思想の花びら 2023年 3月15日


 ●  アラン (哲学者) のことば

  精神の諸作品には、常に多くの弱点があるものだ。幸福そうな表情にも、偶然がたくさんまじっている。つまらぬ精神はそういうところばかり目をつける、つまらぬものはやりすごし、天才と自由との光を待つということをしない。(略) だが、名著傑作から最良部分を抜粋し、そればかりを学ぼうと、くりかえし読みたがったという、やや粗暴だが、見識あるこの人物が行ったほど遠方まではおそらく僕は行くまい。反対に、まじめな音楽家のいわゆる整調 (プレパラシオン) とか音程 (ランプリサーシュ) とかいうものが、遠くへ行かないうちにおもしろくなってしまうだろう、そういうもののなかに、僕は一種の楽しみを感ずるし、そういうものが平気で受け入れられる瞑想の立派さというものもあるのだから。思想がまだ昏睡のうちにありながら、意識界に出ようとして、単純な形式あるいは全然それに無縁の事物をすでに取り扱っているという消息を知っている者は、文体とはどういうものであるかが、ややわかっている人だ。

 



 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  それは言うまでもなく彼 (= ソクラテス) の信仰と知恵に発しているが、私がここになによりも痛感するのは、精神の豊かな活動の連続状態である。活動という概念が根本にあることである。死が深い眠りであり、熟睡の幸福として考えられるほどにも旺盛な活動を ソクラテス がつづけたことを意味しているのではないか。逞しい知的実践者によって 「想像された死」 というものがここにある。また熟睡でない場合は、彼世に遍歴して諸々の半神や賢者に逢う楽しみがある。そういう楽しみとして死が考えられている。云わば知的遍歴の連続としての死というものがここにある。
  即ち晩年の ソクラテス にとっては、死は日常化されていたと云ってもよかろう。生における熟睡と知的遍歴と、それにひとしいものとして、あるいはその延長として死が想像されている。陰惨な影は微塵もなく、むろん恐怖観念もない。改まって悟った風もなく、つまり私のいう 「活動」──その充実現象として死が考えられている。これは驚嘆すべきことである。

 


  << もどる HOME すすむ >>
  思想の花びら