思想の花びら 2018年 2月15日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  僕らの経験を探って見つかる、確固たる連続の秩序が二種ある。まず物の秩序が僕らの知覚に、一種の秩序を強いる。僕が行こうと思う道を指名するとき、同時に僕は、共存するさまざまな物のある秩序を描き、さまざまな知覚のはっきり限定されたある連続を描く。「まず小屋が見つかる、つぎに四つ角、次には標柱、やがて小道だ」。ある場所に行くには、道は一つではない。世界をかけまわるには、無数の方法がある。はっきりと定めたある物との関係なしには、共存するさまざまな物の間に前も後もないが、一度歩きだして運動の方向を定めれば、共存しているいろいろな物の秩序を同時に連続の秩序が定まってしまう。
  もう一つの連続は、世の事件の連続だ。ここでは過去になった項目は姿を消していて、二度と見つけ出すことができない。(略) ここに、連続の真理として、原因という考えが姿を現わすのだ。(略) 僕らが、経験上の運動を知覚するのは、連続の理論的な考えすなわち原因と結果との関係による。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  だから親鸞聖人の教へといふものは、人間の心のなかの、つまり人間とはなにかと問うて、人間とはかういふものだといふことを、自分の心のなかに明確に自覚しながら、さういふ自分と死ぬまで戦つて行かなければならないといふ性格を帯びざるをえないと言つていゝでせう。目に見る効果といふものを、一つも聖人は求めなかつた。絶えず心のなかの格闘を次から次へと続けて行く以外にない。(略) 煩悩具足の凡夫として、自分の心のなかの戦ひをどこまでも持続してゆく。むろん聖人の自力修行といつたものではなく、その中心に如来より賜はりたる信心といふのが、一本貫いてゐるのであります。

 


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