思想の花びら | 2012年 5月16日 |
● ヴァレリー (詩人) のことば
批評家。きわめて薄汚い子犬でも、致命傷を与え得る。つまり狂犬でありさえすればよい。
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● 亀井勝一郎 (批評家) のことば
自己形成のために社会的条件が必要であることは言うまでもないが、その社会という言葉をよく吟味して行くと一つの抽象的性質にぶつかる。なぜ抽象的かというと、社会という概念だけはもっているが、さて実質的に自分の目で見、自分の手で直接触れる範囲を考えると、それは実に狭い。自分の家族とか職場とか団体とか、そういう限られた範囲内で我々は活動している。そして、一般にひろく社会という場合には、その大部分は様々の報道機関とか書物とか映画を通して 「考えられた社会」 むしろ 「軽信された社会」 であって、その意味で私は抽象的なものとよびたいのだ。たとえば ジャーナリズム が示す社会は果して社会であるか。社会学が教える社会は果して社会であるか。そういう疑問をもてということだ。私の恐れるのは社会的観念だけで物事を見て判断して、その実質にふれることの極めて少ないことである。社会的関心は無用だと言うのではない。むしろ逆に我々が社会的関心と呼んでいるものが、果して正当に社会的関心かと自己に問うてみよと言いたいのだ。
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