として、人間は死ぬべきものであるという大前提を置いていることである。人間は死ぬべきものであるが故に不死性への憧れをもつ。恋愛とはこの不死性への憧れだというのである。ここに プラトン の恋愛論の核心がある。したがって不死のための生の連続として 「産む」 という行為が中心になるのは当然である。

 

エロス とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
ここに青春というものが、明確なすがたでとらえられている。何よりもまずそれは 「産む」 状態である。青春の魂と肉体とが満ちあふれている状態、あるいは一つの陣痛と云ってもいいであろう。しかし産むための生殖慾は、醜いものにおいては起こらない。必ず美においてでなければならない。エロス とは美においての生殖、妊娠への媒介者である。この意味で恋愛の目的は産むことであり、しかもそれは人間の不死性につながるものとして、神聖視されているわけである。健全な古典的恋愛観がここにある。またこれが プラトニックラブ と云われるものの本来の姿である。後に キリスト の影響を受けた プラトニック・ラブ のように、肉体と魂とは分離されていない。

 

エロス とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
エロス は成熟した肉体に子供を産ましめるだけではない。成熟した魂に芸術や哲学や道徳をも産ましめる。この双方を同時的に促す力である。そして、特に魂の妊娠が重くみられ、恋愛論の核心がここにおかれている点に理想主義哲学者としての プラトン の面目がうかがわれる。恋愛は肉体を動機として起るが、同時に高度の精神現象として語られている。

 

エロス とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
エロス の役割はここに全的に語られている。死ぬべき人間の不死性への憧れである故に、それは 「創造」 という高度の芸術的行為となる。恋愛とは全人格的な創造行為だということが、これによって明らかであろう。同じ 「饗宴」 の中で、アガトン が、「エロス に触れる者は、『たとひそれまで芸術心なくとも』(エウリピデス の断章)、人はみな作家になる」 と言っている。むろん芸術だけではない、恋愛は宗教へ、道徳へ、哲学への入門であり、美を通して相互に為される教育作用である。

 

エロス とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
古来古代 ギリシャ においては、道を求むるものはまず友情を求めた。友情とは肉体と魂が妊娠状態にあるものが、美しく気高く素性のいい魂にめぐりあって、そこでの結合を自覚することである。人生における最も重要なことはこの種の邂逅である。そこに師弟に交りも結ばれるが、古代 ギリシャ においてはその場合でも友情的要素は極めて濃い。
教えるものと教えられるものとは、共に道を求める者として友情の裡に対話を試み、対話を通して魂の悩み──陣痛状態を明らかにし、それによって真理を産ましめるように導いたのである。つまり ソクラテス は妊娠せる魂の産婆役を勤めた最高の哲人であった。

 

エロス とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
エロス は愛の神だが、その 「愛」 は 「考える」 という行為とひとつだという点が大切であろう。考えることによって 「産む」 のである。だからすべての思索の根柢には エロティシズム がある。また エロティシズム を伴わない思索は不毛だと云えるだろう。学者と呼ばれる人々を判断するときの、これは一つの基準になる。何ものをも産ましめない学者というものがある。

 

想い出とは
シオラン
(哲学者)
かっては自分もひとりの子どもであったことを想い出す。
それがすべてだ。

 

思い出とは
ショパン
(作曲家)
私の思い出に モーツァルト の曲を弾いてください。 (遺言)

 

思い出とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
つまり自分が絶対的に信頼し、その人に従ふ、さういう先生を持つてをつた、あるひはさういう経験といふものが人生のある時期にあつたとしたならば、それを息をひきとるときに、思ひ出すべきではなからうか。親鸞聖人の教へから申しますと、それが念仏です。念仏申さんと思ひ立つ心の起こるときといふ、心の底のなかのいちばん微妙なものに、聖人は注目したわけですが、しかしさういふ言葉のその背後には、いま申し上げました邂逅と開眼と信従といふ、そこからくる動かしがたい思ひ出といふものが、つねにまつはりついてをつたであらうと私は思ふのです。

 

開眼とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
とにかく出会って、さうして開眼する。いままで自覚してなかつたことを自覚せしめられる、目を開かせられる、さうしてそれに信じ従ふ。邂逅と開眼と信従、したがつてそこに感謝の気持が出てくるわけですが、かうした経験だけが人間としての最高の経験だらうと思つてをります。

 

神とは
芥川竜之介
(小説家)
我々は神を罵殺する無数の理由を発見している。が、不幸にも日本人は罵殺するのに値いするほど、全能の神を信じていない。

 

神とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
自己を悪徳の中に堕さうとも、悪徳の実体を描き出さうといふ意志は、或は神の証明のための逆手なのかもしれない。

 

神とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
エホバ は何よりもまず怒りの神である。

 

神とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
エホバ の愛は、はじめから赦すための愛ではない。十誡に示されたようにまず神の正義をうちたて、その正義が実行されるかどうか、実行されないところに対しては容赦なくこれを裁断するという云わば神の義が中心である。その愛とは義の愛である。愛の故に 「義」 はいささかもゆるがせにされない。(略) 同時に キリスト 教の固有の 「非寛容」 がここにみられるであろう。それは頑固とか偏狭とはちがう。「義」 のために妥協をゆるさない精神である。人間がこれを行使するときはむろん危険だ。あくまでも神の義であり、人間としてはそれへの祈りと随順がゆるされるだけであろう。

 

神とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
唯一の神に対する帰依の絶対性が要求されていることである。ギリシャ においても、また日本においても、宗教は多神教的である。様々な神が存在し、またそれにたいする解釈も各人に自由意志による面が多い。これはある意味では信仰の自由性を保つ上に大切なことにちがいないが、しかしそのために信仰が純化されるかどうか、反面の危惧が出てくる。各人のほしいままな解釈がはびこり、人間の心が分散する危険が生ずるのではなかろうか。
これにたいして エホバ の神は強烈な統一力を振るものである。エホバ 以外の何ものをも神としてはならず、また各人は自己のためにいかなる偶像をもつくってはならない。信仰の自由の名において様々な偶像をつくるものに対しては、さきに述べたように嫉みの神として痛烈な復讐を行うのである。

 

奇蹟とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
即ち死の直前、奇蹟はつひにあらわれなかつた。これは驚くべきことではなからうか。二人の強盗とともに十字架に苦悶してゐたとき、祭司長・学者・長老・往来のものどもは口々に嘲弄して言つた。「汝もし神の子ならば怒れを救へ、十字架より下りよ」「人を救ひて己を救ふこと能はず。彼は イスラエル の王なり。いま十字架より下りよかし、然らば我ら彼を信ぜん」 と。これに対する耶蘇の断末魔の叫びは、世にも悲痛なものであつた。「わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし」──そして息絶えたのである。跛行者を立たしめ、石を変じて パン とした彼の奇蹟は、激甚な祈りにも拘らずつひにあらはれなかつたのである。万事をはれり。私にはこれが耶蘇自身における最大の 「奇蹟」 のやうに思へる。
  精神の復活でも肉体の復活でもない。十字架上に悶死したといふ、覚醒してゐればゐるほどいよいよ明確なその事実ゆゑに、後代人は二千年間彼を離れえなかった。たとへ疑つても彼を念頭におかないわけにゆかなかつたといふことだ。癩者を癒したその奇蹟において必ずしも彼の信仰が確立したわけではない。己の死に面してつひに奇蹟が起こらなかつたところに彼の信仰は永遠性をえたのだ。

 

奇蹟とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
人は奇蹟ゆゑに必ずしも彼を愛したのではない。奇蹟のない無慙な死によつて彼を愛したのである。私にはこれが人間の具現した最大の 「奇蹟」 のやうに思へる。(略)
神のもたらす真の 「奇蹟」 はつねに凄惨である。最も深く信じ、最も美しい心をもつたものほど殉難者として苛酷な死に遭はねばならぬ。信仰ふかきものが天国に往き、浅きものが地獄へ堕ちるとは限らぬ。むしろ、その反対なのだ。

 

偽善とは
ツルゲーネフ
(小説家)
ああ、いかにも自己満足的な、不屈な、安価にあがなわれた善行の
醜悪さよ。
それこそ、悪徳の露骨な醜悪さよりも、さらにいまわしきものでは
ないか!

 

期待とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
何故私は信仰などといふことを考へたのだらう。無常の世に処する自分の心の、何とも云へない惨めな不安定。それが快癒するであらうと思つた錯誤から発してゐるやうだ。己の計量すべきことではないと知りつゝ、やはりどこかで何かを待つてゐるのである。再生と云つてもよい。第二の救世主と云つてもよい。だがこの期待もまた一つの錯誤を含む。不安定に対する凝視が、期待といふ美しい夢によつてさへぎられる。そして期待する心の裡に、明らかに 「自分もまた」 いい位置に昇るであらうといふ──それは精神的の意味だけだが──野心がある。信仰の世界にも立身出世主義といふものはあるのだ。いかに 「精神的」 と弁解してみても。期待は己の滅却であると知ることは難い。一体私は何を信じてゐるのだらうか?

 

気休めとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
自分の耳に快い言葉の大半は、気休めの言葉である。

 

救済とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
私たち人間が、自分の頭のなかで考へた救済、救ひの観念といふものは一体正当か。まづこゝに思ひを致すべきでせう。われわれ人間は非常に虫がいゝのです。救はれないことをやり、それを知りながら、万一の救ひを望んでゐるものです。

 

救済とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
親鸞聖人の非常に辛いところ──まあ辛いと私は思ふのですが、この奇蹟を全部否定してしまった。つまり人間が考へ、妄想するやうなあらゆる救済観念を放棄してしまった。(略) 私たち人間は必ず即効薬を求めるからです。すぐ効くもの、まあいまの奇蹟と同じことですが、すぐ役立つもの、効き目がないといふことは、なにか私たちに魅力を起こさせない。
しかし親鸞聖人ほど信仰の即効的効果を否定した人はない。だから念仏を唱へて、いつたいなんの役に立つのかといふ質問が、(略)

 

求信とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
信を求むることによつて、神に近づいたと感ずるよりも、いかに神から遠く離れた存在であるかを絶えず知るやう努めること、(略) 即ち天国の方へ向いてゐた己が身をば、地獄の方へ強引に転換せしむる──実はこの転換せしむる力に、神の明智があらはれてゐるのだと云つてもよいのだ。求信はそのはじめにおいて、恩寵を享けるであらうといふ快い喜悦に我らを導く。だがさういふ期待をまづ激しく裏切るものは神自身なのである。神の裏切りを経験することが、求信における最初の試練となるであらう。

 

求信とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
求信の当初において我々は、選ばれた人の悟りの世界に憧れ、その教をもつてわが身を守らうとする。そして追放されたものから自分を区別して考へがちだ。けれども是は求信において誰しも一度は陥いる最も大きな錯誤なのである。(略) いつの間にか 「追放されたもの」 の存在を忘れてしまふ。少くとも己は免れつゝあるという錯誤。自己反省といふ空想の為せる業だ。人間の思慮によつて定められた善悪是非の、いかに不安定で微少なものにすぎぬかを知らうとしない。

 

求道者とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
諸々の宗教を有用物とし、これを単に学問や知識の対象とするのは我が求道者たちの厳に戒めたところである。(略) 上宮太子の御信念は申すまでもないが、近くは プロテスタンティズム における内村鑑三の仕事を考へてみても、宗派に属せず、教義にとらはれず、たゞ純潔な一片の信心をもつて、仏陀自身あるひは耶蘇自身の本然の相と偕に在らんと覚悟し、一切の夾雑物を剥奪すべく戦つたのである。そのため神ながらの道に直面し憂悩したことも深い。だが、さういふ苦しみを自他に対して誤魔化さず、憂悩の裡にひとへに人間の高貴性のために戦ひ殉じた、その生涯の姿が私には尊く思はれるのである。彼らはまづ胸をひらいて己が衷情を訴へた。自分の言説に、一々これは愛国的だと弁明註釈するごとき無恥の行為はしなかつたのである。

 

空 (クウ) とは
澤木興道老師
(禅僧)
ユカ゛ミ のとれたところを宗といい、ひっきょう空という。

 

苦悩とは
スタンダール
(小説家)
おのれの苦悩を精細に観ることこそ、おのれの心を慰める手段である。

 

苦しみとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
「空の鳥を見よ」 (略) 一日の労苦という本来 ペシミシズム にみたされている筈のものを、それにとらわれることなくそのまま放下して、「空の鳥」 に帰れと言っているのだ。この一節の妙味は、キリスト が 「心の工夫」 を独得の表現で教えた点にあると私は思う。「心のもち方」、その転換の微妙な方法を告げようとしたものではないか。悪魔の最後のこころみの前に キリスト は十字架上で倒れたが、受難の悲劇の背後に、むしろそれをかえりみないような、空の鳥、野の百合の大らかな イメージ があったように思う。

 

苦しみとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
キリスト の教えは十字架によって完璧なものとなる。それはたしかなことだ。しかしあの流血の悲劇だけを強調するのは正当であろうか。仏教には十字架はない。むしろ空の鳥、野の百合の比喩にみられる自然同化に救いをみる。キリスト の心にもそれのあったことを、マタイ 伝のこの一節は示しているように思われる。それともこれは私の異教徒としての空想であろうか。

 

欠点とは
ゲーテ
(小説家)
我々は生まれつき、
美徳に転じえないような欠点を持っていないし、
欠点に転じえないような美徳も持ってはいない。

 

効用とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
精神が生存するためには、絶えず自己弁護しなければならぬとは何といふ悲劇であらう。(略) 効用性の宣伝によつて保身する信仰こそ贋物であらう。たとへその効用性が精神のいかなる高貴性を説いたものであつても。

 

告白とは
アラン
(哲学者)
告白には、話しながら作りごとをいう夢の話と同じうそがあるものだ。人を許す真の道は、その動機によってその過失を理解してやるところにはない、むしろその原因によってその過失を理解してやるところにある。

 

告白とは
アラン
(哲学者)
告白というものも、立派といえば立派でないこともないが、どうも自分の怒りに準じて自分を考えを整理し、告白に重みをつけようと思いたがるものだ。いったい自分の気分を大事がるというのがそもそもつまらぬことだ。

 

孤高とは
良寛和尚
(禅僧)
世の中に まじらぬとには あらねども
ひとり遊びぞ 我はまされる

 

心とは
北条時頼
(将軍)
わが心 鏡にうつすものならば さこそ 姿の醜くかるべし。

 

孤独とは
パスカル
(数学者)
ひとは、ひとりぼっちで、死ぬであろう。
だから、ひとりぼっちであるかのように、行為すべきである。

 

災難とは
良寛
(禅僧)
災難にあふ時節には災難にあふがよく候。
死ぬる時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候。

 

悟りとは
道元禅師
(曹洞宗開祖)
本証妙修
[ 修行が、そのまま、悟りである。]

 

悟りとは
道元禅師
(曹洞宗開祖)
波もひき 風もつながぬ 捨て小舟 月こそ 夜半のひかりなりけれ

 

悟りとは
澤木興道老師
(禅僧)
自分が美味いものを食わんでもいい。また、出世せんでもいいが、しかし、人の美味いものを食いたがる気持ち、出世したがる気持ちもわからんような アホ では タ゛メ だ。

 

悟りとは
六祖壇経
(禅の書物)
説似一物即不中
(せつじいちもつそくふちゅう)

[ 一物を説きしめすも すなわち中(あた)らず ]

 

悟りとは
澤木興道老師
(禅僧)
修行して ホ゛ツホ゛ツ さとりをひらくのではない。
修行が サトリ であり、この サトリ を行ずる --
仏祖の坐禅を坐るのである。

うっかりすると仏法を階段のぼることのように思うてしまうが、
そうじゃない。
いつでも今、一歩ふみだしたところが一行一切行、一切行一行である。

 

悟りとは
澤木興道老師
(禅僧)
「悟った」と言えば、一歩 余計じゃ。
「悟っていない」と言えば、一歩 足らぬ。

 

悟りとは
道元禅師
(曹洞宗開祖)
眼横鼻直 (がんのうびちょく)。
[ 眼は横に並び、鼻は縦に並んでいる。悟りとは自然なことを当たり前やること。]

 

悟りとは
道元禅師
(曹洞宗開祖)
水鳥の ゆくもかへるも 跡たえて されとも 道はわすれさりけり

 

悟りとは
小野小町
(歌人)
あはれてふ事こそうたて世の中を思ひ離れぬほだしなりけれ。

 

悟りとは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
一刻も早く悟りや幸福や解決がほしいのである。出来るだけ安全な道をとほつて、しかも他人の尊敬をかちえたいものは、聖典や古典を語るがいゝ。求信の途上において虚栄に見舞はれないものは稀であらう。聖典や古典の権威にふれて、小心な人間が抱く幻想ほど手に負へぬものはない。無神論とは別の意味で、神を己が幻想とすることはつねにありうるのだ。

 

裁くとは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
「なんじら人を裁くな」──これは、キリスト 教の厳粛な原則である。神の律法である。普通の法律では人間は必ず人間を裁かなければならない。実際に犯罪が起ったとき、刑罰をもって社会の秩序を維持しなければならないのは人間社会の約束である。しかしさらに一歩を進めて、その犯罪の起った根本の理由をたずね、またそれを裁く自分自身の心を反省してみたとき、人間として人間を裁くことがいかに困難であるかは直ちにわかると思う。どのように明確な証拠があっても、犯罪者と裁判官とのあいだには、微妙な心の葛藤は絶えないのではないか。罪と罰することへの懐疑は去らないのではないか。少なくとも裁判が人間性をおびているかぎりは。

 

死とは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
人生をして人生たらしめる条件として、私は邂逅と謝念を挙げた。それを愛といふ言葉であらはしてみたが、それとともに死といふ事実のあることを忘れてはならない。人間は有限なるものだ。死によつて確実に限定されてゐるものだ。どんな人間もこれから免れることは出来ない。我々は平生健康なときには、死を忘れてゐるが死の方は一刻も我々を忘れてゐない。いついかなるとき、それがふいに襲ひかゝつてくるかわからない。我々が生きるといふことは、さういふ死に対して準備することだとも云へるだらう。邂逅のあるところ、やがて別離がある。愛のあるところ死がある。

 

死とは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
死の観念は我々の心を浄化してくれるであらう。「死」 を自分の前にはつきり据ゑたとき、はじめて自分のぎりぎりの生がみえてくるのではないか。つまりは自分の本音の存するところ、心からの願ひがみえてくる筈だ。そのときいかに多くの自己欺瞞や他人への思惑によつて自分が生きてゐるかを悟るであらう。「私」 とは 「他人」 の複合物ではないか。あれこれと他人の眼をおそれ、他人の思惑のみ気にして、小心翼々と生きてゐるのだが、人間は、いざ死ぬときはたった一人で死ぬものだ。

 

死とは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
死に方、負け方について、古来日本には二つの態度がある。「心頭を滅却すれば火もまた涼し」 といった禅的気魄と、「ただ嘆きのままにうちまかせる」 という親鸞の凡夫道と。しかしいずれにしても、それが人に見られることを予想した 「態度」 となってはよくない。我々は戦時中を通して 「火もまた涼し」 の方に、少なくとも表面は慣らされてきた。度胸があって、毅然として、びくともせぬ態度が、いつの場合でも立派とされてきた。立派にはちがいないが、立派すぎて困ることがあるのだ。つまり柄にもない役者を多く生むのである。

 

死とは
ラブレ
(人文学者)
幕を降ろせ。 喜劇は終わった。

 

死とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
それは言うまでもなく彼 (= ソクラテス) の信仰と知恵に発しているが、私がここになによりも痛感するのは、精神の豊かな活動の連続状態である。活動という概念が根本にあることである。死が深い眠りであり、熟睡の幸福として考えられるほどにも旺盛な活動を ソクラテス がつづけたことを意味しているのではないか。逞しい知的実践者によって 「想像された死」 というものがここにある。また熟睡でない場合は、彼世に遍歴して諸々の半神や賢者に逢う楽しみがある。そういう楽しみとして死が考えられている。云わば知的遍歴の連続としての死というものがここにある。
即ち晩年の ソクラテス にとっては、死は日常化されていたと云ってもよかろう。生における熟睡と知的遍歴と、それにひとしいものとして、あるいはその延長として死が想像されている。陰惨な影は微塵もなく、むろん恐怖観念もない。改まって悟った風もなく、つまり私のいう 「活動」──その充実現象として死が考えられている。これは驚嘆すべきことである。

 

死とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
あわせて、東洋の思想家には受難がないということも、私の注目をひく。受難ということばの内容にもよるし、またまったく無かったとも云えないが、たとえば釈迦にしても孔子にしても、長命を保って自然死をとげている。死刑という異常死はここにないという意味で、私は受難がないと言うのだが、自然へ寂滅してゆくすがたと、十字架や毒杯といった異常なあかたちで生命が断たれるのと、死におけるこの二様の相の裡に、東洋精神と西洋精神の特徴を考えることも出来るのではなかろうか。

 

死とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
モンテーニュ の 「随想録」 (第一巻) の中で、私は 「哲学する目的は死に方を学ぶにあること」 という一章を最も愛読してきた。人は死について語るとき、必ず渋面をつくって深刻になるか、悲哀の眼差しを装うものだが、モンテーニュ はむしろ愉快そうに、時には意地わるげな微笑を浮べて死を語っている。それは彼にとっては快楽の真の味いを語ることと同じであった。

 

死とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
「キケロ は、『哲学するとは死に備ふることにほかならぬ』 と云うた。けだし、勉学と静観とは、いはば、われらの霊魂 (たましひ) をわれらの外部に引出し、之を肉体と別にはたらかすことで、結局死のけいこ・真似事みたいなものだからである」 こう語りはじめながら、結局世の中のあらゆる知恵も哲理も死を恐れないよう、我々に教えるという一点に帰着するだろうと言っている。換言すれば、それはいかにして生を楽しむかということと同義である。人間はみな幸福に、楽しく暮すことを望んでいる。死によって限定されてはいるが、その故にこそ、死の姿をはっきりみることは、快楽の真の味を知る上に大切である。しかし快楽と云っても、いわゆる普通の意味での快楽ではない。彼がここで強調しているのは、最上の快楽としての 「徳」 である。

 

死とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
「徳」 を快楽の名によって呼んでいるところに、モンテーニュ の特徴がある。彼はそれに伴う苦業意識をみとめない。「徳」 は求めらるべきものだが、ここで 「求める」 といふこと自体が快楽であって、求道者のもつあのしかめ面に彼は反発し、からかっている。およそあらゆる哲学も、快楽を目的としなかったら、一体どこに価値があるのか。哲学の目的が死に方を学ぶことにあるということは、直ちに快楽の何であるかを知ることでなければならない。我々は 「死」 に対し、すぐ 「恐怖」 という観念を抱くが、モンテーニュ は 「死」 に対して 「快楽」 という観念を直接的にむすびつけている。あるいは快楽の中に死の姿をつねに見定めることをすすめる。

 

死とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
「何処で死が我等を待ってゐるかわからない。だから到る処で之を待たうではないか。死の準備は、自由の準備である。死を学びえたものは、屈従を忘れる。死の道(さとり)は、あらゆる隷属と拘束とから我等を解放する」
私の心ひかれるのは、モンテーニュ は死を語ってそこにいささかも厭世的なひびきのないことである。むしろ愉快そうに、死を直面し、死に呼びかけ、死をためし、死をくすぐっているようにさえみえる。愛と戯れるように死と戯れている。これこそまさに 「自由人」 というものではなかろうか。しかも悟ったような顔は全然ない。軽やかに、時には陽気に死を語っている。興味をもって彼は死を語っている。

 

死とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
すべての宗教は、死に対して深刻な表情を与えた。人間の恐怖の中で決定的なのは死の恐怖にちがいない。それからまぬかれようとして宗教は祈りを教えた。ところが、モンテーニュ は死に対し、快楽的な表情さえ与えている。彼は何ものにも祈っていない。死を克服するために神を必要としなかった。これは彼の最大の特徴と云っていいだろう。(略) 観念的なもの、意識過剰、内省癖、これらすべては モンテーニュ にとって無縁である。死に対して憧れるわけでもなく、恐れるわけでもなく、人生に遊ぶように自然に遊んでいるといった風だ。

 

死とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
人生の各時期において自分の年齢にふさわしいような行動を試み、決して背のびしない。人間が自然として生きるとは、人生の春夏秋冬、つまりその四季を的確に生きるということだ。我々の多くは、自分の四季をあまりに人口化しやすい。青年時代に老成ぶろうとし、壮年時代には静かな成熟をまたずに投機心を起す。老年になると急に執着心が増し死を恐れたりする。様々なかたちで自分に人工を加える。宗教や道徳によって自己を鋳型にはめこみ、歪めてしまうこともある。

 

死とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
宗教人に対して、モンテーニュ は典型的な自然人である。そこには祈りもなく苦行意識もない。罪悪感もない。悠々として人生を楽しむ人がいる。「私は人生の若草を見、花を見、果実を見て来た。そして今や私は、その冬枯の様を見ている。幸福なるかな。何となればそれは自然であるからだ」(「随想録」 第三巻二章) 自己の生涯に向って幸福なるかなと言いうる人はまことに少い。死もまた彼にとって自然である。生きる時に我々は様々な習慣に従うが、モンテーニュ は同様に死ぬことに対してもこれを習慣化しようとした。死をあたりまえの習慣とする人はまことに少いものである。

 

慈愛とは
ジード
(小説家)
金持のひとびとの軽蔑には容易に堪えられる。だが、一人の恵まれないひとの視線は私の心の底に深く突き刺さってくる。

 

寺院とは
アラン
(哲学者)
いきおい寺院にある人の心は神をおそれるよりむしろ神を求めるように働く、しかも、夢想はやはり常に人間の土地にあらゆる人間の秩序に連れもどされる。人間となった、という言葉の意味は明瞭である。並べられたさまざまな絵は精神を同じ道に連れもどす、外的な神をたのまず人間の希望をかたどるのにいかにも適切な聖母の絵はことにそうだ。こういう筋道の通った知恵と外的ないろいろな怪物との対象が効果をいっそう大きくする。したがって寺院にはいってくる人は安心と救いとを感ぜざるをえない。だが同時にいかめしい礼儀が強制される。声を出しても身動きをしてもその音は四方に反響し、見上げ見下す目の動きとともに丸天井にはねかえり石畳の上に落ちてくる、ただでさえびくびくしている人をおどかす。要するに寺院ではなにものも気まぐれにはできていないのである。

 

自覚とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
人間と人間との真の結合は可能だろうか。結合するための 「理解」 とは、表面上の一種の契約かもしれない。何びとも真の理解に達することは出来ず、理解しえたという錯覚の上に安心しているのかもしれない。「理解」 という唯ひとつの言葉をとりあげても、人間の存在はこのように不安である。大切なのはそれを自覚することだ。あるいは信仰とはこうした不安を自覚させるものでなければならない。無自覚に過すということは人間として一つの悲惨ではなかろうか。

 

指導者とは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
指導者と民衆の結合がいかに困難であり、また指導者の先見の明も常に民衆に理解されるとは限らず、逆に民衆のうらみの対象となることすらあることを 「出 エジプト 記」 は語っている。モーゼ の性格はこの困難の中で形成される。彼は 「耐える人」 である。神への忍従は民衆への忍従を意味した。迷える イスラエル の民の不平不満に対して、彼は忍んであらゆる方法をつくして導いている。それにふさわしい性格の人であったらしい。エホバ に言う彼の言葉に、こういう一句がある。「わが主よ、我はもと言葉に敏き人にあらず」 「我は口重く舌重き者なり」 (第四章) と。民を率いるにふさわしい指導者としての雄弁をもちあわせなかったのである。

 

捨身とは
亀井勝一郎
(文芸批評家)
つねに最後のものであれ、一切の赦されざるもの、呪はれたるもの、その業苦の海に身を没し、最深の地盤に御身の足が確乎とつくやうに、さうなるまで沈んで行くがいゝ。(略) 最低の地獄を継いで崩れざる人柱たること、これを捨身といふ。(略)──人生に耐へよ。

 

自由とは
芥川龍之介
(小説家)
自由は山巓の空気に似ている。
どちらも弱い者には堪えることはできない。

 

自由とは
ゲーテ
(詩人、小説家)
ひとはどれほど隠遁して暮らしていようと、いつのまにか、債務者か債権者になっている。

 

自由とは
亀井勝一郎
(批評家)
自由とは何か。パンを得る自由もそのひとつにちがいないが、同時に魂を束縛されないという条件を伴わなければならない。しかし現実的には、パンの保証のあるところ必ず制約がある。それが働くときの義務であるならよい。逆に人々の信仰や思想への制約を伴うとき、人は名目の如何にかかわらず奴隷となる。制約をもたらすものは、国家権力である場合もあり、職業機構であることもある。強制力とはみえない強制力もある。

 

宗教とは
ジード
(小説家)
死は、じぶんの一生をまっとうしなかったひとにとっては辛い。このようなひとにたいして、宗教は暢気な顔で言う、「心配しないでもよろしい。むこう側へいってから本当の生活がはじまるのです。かならずあの世であなたは償われます」 と。

 

宗教とは
アンドレ・プレヴォ
(批評家)
宗教は大きな河に似ている。すなわち源泉から遠ざかるにつれて、たえまなく汚染してくる。

 

宗教とは
亀井勝一郎
(批評家)
抑圧された活き物の嘆息は、畢竟 パン の保証によつて消え去るといふ驚くべき独断に達して行つたのであつた。人間の物質的関係こそ一切の基本であると。(略) 人間にとつての実体は人間自身であり、神はたゞ幻想にすぎぬといふ。宗教は、人間が自分自らを中心に動くやうになるまでの間だけ、人間の周囲をめぐる幻想的太陽にすぎないといふ。この自力の確認が我らを 「物質」 と 「生産」 に密着せしめた。(略) 一理論の裡に人間を限定し、刑罰をもつて抑制し、然る後与へられた パン が果して最上の美味であるか。それでも飢ゑよりはましであるか。

 

宗教とは
亀井勝一郎
(批評家)
宗教について語るということは、それを信じない人に対して語るということである。少なくとも無信仰の状態、あるいは信仰の危機の状態が念頭になければ語ることの張合いはない筈だ。そのとき神の教を上から説くのではなく、逆に人間の実態を明確に分析して、それがいかに不安定で不安にみちたものであるかを示し、その具体的な姿から逆に神の方へ赴かざるをえないように仕向けることが大切ではなかろうか。云わば人間の悲惨な状態への明晰性が前提である。信仰とはそもそもこうした明晰性を与えるものでなければならない。人間の悲惨へのそれは開眼である。この点で私に多くを教えてくれたのは パスカル の 「瞑想録」 であった。

 

宗教と芸術の関係とは
亀井勝一郎
(批評家)
裸形の描写はいかなる意味でも、キリスト 教においては悪魔の誘惑として斥けらるべきものかもしれない。しかしいかなる宗教も、ポエジー を斥けることは出来ないであろう。これはむずかしい問題だ。悪魔の誘惑とすれすれのところに存するからだ。大きく考えるなら宗教と芸術との関係あるいは相剋の問題になる。(略) 宗教の世界は云うまでもなく神の愛を説くところだ。しかし神の愛は人間性の微妙性への明確な透視でなければならない。その微妙性に通ずる道として ポエジー は大切な役割を果すのではなかろうか。たとえ多くの危険を伴っても。宗教感情の生硬化を防ぐために必要なのではないか。

 

宗教と芸術の関係とは
亀井勝一郎
(批評家)
生の悦びを圧迫するところに宗教の一つの危険がある。病気や罪悪や死の危機において宗教的覚醒は起るし、また人間の実体はここに求められるであろうが、しかし、「生」 を明るく大らかな喜びに絶えず導こうとしないかぎり、宗教は陰惨なものになる一方であろう。「ソロモンの雅歌」 は、異教的ではあるが、むしろそれ故に旧約の一節として入れたことは、旧約の魅力を一層深からしめたと云えよう。宗教に固有の ストイシズム に対し、華かな一種の ニュアンス をもたらすものと云うべきではなかろうか。「伝道の書」 と併せて、人間及び人生の両面がここにあらわれている。

 

執着とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
一切の執着から離れよとは、人間として不可能なことだ。不可能な教えだ。しかも敢えてそれを信じようとするところに、人間の深い叡知がある。
「不可能」を設定することによって、生の実体を見きわめる明晰の眼を開こうというこである。もし人間に可能なことだけを説いていたら、われわれはその可能なことを、可能であるという理由のもとに実行しないであろう。

 

執着とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
「無為」 とは、まず行動における無執着を意味していると言ってよかろう。何もしないということではむろんない。もの事を判断する場合ならば、判断すると同時にその判断自体に執着しないということである。同時に世間体や他人の顔色にもとらわれない。(略) 「無執着」 を口にしながら執着していることがある。あるいは 「無執着」 も当為と化すれば一種の執着となる。(略) 自己の判断や行動に誤謬があると気づいた時には、直ちにそれを取消すという、極めて平凡な行為から始める以外にない。ところがこの平凡なことが出来ないのだ。

 

執着とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
人間の罪はすべて執着力から発する。しかも人間は執着力がなければ生きて行けない。これはたいへんな矛盾です。だから生きることは、罪を犯すことだとさへ言はなければならないほどです。執着力がなければ生きられないし、しかもその執着力は罪の母胎となる。人間はこの矛盾からいかにして脱却しうるか。鎌倉仏教の祖師たちの痛切な問ひでした。そこにどんなに多くの修行方法が発生したか。

 

執着とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
(略) 云わば生の無限定の状態である。そういう意味での楽天主義である。自由を失うことは 「思い煩う」 ことだ。執着が人間を限定し、人間を束縛する。(略) こうした自由の境に達することは人間として至難のことである。不可能と云ってもよかろう。(略) 果して執着を断ち切れるものかどうか。(略) 同時に凡人としての自己のむざんな執着が一層実感されてくる。不可能なことを敢えてすすめているようにみえる。キリスト の ポエジー だ。同感しつつ、実行不可能の前にたじろぐのである。

 

羞恥心とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
愛について羞恥心なく語る人がいるように、死についても羞恥心なく語る人がいる。

 

試練とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
たいせつなのは試練、すなわち、人生という荒野における修業ということだ。いかに堪えるかが問題なのである。堪えるという言葉は平凡に聞えるかもしれない。しかし堪えるとは祈りを宿した行為である。祈りとは意志の持続である。あるいはその持続の与えられんために祈りがあると云ってもよかろう。

 

信仰とは
親鸞
(浄土真宗開祖)
信じるほかに別の仔細なきなり。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
したがって、信仰を得るということは安心をもたらすことでなく、逆に今まで見えなかった人間の実態が見えてくることを意味する。だから救いという観念とは逆に、人間としての救いの無さという自覚の方が深まる筈である。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
信仰の場合はとくにそうだが、それはまず隠れてなされるべき行為である。人に見せるためのものでなく、宣伝すべき性質のものでもない。自分の心に秘めて、ないしわずかな人々の間でだけ、ひそかに営まるべき行為であって、それが大衆化されるにつれて、極めて多くの危険を伴うものである。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
「歎異抄」 に幸福といふ言葉は使つてをりませんが、私にとつては次の述懐こそ親鸞聖人の幸福論だと思はれるのです。「たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆゑは、自分の行もはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらうはばこそ、すかされたてまつりてといふ、後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
美術研究といふ名目も、「教養のため」 といふ心がけも、「過去のものと現在のもの」 といふ分別も、悉く我らの煩ひなのであらう。それらを去って畢竟私の心に湧いてきたのは一片の信心だけであつた。諸〃の菩薩像が私にかくあらざるをえぬやうに強ひたのだと云つてもよい。わが身にまつはりついた一切の雑念邪心を放下して、たゞ無心の裡に仏自らの運命の物語を聞くといふ態度のみが正しいのではなからうか。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
どうしてこんなに神さまが多いのだらう。そして人間はちつとも救はれない。何といふ奇怪な深さであらう。
煩悩の深さか、知識の禍か、愛の不足か、信ずるとはどういふことなのか。確かに明らかになつてくる唯一のことは、信仰に一歩近づくとは、地獄に一歩近づくといふことだけだ。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
信仰そのものが迷ひの所作である。つねに危機の上にのみそれは彷徨ふといふ意味だ。故に 「私は信仰を得た」 と云ふものも、「私は不信の徒である」 と明言するものも、いづれも傲慢で粗暴な自己欺瞞におちいつてゐるのである。むしろ信と不信と、そのあはひの戦慄に人間の受難があるのではなからうか。而して後、彼方よりおのづからに来るものに一切を委ぬべきなのだらう。むろん、何ぴともその時期を予測しえない。神の恩寵は推量しえない。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
教会にもぞくせず、受洗もせず、しかも聖書を自分なりに愛読してきたことは、「文学的」 にゆるされるかもれしないが、それだけ大きな危険を伴ふ。危険や不安を弄ぶにこれほど都合のよいものはないからだ。(略) 更に一歩まちがふと聖書は恰好な文学的 アクセサリー になるだらう。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
信仰の強烈な統一は、反面に必ずその形式化を生じ、信仰が生硬なものになる危険が生ずるからである。そのために、外部にあらわれない内面の信仰の深さを強調する必要があったのであろう。エホバ の名を妄に口にあぐべからずとは、信仰における沈黙の尊さを示したものであり、信仰の外的誇示を厳しく戒めたものと解してよかろう。この点は新約聖書における キリスト の態度に、より深いかたちで、あらわれている。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
伝道の書は信仰について語るよりも、むしろ懐疑の声を次々と放っているわけで、信仰にとっては危険な書といえるかもしれない。しかし、旧約の中に敢えてこれを収めたところに、私は西洋の古人の深い知恵を感ずる。人生への深い懐疑なくして、信仰はないのみならず、信仰そのものへの懐疑もまた必要である。というよりは必然的につきまとうものだと思う。云わば対決の精神のないところに信仰そのものも鍛えられないということだ。信仰の敵は、決して懐疑ではなくむしろ軽信ではなかろうか。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
現実に直面して、妥協したり裏切ったりする危険は誰でももっている。死をもって脅かされるとき、人間はどうなるかわからない。しかし、わからないから、あるいは心が不安定だからと云って、一つの信仰、一つの理想を捨てることが出来るだろうか。前途に横わる困難を精密に計算出来るものではない。たとえ計算しても、どんな運命に見舞われるかわからない。人間の計算力をもって、信仰や理想をはかってはなるまい。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
キリスト 自身は様々の奇蹟を行っている。しかし自分自身のことについては奇蹟を求めない。これが重要な点だ。エホバ への信仰が自分をどこへ導いてゆくかわからないが、しかもなお自分はその信仰を掲げて進まざるをえない。そこに彼の祈りがあった。「一粒の麦地に落ちて死なずば」 といいう祈りが。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
彼は悪魔たちによって十字架にかけられた。その十字架の下に集まった悪魔たちは口々に彼を嘲笑しながら最後の声を放った。「汝もし神の子ならば己を救え。十字架より降りよ」 これに対する キリスト の答えは、人の子として最も悲痛をきわめたものであった。わが神、わが神、何ぞわれを見捨て給いし」 と叫んで十字架上に息絶えたのである。キリスト は完全に敗北したようにみえる。が、先にも述べた 「一粒の麦地に落ちて死なずば」 という言葉は、これによって成就した。キリスト を殺した当時の ローマ の強大な権力や栄華は今日ことごとく消え去ってしまったが、キリスト の教えは今もなお人々の心に生きているということである。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
ソクラテス の知恵とは、我々が自ら知恵と思いこんでいるものの無価値と空しさを、それぞれの場合に応じて具体的に指摘する知恵であった。その根本に ソクラテス の ギリシャ の神々への信仰がある。彼の知恵とは信仰からくる明晰である。神秘的なものと合理的なものとの見事な結合がここにみられる。しかも信仰そのものを裸のまま説かず、それは常に明晰による対象の正確な認知というかたちであらわれた。だから彼の明晰さが、彼の告発者には不信仰にみえたのである。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
死刑を宣告されたとき彼 (ソクラテス) は七十歳の高齢に達していて、一種の悟りを得ていたのであろうことは明らかだが、ここでも東洋的悟りのもつ沈黙はない。徹頭徹尾、明晰な頭脳を以て死の何であるかを弁明している。彼の信仰は最後まで透徹した証明力をもっていたことに注目しよう。

 

信仰とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
キリスト も ソクラテス も罪あるものとして死刑を宣告されたわけだが、この二人の死のあいだには極めて興味深い差異がある。キリスト の死はいうまでもなく十字架である。万人の犯した罪を自分で担って、云わば万人の罪の贖主という形で十字架の上で死んだ。ソクラテス の場合にはこうした意味での罪悪感はない。人間精神の豊かな活動、知恵の純粋性、その積極性の極点としての 「死」 である。むろん根柢には神への信仰があるが、その信仰はすでにくりかえし述べたように知的活動の持続と切り離しては考えられないものである。

 

人生とは
シェークスピア
(劇作家)
わたしはこの世をただこの世として見ている。
めいめいが何か一役ずつ演じなければならない舞台だと思っている。
(「ヘ゛ニス の商人」)

 

人生とは
ミュッセ
(詩人)
苦悩こそ人生の真のすがたである。
われわれの最後の喜びと慰めは、苦しんだ過去の追憶にほかならない。

 

人生とは
ボードレール
(詩人)
人生には、真の魅力が、ただ1つしかない。それは「賭博」の魅力だ。
だが、もし、我々が、負けても勝っても、平気ならば、どうであろう。

 

人生とは
森鴎外
(小説家)
ぼくは生まれながらの傍観者である。(略)どんなに感興のわき立った時も、ぼくはその うずまき に身を投じて、心から楽しんだことがない。ぼくは人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。

 

人生とは
空海
(真言宗の開祖)
生れ生れ生れ生れて生 (しやう) のはじめに暗く、
死に死に死に死んで死のをはりに冥 (くら) し。

 

人生とは
吉田兼好
(歌人)
いのちながければ恥おほし。ながくとも四十にたらぬほどにてなむこそ、めやすかるべけれ。そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人にいでまじらはむ事を思ひ、夕の陽に子孫を愛して、さかゆく末を見むまでのいのちをあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、物のあはれも知らずなりゆくなむあさましき。

 

人生とは
太宰 治
(小説家)
生まれて、すみません。

 

人生とは
チェーホフ
(劇作家)
僕は よく思うんですがね、もし人生を もう一度新しく、それどころか ちゃんと自覚して始めるとしたら? とね。すでに生きてしまった一つの人生は いわば下書きで、もう一つのほうが──清書だったらねえ! その時こそ、われわれは めいめい、まず何よりも自分自身を繰り返すまいと努力するだろうと思うんですがね。

 

人生とは
ショーペンハウアー
(哲学者)
一日も小さな一生涯である。──毎日、目がさめて床を離れるのがその日の誕生であり、新鮮な朝ごとに短い青年期を経て、床について眠ると、その日は死んでしまう。

 

人生苦とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
神道是か、仏法是か、さういふ議論に私は何の興味も感じない。いづれが是なりと非なりと人生苦に変りはあるまい。釈尊の教よりも耶蘇の教よりも、更に深いものは人生苦自体である。そこから発して、見えざる処で慟哭と祈りに一切があるであらうに。そこにのみ何ものかが在 (いま) す。名を言ふことも説き明かすことも出来ないが、感じることだけは出来るといふ世の深さ。何びとも之を奪ふことは出来まい。まづこの根源を思はねばならぬのに、何故宗派と宗旨といふ転倒した立場から論議が始るのか。排仏棄釈をやつてみるとよいと思ふ。何事でもやるがいい。生命の痛苦は絶えないだらう。

 

真理とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
耶蘇は真理であっても、真理として刑されたのではない。ロ-マ 人の眼には二人の盗賊と同列に扱って然るべき罪人であった。最後にうけた この激しい屈辱、これが耶蘇の死の鮮かさであり、眠れる者を覚醒しむる衝撃となったにちがいない。

 

真理とは
法句経
(大乗経典の一つ)
美しく飾られし王の車も朽つ。われらが肉体もまたつひに老ゆ。されど、よき人の法 (のり) は老ゆることなし。よき人より よき人へと語り伝へて。

 

真理とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
(略) キリスト の殆ど沈黙のうちに十字架にのぼったのに対し、ソクラテス は長時間にわたり堂々と弁論を展開し、相手を論破しなければやまないといった冷徹な態度をとっていることである。しかもそこには受難者らしい凄惨な面影はすこしもない。弟子を教えさとすというような静かな調子すらある。死を前にしてのこの静けさ、そこに宿る真理のためへの情熱の流露は実に見事である。

 

神話とは
シオラン
(哲学者)
一箇の神話として生きよ。

 

救いとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
信仰の途上における最大の誘惑は、自分だけ一足先に救はれようとする焦燥であらう。信仰に限らず、すべてはかくのごときであるが、最も救はれ難い最低線に赴き、己の裡にもそれを生々と感じる心が何故え難いのであるか。

 

救いとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
他に先んじて、己の裡に神性あるひは仏性を感受したといふ悦びが、人間の不安定からの韜晦をもたらしたとすればどうであるか。(略) 自分の悲惨だけは救はれたやうに錯覚する。そして一つの教にすがりつき、そこから他人を非常に至らぬものとして攻撃し或は説教するのである。

 

救いとは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
人間の悲惨を己の外部にあるものとして眺め、戒律や道徳をもつて責める。そして必ず何らかの意味で善人と悪人とを区別断定しなければやまない。それが求信の行から得た当然の権利であり分別であるかのやうに振舞ふ。賭けた以上は元金 (もとで) をとらなければ損なのか。──かうしてかの無神論とは正反対の面から人間の悲惨をもてあそぶ。己は救はれたと思ひこむ幻想が傲慢な所作を生むのだ。凡そ古典を求むるものの先づ陥いる穽はこれなのである。主義の如何に拘らず指導者──先駆者意識もまた然り。

 

聖人とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
だから親鸞聖人の教へといふものは、人間の心のなかの、つまり人間とはなにかと問うて、人間とはかういふものだといふことを、自分の心のなかに明確に自覚しながら、さういふ自分と死ぬまで戦つて行かなければならないといふ性格を帯びざるをえないと言つていゝでせう。目に見る効果といふものを、一つも聖人は求めなかつた。絶えず心のなかの格闘を次から次へと続けて行く以外にない。(略) 煩悩具足の凡夫として、自分の心のなかの戦ひをどこまでも持続してゆく。むろん聖人の自力修行といつたものではなく、その中心に如来より賜はりたる信心といふのが、一本貫いてゐるのであります。

 

生物とは
沢木興道老師
(禅僧)
「鉄牛は獅子吼を恐れず」と言うが、そりゃそうじゃ。
生物の弱点がないから。

 

絶望とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
自分に絶望する必要があると思ふのです。必要といふと、無理に絶望するといふふうにとられやすいのですが、親鸞聖人の場合なら、煩悩具足の凡夫といふ自覚がそれです。私は当世風の (といふよりは絶望の ポーズ といつた方がいゝ) を奨励してゐるのではありませんし、絶望こそ第一義だとも考へてゐません。大切なのは次のことです。絶望が根本になければ、邂逅もありえないといふことです。

 

禅とは
沢木興道老師
(禅僧)
ツクリモノ を一切ぶちこわして
中味を現 ナマ でやるのが
禅者の生活でなければならぬ。

 

善行とは
トルストイ
(小説家)
善を行うまえに、悪を行うことをやめなければならぬ。

 

尊厳とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
悪魔のこの 「現実的」 な叫びに対して、キリスト のまず念頭に浮かんだものは、人間の自由とは何かということではなかっただろうか。パン のために、人間は何ものかの奴隷になることがゆるされるか。奴隷から神の選民へという 「出 エジプト 記」 にみられる モーゼ の苦悩を、このとき キリスト は味わったにちがいない。「人の生くるは パン のみに由るにあらず」 とは、人間の奴隷状態からの人間解放の叫びではなかったか。
「現実的なるもの」 は、汝に パン を保証するから汝の魂を売れというかもしれない。また、人間にはそれに応ずる永遠の弱点のあることも述べた。キリスト はこれに対して、魂の自由を第一義として、そこに人間の尊厳をおこうとしたことはあきらかである。

 

怠惰 (怯懦の群) とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
「地獄篇」 第三曲の一節で、「怯懦の群」 に対して放たれた ダンテ の言葉だが、彼の深い怒りが背後にあるように思われる。怯懦の群とは何か。対決しなければならないときに、それを放棄した人間のことだ。むろん根本は神への信不信に発しているが、自分の直面したあらゆる問題に対して、それを己の身にしみて考えようとせず、傍観したり回避したりする人間の怠惰を弾劾しているのである。地獄に堕ちたものの中でも、最も侮辱すべき存在として描かれている点に注目したい。

 

怠惰 (怯懦の群) とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
怯懦の群に堕さないための三つの原則を、私は人生の根本問題として考えてみたい。
第一は、困難の設定である。たとえば神を肯定するか否定するかといった問題は、言うまでもなく短時間で決することは出来ない。一生かかっても解決することの出来ないような永続性あるテーマである。人生を人生として確立させるためには、必ずこうした性質の課題を一つでいいから背負うことが必要だ。私はそれを困難の設定と呼ぶ。怯懦とはこうした困難の回避である。「神に逆ひしにもあらず、また忠なりしにもあらず」 と言っているのがそれである。

 

怠惰 (怯懦の群) とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
第二は拒絶の精神である。拒絶の精神とは、肯定するにしても否定するにしても、そこで自己に対しきびしくあることである。様々の問題に対して、我々はどうしても決断しなければならないときがある。しかも人間の決断にはさまざまな欠陥が伴う。ともすれば独断と化しやすい。そうかと言って、あれもこれもわかると言った風に、不決断のまま動揺していいだろうか。たとえ動揺はやむをえないにしても、そのために八方美人的に、事を曖昧にしておいていいだろうか。決断というものの、悲しいほどのきびしさに思いを致さなければならぬ。
人生を生きてゆく上には、一つのもののために他のものを拒絶する精神が必要である。拒絶のないところに精神の形成はありえない。

 

怠惰 (怯懦の群) とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
第三は、未完成という自覚である。様々な困難を設定し、そこで決断し、しかもそれで完璧であるかというと、人間の行動としてそういうことは絶対にありえない。ある場合には決断し拒絶するが、しかしそこで自己を固定化したとき、決断も拒絶もその生命を失うであろう。自分のこころみていることの一切は、永久に未完成だという自覚を伴わなければならない。(略) 怯懦の群の特徴は、あたりさわりのない生存をつづけるところにある。だから何びとにも喜ばれず、憎まれもしない。「我らも彼らのことを語らず、ただ見て過ぎよ」 と言っているのがそれである。完全に無視され黙殺される以上の悲劇があるだろうか。

 

怠惰 (怯懦の群) とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
困難の設定、決断あるいは拒絶の精神、未完成の自覚、この三つが人生を形成する基本ではないかと私は思っている。この三つのものを回避したところに ダンテ のいう怯懦の群が生ずるのではないか。しかし考えてみると、我々の心の中にはこうした怯懦の状態が常に起りやすい。「地獄篇」 のこの一篇を、ただ特殊な人間の落ちる地獄とはみずに、すべての人間に普遍的な、内在する悪として正視すべきであろう。「地獄」 に堕ちた人々とは、実は我々自身である。その中でも最も侮蔑された存在である 「怯懦の群」 を、自分もそのひとりと考えてみることだ。やりきれないほどつらいことだが、まさにその故に ダンテ は最も激しくこれを撃ったのではなかろうか。「神にも神の敵にも喜ばれない卑劣者の群」 とは、いつの世にも地衣類のように執拗に生きているものである。

 

泰然自若
伊東静雄
(詩人)
そんなことは みんな どうでもよいことであった。
ただ 巨大なものが 徐かに 傾いているだけであった。

 

魂とは
アラン
(哲学者)
デカルト は、僕らが僕らの自由意志についてもっている情操を寛大とよぼうとしたが、これは非常にたくみな名づけかただ。だが魂の立派さとはただなにか立派なものを所有しているというところにはない、すべての物の審判者であり、自然、すべての物の征服者である、さらにまた、人間の弱点についても正確な尺度を持ち、これに対して寛にも酷にも偏することなく、最も深い意味で正しい態度をとるものでなければならぬ。

 

魂とは
アラン
(哲学者)
多くのことを大目に見なくてはならぬとはだれでもよく知っている。情熱のゆえに許せなくなったり、他人の言葉もゆだんも意図もことごとく勘定して見のがせない人は意地の悪い人だ、不幸な人だ。だが、許すとはどういうことかをよく知らねばならぬ。もう以後しないとか、悪かったとか、要するに意見が変わったところを見せてくれなければ、寛大になれぬ人がある。僕に言わせるとそういう人は物を値切るようなつまらぬところがあるのだが、とくに、あらゆる衝動に思想を仮定する性癖、しばしば言うことだが、精神を獣の手に渡す性癖があるのだ。

 

魂とは
アラン
(哲学者)
スピノザ があの無類な正確な表現でこう言う、危惧の念から食うものも食わずにいるくらいなら、食べたいだけ食べた方がよほど病気にかからぬ近道だ、と。僕も彼にならって言おう、僕らの悪徳をいやすものは僕らの道徳以外にはない、と。魂の立派さがめざすのはそこだ。

 

魂とは
アラン
(哲学者)
精神の諸作品には、常に多くの弱点があるものだ。幸福そうな表情にも、偶然がたくさんまじっている。つまらぬ精神はそういうところばかり目をつける、つまらぬものはやりすごし、天才と自由との光を待つということをしない。(略) だが、名著傑作から最良部分を抜粋し、そればかりを学ぼうと、くりかえし読みたがったという、やや粗暴だが、見識あるこの人物が行ったほど遠方まではおそらく僕は行くまい。反対に、まじめな音楽家のいわゆる整調 (プレパラシオン) とか音程 (ランプリサーシュ) とかいうものが、遠くへ行かないうちにおもしろくなってしまうだろう、そういうもののなかに、僕は一種の楽しみを感ずるし、そういうものが平気で受け入れられる瞑想の立派さというものもあるのだから。思想がまだ昏睡のうちにありながら、意識界に出ようとして、単純な形式あるいは全然それに無縁の事物をすでに取り扱っているという消息を知っている者は、文体とはどういうものであるかが、ややわかっている人だ。

 

罪とは
シオラン
(哲学者)
自伝への題辞、
すなわち私は罪という口実をもたぬ ラスコ-リニコフ。

 

罪とは
芥川竜之介
(小説家)
矜誇、愛慾、疑惑--あらゆる罪は三千年来、この三者から発している。
同時に又恐らくはあらゆる徳も。

 

罪とは
ヤスパース
(哲学者)
私が他人の殺害を阻止するために命を投げださないで手をつかねていたとすれば、私は じぶんに罪があるように感じるが、この罪は法律的、政治的、道徳的には適切に理解することができない。このようなことの行われたあとでも まだ私が生きているということが、拭うことのできない罪となって私の上にかぶさるのである。

 

罪の意識とは
亀井勝一郎
(批評家)
宗教問題の中でも最もむずかしいのは罪の問題である。(略) 罪が醜いものであることは言うまでもないが、その自覚そのものに、深い陥穽 (かんせい) がある。どういう陥穽か。罪についての自己計画から発する虚栄と打算である。宗教の最大の危険もここにある。人は罪の意識をもつことによって巧妙に自己を飾ることが出来るということだ。あるいは罪の意識を抱くことで安心するものだ。そして、これが直ちに救済観念に結びつくとき、どれほどの悪臭を放つか、想像されるであろう。同時に文学にとっては、罪の描写ほど誘惑的なものはない。

 

罪の意識とは
亀井勝一郎
(批評家)
罪悪感を抱くことによって一層巧妙な誘惑者になることもありうる。それはこういうことだ。最も巧妙な誘惑者とは、誘惑の罪を知り、その点で自己を責めながら、自己を責めることに酔いながら女を誘惑するもののことである。そういう一種の知的要素が作家の中に存在する。(略) 神の名はこのとき、情欲をそそる薬味 (やくみ) のような作用をするだろう。

 

罪の意識とは
亀井勝一郎
(批評家)
モーゼ の十誡によれば、姦淫を犯した者は石をもって撃ち殺さなければならないことに定められてあった。そのことを学者や パリサイ 人が持出して、キリスト がどういう態度をとるか、試みようとしたのである。キリスト はむろん モーゼ の十誡を厳しく守ったが、しかしそれを極度に内面化することによって、一大変革を加えたことが一節によって明らかであろう。それは 「汝のうち罪なきもの」 という一言に出る。罪を外面的なものから内在的なものに転化させ、その点において姦淫の女を捕えた人々に問うたのである。

 

罪の意識とは
亀井勝一郎
(批評家)
さきに述べたように 「罪なきもの」 という一語が決定的なのだ。姦淫の罪を犯したものはこの女一人だけではない。あらゆる人間が、外面はともあれ心の中でそれを犯しているのではないかという暗黙の詰問がある。「色情を抱きて女をみるものは、心のうちすでに姦淫したるなり」 という言葉がここに明確に自覚されていたであろう。内在的な意味での罪の意識を、周囲の人々に一瞬にして呼び起したのである。
聖書は訴えた者らが良心に責められて一人々々立ち去ったことをしるしているが、内在的な罪の自覚のうながしによって、各人は自己の内部に 「偽善者」 を感じたのである。このとき彼をとりまいていたのは群衆だが、群衆を一人々々に分断し、個人に復帰させ、一個の孤独な人間としての反省を一瞬にしてうながしたところに キリスト の権威があったと云ってよかろう。

 

罪の意識とは
亀井勝一郎
(批評家)
ところで、キリスト 自身も女に向って、「われも汝を罪せじ」 と言っている。何故か。この場合 キリスト 自身も一個の人間として罪の可能性を自覚し、その自覚によって自ら罪を負うという態度をとったからである。これを キリスト における内在化せる十字架と呼んでいいのではあるないか。(略) 宗教的に言って決定的な点は、その犯人の自発的な悔改にあるにちがいないが、これは至難なことである。そのために現実の法律と裁判が存在するわけだが、しかしさきにも述べたように、それを越えてなお深い宗教的態度のあることを常に念頭におかねばなるまい。根本は人間性に対する信頼の問題ではなかろうか。

 

道心とは
最澄
(天台宗の開祖)
道心の中に衣食あり。衣食の中に道心無し。

 

陶酔とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
しかし不安なので、何ものかの力をかりて「陶酔」しようとする。
--これが病気になる前の病状である。

 

都会の生活とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
大都会では自然は失われてしまった。新鮮な空気も、緑の樹木も、鳥や虫の声も消滅しつつある。しかし真の悲劇は、多忙と過労によって、人間の人間らしい声も失われつつあるということだ。我々は「叫んで」生きている。

 

徳とは
スピノザ
(哲学者)
至福は徳の報酬ではなく、徳そのものである。われわれは快楽を抑えるから至福を楽しむのではなく、むしろ逆に至福を楽しむから快楽を抑えることができないのである。

 

徳とは
「書経」
(儒学の経典)
人を玩(もてあそ)べば徳を喪(うしな)ひ、物を玩べば志を喪ふ。

 

奴隷とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
「我ら エジプト の地において肉の鍋の側に坐り飽くまで パン を食らひし時に、エホバ の手によりて死にたらば善 (よか) りしものを、汝はこの曠野に我らを導き出してこの全会を飢えに死なしめんとするなり」
これは イスラエル の民が奴隷状態から脱しようとして苦難の最中に、その指導者 モーゼ に向って放ったうらみの言葉である。ここに奴隷というものの本質がある。たとえ自分では奴隷と思っていなくても、困難の回避によって何ものかに束縛されている方が楽だと思う人間の通有性かもしれない。惰性の恐ろしさと云ってもよい。

 

奴隷とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
ついに釈放され脱出しても、(略) エホバ は彼らの前途に決して安易な道はおかない。救いではなく、次々と試練をおく。同時に人間の習慣性がいかに根ぶかく強いものであるか。イスラエル の民は脱出のための苦難よりは、むしろ奴隷であることの安易さを選ぶと言っているのである。あらゆる意味で困難の回避こそ 「奴隷状態」 というもので、エホバ は様々の奇蹟を行って彼らを救うが、その次には更に倍加した困難を課する。奴隷から神の選民に至る道のいかに険しいかを、「出 エジプト 記」 ほど巧みに語っているものはないであろう。そして最後にはあの峻烈な十誡が下されるのである。

 

涙とは
シオラン
(哲学者)
一滴の涙には微笑よりもずっと深い根拠がつねにある。

 

日常生活とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
日常生活とは平凡きわまるものである。そのなかで徐々に発芽しているものを慈しみ育てることを忘れているのだ。

 

人間とは
スピノザ
(哲学者)
人間にとって、人間ほど有益なものはない。

 

人間とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
無常なる存在であることを自覚することによって、死を確認すること、執着深い存在であることを自覚することによって、罪を確認すること、激変する存在であることを自覚することによって、狂気を確認すること。私たち自分の心をふりかへつてみると、この三つをことごとく兼ね備へてゐるわけで、人間にはいろんな可能性がありますけれど、むろんよりよくなる可能性もあるが、いまのやうな、非常な危険もはらんでゐる。人間である以上みなさうだと言つていゝでせう。

 

忍耐とは
ゴーリキー
(小説家)
すべてのものごとには終わりがある。したがって忍耐は成功をかちうる1つの手段である。

 

反省とは
亀井勝一郎
(批評家)
自分の都合のいいような反省の仕方をする。(略) 自分で自分の罪を評価し、罪をもてあそぶようなことがしばしばある。ないしは、罪悪感を抱くことで安心するという危険もある。

 

不安を鎮めるには
シオラン
(哲学者)
狂熱や執拗な不安感を鎮めるには、自分の葬式の情景を思い描いてみるにかぎる。

 

不幸とは
メーテルリング
(詩人)
人間の不幸は、すべて、自分が路上の人にすぎないことを理解しようとしない点に由来している。

 

不幸とは
亀井勝一郎
(批評家)
平生健康なときは、我々は自分の生命力については無関心である。ところが一旦病気になると忽ち自分の生命に不安を抱く。全力を挙げて生きたいと願うし、同時に生命のもろさを実感する。あるいは死の恐怖を味わう。それまで抱いてきた自分の希望や信念を改めて思い出し、中途で倒れてはたまらないという深い焦燥感や憂いに陥るであろう。つまりこうした不幸が動機となっていままで自覚しなかった生命力がはっきり自覚されてくる。

 

不幸とは
亀井勝一郎
(批評家)
喜びや歓楽よりも憂いや悲哀の方に人生の実相があると言っているのだ。すべての人間を、その 「終末」 の側から眺めようとしている。 終末において眺めたとき、はじめて人間性に関する知恵にめざめるのではないか。 幸福よりもむしろ不幸を信ずべきではないか。 生よりも死を。一種の厭世感にはちがいないが、しかし伝道の書の作者は、人間の空しさを教えることによって神の知恵への覚醒を促しているのである。

 

仏像とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
仏像は礼拝の対象であって、美術品ではない。

 

仏像とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
いかに多くの学識教養をもって臨んでも、仏像が人間に教えるものは無心の一事である。

 

仏像とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
諸々の古菩薩像は、千年の歳月を経て、いづれも彼ら固有の運命をもち、固有の神託をもつてゐる。(略) 古仏をたゞ保存された彫塑とのみ思ふのは誤りである。千年にわたつて人間が祈つた切なる生命の息吹きを、古仏の肉体は吸収してゐるのである。彼らはわが前に跪拝せよとは言はぬ。われを絶対に信ぜよとも言はぬ。伝統を語らず勿体をつけず、放心のまゝ黙然として立つてゐるだけである。大自然の扉をひらく黄金の鍵と云つてもよかろう。それを開顕する力は我らの唯信である。

 

仏像とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
様々の仏体のなかでも、観音像にはとくに美貌と柔軟性を追究したものが多く、形相から云へば厳粛な観音像をもととするが、これに艶麗な天女形を加味し、云はば東洋の ヴィーナス とでもいふべき位置を占めてゐる。(略) 飛鳥仏に宿る祈りは厳しく思索的であり、白鳳仏に宿る祈りは柔軟に音楽的であり、天平仏となればこれに舞踊性が加はる。仏師の芸術的才腕の推移を示すとともに、信仰の微妙に消化されて行く相を語つてゐるのはなからうか。

 

仏法とは
澤木興道老師
(禅僧)
空手還郷でなければならぬ。
空手でなければ、何ぞ クセ がついているわけだ。
仏法の極意は、「何の手形もなしに出発せい」というこっちゃ。

 

仏とは
澤木興道老師
(禅僧)
少住為佳 -- ちょっと一服すればいい。
人間をちょっと一服したのが仏じゃ。
人間が エラク なったのが仏じゃないぞ。

 

仏とは
白隠
(禅僧)
衆生の外に仏なし。

 

菩薩とは
亀井勝一郎
(批評家)
そこ(悩み) での無限漂白がその運命である。だからこそ菩薩なのである。人間として煩悩の消滅することはない。菩薩はそれを 「断」 ずるものであってはならないのだ。むしろ煩悩自体の中に漂いつつ、人間の実相を凝視しつづけようとする永続的な認識能力として、それはあらわれなければならなぬ。

 

煩悩とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
あらゆる煩悩の中で最も捨て難いものは、自己に関する幻想である。

 

迷いとは
澤木興道老師
(禅僧)
実相は始末がついておる。
迷う張り合いがない。

 

迷いとは
謡曲(「熊坂」)
迷ふも悟るも心ぞや。

 

迷いとは
一休禅師
(禅僧)
くもりなき一つの月をもちながら、浮世の雲に迷ひぬるかな。

 

迷いとは
亀井勝一郎
(批評家)
矛盾は永続するだろう。矛盾なしに人間は生きられない。それは我々人間を永久に不安な状態におくことである。しかしこの不安な状態が人間の実際の状態であって、菩薩の大乗精神とは、「不安そのものの中に充満している生命力」 に没入することだと言ってもよい。(略) だから迷わないということが大乗の精神ではなく、迷いの中にあって、迷いそのものの生命力に自己を没入させることが大乗の精神である。言わば矛盾の連続と、未解決のもつ苦痛の中で忍耐することだ。この種の忍耐こそ真の認識能力というものではなかろうか。

 

満足とは
澤木興道老師
(禅僧)
「よかった、よかった」 と、何がよかったのかといったら、「自分の思いどおりに行った」というだけのこと

 

無私とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
「無私」 を思ふものは 「私」 の地獄について知悉してゐなければならぬ筈だ。神の血統を承け継ぐとは、永久に追放されたものの血統を承け継ぐことである。即ち人間の救ひは保証出来ぬといふ課題を。即ち絶望を。こゝにおいて懐疑は一つの自己犠牲である。永遠に救はれざるものの裡以外、どこに神の証明の場があらう。神自身にあるのではない。

 

無常とは
松尾芭蕉
(俳人)
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声

 

無常とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
無常の観念は、人間の生の驚くべき不安定に対する開眼より生ずる。あくまで現世の覚醒者たることだ。(略) 事物の実相について正確さを期する、勁い忍耐からのみ無常の観点は生ずるのであらう。
然るにいま我々の心に忍びよる無常感は、何故漂ふやうな一種の情緒にすぎないのか、本来の面目たる苛烈さが消え失せて、その陰影だけが足をひいてゐるやうに思はれる。陰影は美しく魅惑的である。爛熟のしるしともいへよう。だがそれにとらはれたとき、人は求道の力を失つて一個の趣味人と化す。

 

無常とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
「空」 とは ヘブライ 語では、「直ちに消ゆるもの」 という意味である。日本ではこれが仏教から来ていることは周知のとおりで、「無常感」 というかたちで日本人には普遍的な感情になっている。それは人生と人間を凝視する一種の リアリズム と云ってもよかろう。対象の実態の推移変転の相を見究めようとするのである。しかしこの叡知は、同時に 「常住真実」 なるもの──即ち 「仏」 においてはじめ叡知である。「常住真実」 なるものが一方に在って、はじめて 「無常迅速」 なるものが語られるのである。

 

名声とは
謡曲
(源氏供養)
身は憂き世の土なれども、名をば埋 (うづ) まぬ苔の下。

 

名僧とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
死に直面して、びくともしない名僧の話だけでは困る。死に直面して、悲歎し狼狽する 「名僧」 もいなければ凡人は救われない。

 

名誉欲とは
道元禅師
(禅僧)
愛名は犯禁よりもあし、
犯禁は一時の非なり、愛名は一生の累なり、
おろかにしてすてざることなかれ、
くらくしてうくることなかれ、
うけざるは行持なり、すつるは行持なり。

 

妄想とは
澤木興道老師
(禅僧)
意識に映った影を、また、蒸し返してみるのを妄想という。

 

妄想とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
作者たちの悲しい妄想は、自分を埋もれてゆくもののなかにけっして数えないことである。農具のように容赦なく捨てられる自己を考えることができないことである。「高級」という妄想のしからしむるところである。

 

野心とは
スピノザ
(哲学者)
貪欲、野心、贅沢は、苦患のなかに数えられてはいないが、明らかに狂気の一種なのである。

 

唯物とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
おまへに食を保証するから、おまへの魂を売れと云ひうるか。人間の弱点を目安に築かれた原理が、生命の嘆きを癒しうるか。人間は果して人間を救ひうるか。厳密にいへば我らは悲惨な存在である。生きんがためには己が魂を売らねばならぬこともある。パン なくしては生きられない。この事実を無視することは出来ない。しかしその直視から、悲惨の原因を 「物質」 に換算し、さうすることによつて悲惨をもてあそぶことが人間に赦されるか。正に万人の弱点につけこんだのだ。「善意」 と思ひこんで為されたことが、罪悪と気づくには鋭敏な心がいる。

 

幽霊とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
深夜に、ただひとり自分の顔を鏡にうつしてみることだ。自分の顔を眺めていると、ふと異様なものが、表情の底の方あらわれることに気づくにちがいない。それは表情とはちがう。自分の最も執着し思い悩んできたものが、顔にもたらした変形作用であり、あるいはその翳(かげ)である。実はそれがあなたの幽霊なのだ。

 

理解とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
ほめられると、それが誤解からであっても、自分は理解されたと思いこむ。
けなされると、それが正しい理解からであっても、自分は誤解されたと思いこむ。

 

理想と現実とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
まず悪魔の第一の試みは、「汝もし神の子ならば、この石に命じて パン とならしめよ」 である。即ち人間にとっても切実な生活の問題、パン の問題が提出される。いかに信仰を説き、高遠な理想を語っても、今日自分たちが生きるための パン が保証されないかぎり、その一切は無意味ではないか。神の子ならば、この石を変じて パン となし、まず パン を保証せよ、それが出来ないかぎり、汝の信仰、汝の理想とは空悟にすぎないのではないかと悪魔は言う。おそらく万人の心の中ににある 「現実的な」 要求にちがいない。

 

理想と現実とは
亀井勝一郎
(文芸評論家)
人間が パン だけで生き得るものならば、どのような政治形体、あるいはどのような職業であろうと、パン が保証されるかぎり満足するだろう。口先でどれほど理想的なことを言っても、現実に与えられる パン がないかぎりは何も出来ない筈だ。(略) 飢えているときは、自分の魂と身を売ってでも パン を手に入れようとするだろう。それが現実的な態度である。悪魔のこの叫びには永遠性がある。人間の弱点としてそれは永遠なるものだ。

 

私とは
有島武郎
(小説家)
広さと幅と高さとを点は持たぬと幾何学は私に教える。私は永劫に対して私自身を点に等しいと思う。永劫の前に立つ私は何ものでもないだろう。それでも点が存在する如く私も亦永劫の中に存在する。

 



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