2004年 2月 1日 作成 | 「基準編第9章 (言語 ゲーム)」 を読む | >> 目次に もどる |
2006年11月 1日 更新 |
この節が、拙著の中核である。 ただ、最大の論点であるにもかかわらず、たった 1ページしか記述しなかったので、なかなか、理解を得られないかもしれない。たった 1ページの記述ではあるが、第 8章まで読んでいれば、(第 8章まで、様々な数学的手法を棚卸してきて) 小生が、最終的に選んだ--使わないようにした、と言ったほうが正確かもしれないが-- (数学・哲学の) 考えかたを御理解いただけると思う。小生は、最終的に、以下の考えかたをするように至った。
(1) 関係の論理 (aRb)を、関数として扱わない。 ● コード 体系は、合意された規則である。 事業のなかで扱われる データ を対象にして 「構造」 を与える際、事業に関与している全員が理解できる伝達手段として「言語 (コード 体系)」が用意され、「規則に従う」 という実践は、「言語 (コード 体系)」 を前提にしている、というふうに小生は考えた。言い換えれば、事業に関与している人たちは、「規則 (コード 体系)」に対して私的に従うことはできない。その規則は、事業という生活様式 (言語 ゲーム) を前提にして作られている。つまり、コード 体系というのは、事業に関与している人たちが形成した (あるいは、合意した) ゲーム の規則である。
事業のなかでは、コード 体系のほかにも、自然言語が使われている。
T字形 ER手法は、当初、ウィトゲンシュタイン 氏の 「論理哲学論考」 を底本にして作られた。 小生は、ウィトゲンシュタイン 氏のいくつかの著作を、20歳頃から読んでいたので、後期の代表作 「哲学探究」 が 「論理哲学論考」 を修正した--「論理哲学論考」 のなかで述べられている概念のいくつかを打ち消した--ことを、当然、知っていた。そして、取り消された対象が 「写像理論」 であることも知っていた。しかし、小生は、「哲学探究」 を、当時、理解することができなかった。
そのために、小生は、写像理論を検討しないで、「技術として」、以下のように、真理関数の考えかたのみを対象にして、T字形 ER手法の技術を考えた。 (1)は、タイプ 理論を否認している。(2)は、「要素命題」 という概念が論点になるのだが、小生は、当時、「名辞」 および 「要素命題」 を「間違って」 把握して、名辞は entity のことをいい、「1つの主語と 1つの述語」 という単位だと思い込んでいたし、(複合概念の) 「要素命題」 は対照表と同じである、と思い込んでいた。そして、そう考えていたので、「複合命題は有限個の要素命題に解体できる」 という考えを、「1つの複文は、いくつかの単文に解体できる」 と考えて、T字形 ER手法を作った。つまり、「論理哲学論考」 を誤読していたのだが、のちのち、「誤読していたがゆえに、『要素命題』 の罠に陥らなかった」 という不幸中の幸いを得ることになった。
[ 参考 ]
そして、彼は、「像」 を以下のように考えた。
そして、彼は、命題を以下のように考えた。
したがって、言語の意味が成立するためには、事実と像は 「論理形式」 を共有していなければならないと考え、いかなる像も、有限個の真理関数として記述できる、と判断した。
ウィトゲンシュタイン 氏が 「論理哲学論考」 の間違いを気づく起点になったのは 「要素命題」 の概念であった。「要素命題」 が、具体的に、どういう モノ であるかを想像していなかった、と彼は、のちのち、言っている。 さきほど、小生は、「名辞」 および 「要素命題」 を誤解して、「名辞」 を単文 (「1つの主語と 1つの述語」 形式) として扱ったことを述べた。そして、モノ (entity) は、同じ主語に対する 「述語の連言」 であることを述べた。たとえば、「佐藤正美は男である」 と 「佐藤正美は SE である」 の連言 (佐藤正美は男であり、SE である) が 「佐藤正美」 を記述している、ということである。T字形 ER手法は、複文と単文との関係を統語論として扱っていて、意味論を導入していない。つまり、述語を意味 (内包) として考え、男の集合と SE の集合の関係 (論理積) を考えている訳ではない。
もし、「要素命題」 を名辞 (概念) の複合体として考えたら、たとえば、赤い球は、「赤」 と 「球」 から構成されている複合体である、と考えなければならないし、「球は赤い」 という事実が、「球」 と 「赤」 から構成される複合体である、と考えなければならない。
主語と主語との関係は 「関係の論理 (aRb)」 を使って記述される。T字形 ER手法は、関係 (モノ と モノ との間に成立する作用) を関数 [ R (a, b) ] として扱わないで、対照表として記述する。つまり、対照表は、モノ と モノ との間に成立する作用を記述する複合命題である(注1)。もし、その作用が 1つの管理対象とされていれば--たとえば、「色づけ (「球. 色」)」 という作業に対して管理帳票を作成していれば--、作用は、1つの モノ (entity) として認知される。つまり、「球」 も 「色」 も 「色づけ」 も、同じ レベル の管理対象となる。 「統語論」 は記号の間に成立する関係 (対象言語の構造) を扱うが、「事実-言明 (叙述文)」 の対応関係を扱う領域が 「意味論」 である。「意味論」 は、記号と対象の両方を扱い、命題の真理値に関する言明を研究する。「意味論」 を対象にすれば、単文と対応する モノとはなにか、という点が論点になる。そして、モノ と モノ の間に成立している関係が複文を構成するのか、という点が論点になる。 T字形 ER手法は、真理関数を統語論のなかで扱い、「1つの複文は、いくつかの単文の連言である」 という前提に立っている。そして、単文の主語として、或る言語 ゲーム に関与している人たちが合意した コード 体系のなかに記述されている認知番号を使っている。しかも、単文として記述される モノ の検証は、原則として、フォーマル な (監査証跡としての) 伝票(注2)を使っている。したがって、モノ に対して検証規準は成立している。 ただ、論点になるのが、モノ と モノ との間に成立する関係の検証である。T字形 ER手法は、当初、「論理哲学論考」 を底本にしていて、真理関数を統語論のなかで扱うように、T字形 ER手法の ルール を考えたが、「写像理論」 を ほったらかしにしたままであった。「論理哲学論考」 のなかで提示されている 「要素命題」 と、T字形 ER手法がいう対照表が同じなら--小生が 「論理哲学論考」 を誤読していたので、「要素命題」 と対照表は同じではないのだが--、対照表が成立する前提として、実世界の事態を観察しなければならない。すなわち、実世界の ビジネス・ルール を調べなければ、関係 (複合概念の成立) を記述することができない、ということになってしまう。
しかし、事業のなかで使われる (あるいは、伝達される) 情報には、事業のなかで、どのような モノ が管理対象になっているか、ということが記述されてあるし、モノ と モノ が、どのようにして管理されているかも記述されてある。1つの情報は、複合命題 (複文) である。複文は、いくつかの単文 (entity) に解体できる。したがって、情報のなかに記述されている単文の並びが モノ の関係を示している。情報が 「正しい」 意味 (真、あるいは信憑性が高いこと) であるためには、情報が、合意された・なんらかの検証規準を満たしていればよい。 拙著 「論理 データベース 論考」 では、関係の論理と タイプ 理論と写像理論を検討して、それらを使わないという前提に立って、T字形 ER手法は、言語 ゲーム (ことば の使いかた) を立脚点にするようになった。
(注 1) 複合命題としての対照表 |
[ 補遺 ] (2006年11月 1日)
本 エッセー は、「論考」 のなかに執筆されなかった舞台ウラの考えかたを--ウィトゲンシュタイン 哲学に関して、私が間違って理解していたこともふくめて--詳細に綴っているので、補遺はいらないでしょう。 ただ、以下の点だけは述べておきたいと思います。TM (T字形 ER手法) は、当初、RDB 向けの データ 設計法として生まれましたが、TM の体系を整える段階で、しだいに、(事業過程・管理過程のなかで使われている) 語-言語を対象にして 「『意味』 の伝達」 を記述する手法として拡張されてきました。 したがって、私は、TM が データ設計法のなかでのみ語られることを嫌っています。データ 設計法として整えた訳ではないので、ほかの データ 設計法と対比されて、どうこう言われることを私は嫌っています。TM が論点にしたのは、いま振り返ってみれば、「事業過程・管理過程を対象にして 『モデル (modeling)』 を作る」 ということは、いったい、どういうことなのか、という点なのかもしれない。
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