2005年 1月16日 作成 | 「文献編第 14章 (ウィトゲンシュタイン)」 を読む | >> 目次 (作成日順) |
2007年11月 1日 更新 |
ウィトゲンシュタイン を研究するのは、非常に むずかしい。彼は、前期と後期では、一見、180°ちがう意見を言っていて、一人の哲学者が、2つの ちがう思想を提示したので、それぞれの思想を理解するのが、むずかしいし、さらに、それらの思想のあいだを 「埋める」 関連を追跡するのが、また、むずかしい。ただし、前期と後期のいずれでも、一貫して、「認識主体の視点」 を排除している点では、同じ観点に立っているようです。 彼が、生涯、一貫して、探究した論点は、「意味」 が、どのようにして、成立するか、という点です。 前期 (「論理哲学論考」) の考えかたは、(言語と言語外現象とをむすぶ) 「写像理論」 を提示して、以下の 2点を主張しました。
(1) 命題は、真理関数である。 そして、思想は、命題として記述でき、真・偽を問える (語り得る) が、そうでない (語ることができないので、示すしかない) 事実的対象もあることを、彼は 「語って」、世上、有名になった--そして、通俗的に誤解された--以下の ことば を遺しました。 語り得ぬことについては、沈黙しなければならない。 (What we cannot speak about we must pass over in silence.) 「写像理論」 は、言語と言語外現象とのあいだには、「或る論理形式が共有されていなければならない」という考えかたです--「対応説」 と云って良いでしょう。言い換えれば、言語と事象は、論理形式を共有して、合致するはずだと考えているので、「認識主体」 という観点が抹殺されています。ただし、彼が訴えたかった点は、「語り得ぬ」 ことが主眼であって、「語り得ぬ」 ことを示すために、語り得ることを、明晰に語って、語り得ることの境界線を提示することでした。
(1) 反-私的言語論、行為論
(2) 「意思=行為」 論 「意味の対応説」 であれ、「意味の使用説」 であれ、ウィトゲンシュタイン は、「認識主体 (認識論)」 を排除している点に注意してください。 以上に述べた見解は、哲学の シロート である小生 (佐藤正美) の理解なので、哲学の専門家から観れば、ウィトゲンシュタイン の思想を外しているかもしれない、、、。ただ、小生は、ウィトゲンシュタイン を、30年近くに及んで読んできたので、そうそう、外れてはいない、と自負しているのですが。 さて、ウィトゲンシュタイン を読むとなれば、「原典 (翻訳ですが)」 として、以下の 2冊を、まず、記載しなければならないでしょうね。
● 論理哲学論考、藤本隆志・坂井秀寿 訳、法政大学出版局 ● 「哲学探究」 読解、黒崎 宏 訳・解説、産業図書
「論考」 と 「探究」 には、いくつかの翻訳が出版されていますので、以上に記載した訳にかぎらないで--どの訳本も、第一級の研究家たちが訳していらっしゃるので--、どれでも、良い、と思います。
したがって、そういう欲求が起こらないのであれば、(誤解を恐れずに言うなら、) ウィトゲンシュタイン の 「原典」 を読まないほうが良い、と思います。へたに手を出したら、ウィトゲンシュタイン を理解したように装って、「意味深長な」 言説まがいを述べ立てるか、あるいは、逆に、彼が綴った とりとめのない断章を読んで、頭が混乱して、「体系立った ソリューション を提示しない」 彼の考えかたに対して嫌気を感じるでしょうね。 小生は、彼が言った ことば のなかで、以下の ことば を気に入っています。 「凝視せよ」 さて、観るためには、あらかじめ、我々の認識が前提になります。言い換えれば、あらかじめ、なんらかの 「知識」 がなければ、事実的対象を観ることができない。では、その認識力は、どのようにして、形成されたのでしょうか。それは、「あなたの」 認識力でしょうか。認識力が、認識として成立することは、どのように示されるのでしょうか。 □ |
[ 補遺 ] (2007年11月 1日)
ウィトゲンシュタイン の哲学に関しては、本 ホームページ のあちこちで述べているので--「本 サイト 内検索 (powered by Google)」 を使って、「ウィトゲンシュタイン」 を キーワード にして調べてみてください--、ここで、改めて、なんらかの コメント を綴らなくても良いでしょう。「本 ホームページ のあちこちで」 と綴ったように、かれの哲学は、私に対して、多大な影響を及ぼしました--特に、30才後半から今 (54才) に至るまで、私の考えかたは、かれの哲学を中核にして形作られたと言っても誇張にはならないでしょうね。そして、その実りのひとつが TM (T字形 ER手法) です。もし、TM を私の人生のなかから除去すれば、私の人生は、みすぼらしい人生だったでしょう、きっと。拙著 「論理 データベース 論考」 は、かれの後期哲学 (言語 ゲーム [ 意味の使用説 ]) を確認するために執筆されたと想像していただいても、あながち、逸 (はず) れてはいない。 哲学書は難解なので、3回くらい読んでも、なかなか、理解できないのですが、特に、ウィトゲンシュタイン の著作は難解です。「論理哲学論考」 は、アフォリズム 風に綴られているので、読み手のほうでも、そうとうに哲学・論理学の知識を習得していなければ読みこなすことができないでしょうね。それでも、「論理哲学論考」 は、最後の一文に向かって結実するように、それぞれの文が 「構成」 されているのですが、「哲学探究」 は、「構成」 されていないので--読み手が理解しやすような・「ひとつの ソリューション に向かって それぞれの パラグラフ を構成する」 という作文法に従っていないので--、もし、「論理哲学論考」 を読んで整然とした文脈を辿ることに慣れていたら、「哲学探究」 を読んでも戸惑うでしょう (「哲学探究」 を初めて読んだときの私が、そうでした)。しかし、「哲学探究」 は、ウィトゲンシュタイン の思考が 「生々しく」 刻まれている書物です--日記とか ドキュメンタリー と言ってもいいような書物です。かれは、病的なほどの素直さのために変人扱いされてきましたが、かれの考えかたは、高慢でもなければ、ニヒリズム でもない、と私は思います。ただ、知力をふりしぼった思考が 明けっぱなしになっているだけなのではないでしょうか。 もし、哲学が、問題点を明晰に定立する意識・思考を育 (はぐく) む学問であるならば、哲学者の著作を、ぜひとも読むべきでしょうね。私は、ウィトゲンシュタイン を愛読してきましたが、ウィトゲンシュタイン に限らず、歴史に名を遺した哲学者のなかから、じぶんの気質にあう哲学者を選んで--じぶんの気質にあう哲学者を探すためには、「乱読」 もしなければならないのですが--、じっくりと読み込んで下さい。その哲学者が 2,000年以上も昔の人物であっても、勿論、宜しい。というのは、われわれは、古代 ギリシア の哲学者たちに比べて、科学知識を豊富に習得しているでしょうが、「問題点の明晰な定立化」 という意識・思考では、かれらの足もとにも及ばないでしょうから。 |
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