思想の花びら 2018年 3月 1日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  そうなると、どうやら、意識の統一というものがなければ、はっきりした部分もあり変化もある物は眼前に横たわっていまいということになる。もう一つの物とは要するにもう一つの物だが、僕というのは全体だ。逆にいえば、物の知覚がまるでなければ、主観の統一も現れない。(略) 僕は僕自身を思いだすにすぎない、また僕は物を思い出すにすぎない、物の真理だけが、僕に親しい持続の感情に意味を与える。まったく同じあんばいに、運動の心像だけが、僕が腕を延ばすときに感ずるものに意味を与えるのだから。最後に言っておくが、僕が意識をもっている以上、僕とはつねに悟性だ。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  「歎異抄」 に幸福といふ言葉は使つてをりませんが、私にとつては次の述懐こそ親鸞聖人の幸福論だと思はれるのです。「たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆゑは、自分の行もはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらうはばこそ、すかされたてまつりてといふ、後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」

 


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