思想の花びら | 2020年 4月15日 |
● アラン (哲学者) のことば
思想の記憶というようなものはこの世にない、言葉の記憶があるだけだ。だから常に証明を新たに見つける必要がある。また、そのために疑う必要があるのだ。「苦労だけが立派なのだ」 とはある古人の言葉だ。自分の書いたものをひきずっている人々に僕は多くを望まない。ジャン・ジャック は、書き終われば、すぐ忘れることにしていた、と語っている。だが、これはおそらく、最後の判断の眼前で、すでに書かれたものはことごとく倒壊したという意味だ。それでこそ同じ粘土が、新しい像を作る役にも立ったのだ。(略) 思想の対象にはただ事物あるのみだ。そしてそれだけで充分なのだ。
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● 亀井勝一郎 (批評家) のことば
教養といふ言葉は、大正期から用ひられたもので、その以前には、修養といふ言葉が主として使はれてゐた。文化といふ言葉の前には、文明開化といふ言葉があつた。時代によつて言葉は変化し、またその時代の様々なニュアンスを帯びてゐるのは当然である。修養といふ言葉は、修身の教科書を思ひ出させ、古風な道徳を感じさせる。教養といふと、それから解放された自由な知性を感じさせる。それだけの新鮮味があつたのだが、その知性が強烈な徳性によつて支へられてゐないこと、云はば背骨の喪失が、大きな欠陥としてあらはれてゐるのではないかと私は思つてゐる。
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