思想の花びら | 2018年 6月 1日 |
● アラン (哲学者) のことば
観念なしに観察しても無駄だとは、だれでも言い、だれでも承知しているのだが、一般の人々は、観察の基準となる観念を、あまり物の遠方に探したがる、あるいは、もっと適切にいうと、機械的なお手本として、物の傍に探したがる。知覚の分析で、すでに物自身を考えによって限定する準備をしておいた。大哲学者たちがたくみに説いたように、観念は物の額縁であり、骨組であり、形式であることを述べておいたはずだ。
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● 亀井勝一郎 (批評家) のことば
正倉院の御物を拝して、その生ま生ましい悠久の美にうたれるか、それともこれは聖武帝時代のもので古い過去のものだといふ判断が来るか。要するに我々を惑はすものは、古典でなく、我々自身のとるに足らぬ思慮分別なのではなからうか。率直な驚きを我々は失つてゐる。色々な附加物に煩はされて虚心になれないのである。
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