思想の花びら | 2019年 8月 1日 |
● アラン (哲学者) のことば
僕という言葉は、現われていようが隠れていようが、僕のあらゆる思想の主格だ。現在、過去、未来にわたり、僕がなにを描こうとし、なにを作ろうとしようとも、僕が形成するものあるいは僕が保持しているものは、常に僕についてのある観念であり、同時に僕の感ずる感情である。僕は変わる、僕は老いる、僕は否定する、僕は改宗する、諸命題の主格はいつも同じ言葉だ。僕はもはや僕ではない、僕は他人だ、というようになれば、命題の自壊だ。もっと空想的なものになると、僕は二人だ、なぜなら両方とも僕という不変なものだからというようなものになる。このきわめて自然は論理から、僕は存在しないという命題は不可能になる。つまり言葉の力によって僕は不滅なわけだ。これが霊魂不滅を証明する議論の根底にあるものだ。これが、生涯を通じて常に同一な僕を僕らに見つけさせる自称経験の原文である。他人からあるいはすべてのモノから截然と区別をつけて、僕のからだや行為をみごとに表現するこの僕というささやかな言葉は、ひとたびこれを自分に対立させたり、自分から区別したり、いわば自分で自分の葬式に出かけるようなことをすると、たちまち弁証法の源が姿を現わす。
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● 亀井勝一郎 (批評家) のことば
求信の当初において我々は、選ばれた人の悟りの世界に憧れ、その教をもつてわが身を守らうとする。そして追放されたものから自分を区別して考へがちだ。けれども是は求信において誰しも一度は陥いる最も大きな錯誤なのである。(略) いつの間にか 「追放されたもの」 の存在を忘れてしまふ。少くとも己は免れつゝあるという錯誤。自己反省といふ空想の為せる業だ。人間の思慮によつて定められた善悪是非の、いかに不安定で微少なものにすぎぬかを知らうとしない。
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