思想の花びら 2019年10月 1日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  確かに ある精妙な機械は蟻なみには みごとに動くが、考えはしない。ましてや、この機械のある部分が知覚だとか、ある部分は記憶だとか感情だとかいうことはできない。すべての知覚はこの世界と同じ広がりをもっている、いたるところで感情であり、記憶であり、予想である。思想は自己の内にも外にもない。自己の外というものもまた考えられるし、内外をいっしょにしたものも常に考えられるからだ。
  これで諸君は、僕らのうちに、長い リボン のように、自我という本質をこねあげる言語のたわむれを、仮借なく審判することができるだろう。また、記憶の棚とか想像力の棚とか想像力の棚とか夢の棚とかいろいろの仕切りを設け、これによってあいまいな経験を解釈しようとする精神の生理学も、厳格に批判することができると思う。きわめて単純な学問の例によってみても、諸事実を構成するという仕事が明らかに いちばん困難なのは充分に知られたことだ。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人は奇蹟ゆゑに必ずしも彼を愛したのではない。奇蹟のない無慙な死によつて彼を愛したのである。私にはこれが人間の具現した最大の 「奇蹟」 のやうに思へる。(略)
  神のもたらす真の 「奇蹟」 はつねに凄惨である。最も深く信じ、最も美しい心をもつたものほど殉難者として苛酷な死に遭はねばならぬ。信仰ふかきものが天国に往き、浅きものが地獄へ堕ちるとは限らぬ。むしろ、その反対なのだ。

 


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