数学基礎論 (上級編) | >> 目次 (テーマ ごと) |
中級編までの文献を読んで、数学基礎論の一通りの知識を得たら、いよいよ、「原典」を直接に読む段階が上級編である。再度、警告するが、中級編の文献を理解できないなら、上級編の文献を読んではいけない。 |
[ 読みかた ] (2006年 1月 1日)
述語論理に関する書物と集合論に関する書物を記載しました。論理学・数学の専門家から観れば、専門家になるための学習起点として、もっと、ほかの書物を対象しなければならないのでしょうが、論理学・数学の シロート にすれば、以下に記載した書物を読むのが精一杯でしょうね。 ここでいう 「上級編」 という意味は、論理学・数学の専門的な研究を進めるための指標ではなくて--そもそも、論理学・数学の シロート たるぼくが、専門家向けのそういう研究書を選ぶことなどできないし--、論理学・数学の基礎知識を学習した人が、記号論理学 (述語論理) ・集合論 を作った 「原典」 (翻訳ですが) を読むことを指しています。 論理学・数学を専門にしていない人たちが、それらの領域の文献を読む時間的余裕がないのであれば、以下に記載した書物のなかで、述語論理の書物 (フレーケ゛ の 「概念記法」、ヒルヘ゛ルト の 「記号論理学の基礎」、ラッセル・ホワイトヘット゛ の 「PM 序論」) を読んで下さい。数学の書物は省いても良いでしょう。 |
▼ 記号論理学の原典として、以下の 3冊を読めばよいでしょう。
● 概念記法、フレーケ゛ 著、藤村龍雄 編、勁草書房 ● 記号論理学の基礎、ヒルヘ゛ルト・アッケルマン 共著、石本 新・竹尾治一郎 共訳、大阪教育図書 ● フ゜リンキヒ゜ア・マテマティカ 序論、ホワイトヘット゛・ラッセル 共著、岡本賢吾 他訳、哲学書房 |
フ゜リンキヒ゜ア・マテマティカ の序論を翻訳してある。フ゜リンキヒ゜ア・マテマティカ (PM と略称される) は、原文 (英語) では 1,000頁に及ぶ大著なので、数学の専門家でない われわれが読み通すのは無理だと思うが、「序論」 を読めば、PM の根底にある考え方は理解できる。
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[ 読みかた ] (2006年 1月 1日)
以上に記載した書物は、いずれも、述語論理を確立した 「元祖」 としての文献です。前回まで記載した (中級編までの) 書物を読んでいれば、以上の書物を読むのは、意外に苦労しないでしょう。それぞれの書物で使われている記法は、現代、一般に使われている記法と相違しているので--ヒルヘ゛ルト の記法は、現代の記法に近いのですが--、読みにくいかもしれないですが、中味は、すでに、学習したことの確認になるでしょう。だから、述語論理を、はじめて学習した頃の苦労に比べたら、これらの 「原典」 を読むのは、それほど苦労しないでしょう。
フレーケ゛ (Friedrich Ludwig Gottlob Frege) は、現代の命題計算 (一階述語計算) のほぼ完全な体系を構成して--「主語-述語」 を関数として扱い、対象を変項として扱う記号論理体系を構成して--、アリストテレス 以来の伝統論理学をはじめて超える論理学を 「概念記法」 (1879年) として提示しました。かれは、「意味と意義」 を切り離して、「意味」 は指示対象のことをいい、「意義」 は対象の記述のことであるとして、記号に付着した (個人的な恣意性を帯びた) 「心象」 と 「意味と意義」 を区別しました。そして、「言語」 に関する考えかたとして、言語使用を人間的行為としてとらえて、記号の 「意味」 と記号が指示する 「対象」 を区別する意味論を提示しました。かれの言語観は、現代の言語理論の起点になって、ウィトケ゛ンシュタイン に多大な影響を与えました。 ヒルヘ゛ルト が提示した述語論理の公理系は、(かれの姓名の頭文字を使って) H と略称され、ラッセル と ホワイトヘット゛ が フ゜リンキヒ゜ア・マテマティカ のなかで提示した公理系は (かれらの著作の頭文字を使って) PM と略称されることが多い。
ラッセル (Bertrand Arthur William Russell) の思想は、紆余曲折しているので、まとめるのが難しいのですが、以下の諸点が特徴とされています。 記述理論というのは、主格の表示句を述語化することを云います。すなわち、変項という概念を基礎にして、C (x) は x を変項とする命題 (関数) とし、「C (x) は、つねに、真である」 と 「C(x) は、あるときには、真である」 という 2つの概念を導入して、everything・nothing・something を記述します。指示対象、記述および直知に関しては、論理的な意味において、「名指し」 として用いられる語は、「これ」 とか 「あれ」 といった語だけであり、対象を知るのは表示句によってしかないのであって、われわれは、そういう対象を直に知っているのではなくて、しかじかの性質を持つ対象として知っているという考えかたです。そして、論理的原子というのは、個体や述語や関係を云い、論理的に完全な言語では、単純な対象には 1つの語があてられて、単純でない対象は語の結合によって記述されるという考えかたです。 かれは、ヘ゜アノ と フレーケ゛ の業績に触発されて新しい数理論理学を構想し、数学 (解析学) を論理学に還元しようとしました。その成果は 「数学の諸原理」 (1903年) として提示されましたが,その出版直前に集合論 (カントール が提示した素朴集合論) のなかに ハ゜ラト゛ックス--いわゆる 「ラッセル の ハ゜ラト゛ックス」 と云われていますが--を発見しました (1901年)。「ラッセル の ハ゜ラト゛ックス」 は、論理学・数学基礎論 (現代集合論)・意味論の動向に大きな影響を及ぼしました。ラッセル 自身は、この ハ゜ラト゛ックス を 「タイフ゜ 理論」 を作って除去しました (1908年)。また、師 A. N. ホワイトヘット゛ といっしょに 「フ゜リンキヒ゜ア・マテマティカ」 (1910‐13年) を著して、数学を論理学に還元する 「論理主義」 の金字塔を建てました。「フ゜リンキヒ゜ア・マテマティカ」 は、当時、(ウィトケ゛ンシュタイン の 「論理哲学論考」 とともに、) 「論理実証主義」 を謳った ウィーン 学団 の ハ゛イフ゛ル (指導書) となりました。ただ、ウィトケ゛ンシュタイン は、ウィーン 学団の考えかたに賛同していなかったし--寧ろ、疑問視していたし--、また、ウィーン 学団が、ホワイトヘット゛ の形而上学を正当に理解していたかどうかという点は疑問だと思います。 ヒルヘ゛ルト (David Hilbert) は、19世紀の終りから 20世紀前半にかけて、数学の進歩を指導した天才数学者の 1人であったと評価されています。かれの数学観は、「形式主義」 と云われているように、数学全般に特有の 「純粋な論理」 の追究と、方法の単一化を基底にしています。ぼくは、数学を専門にしていないので、かれの数学的業績を知らないのですが、かれが、幾何学基礎論では、ユークリッド幾何学の完全な公理系を与えて、物を 「無定義語」 として扱うことを示したことや、1900年に ハ゜リ で開催された国際数学者会議で、「数学の問題」 と題する講演を行って、数学研究の目標となるべき 「23の問題 (いわゆる 「ヒルヘ゛ルト の フ゜ロク゛ラム」) 」 を提示したことを、ぼくは シロート なりに知っています。そして、かれが、晩年には、数学の無矛盾性を問題とする数学基礎論に没頭したことも知っています。実際、ぼくは、後述する (かれの著作--ヘ゛ルナイス との著作ですが--) 「数学の基礎」 を読んでいて、かれらが、「ε-記号」 と 「ε-定理 (第1定理と第2定理)」 を使って、論理式の 「次数と階数」 を除去して--除去可能性を論証して--導出を扱い、形式的体系の推論図式を有限回の手続きの中で確立して無矛盾性を証明しようとしたことを、ぼくは知っています。ただ、この試みは、ケ゛ーテ゛ル が 「不完全性定理」 を示したので、実現できないことが証明されましたが。
数学観から云えば、ラッセル・ホワイトヘット゛ のやりかたは 「論理主義」 と云われ、ヒルヘ゛ルト のやりかたは 「形式主義」 と云われていますが--さらに、フ゛ラウワ- の 「直観主義」 もありますが--、ヒルヘ゛ルト は、ラッセル が提示した 「タイフ゜ 理論」 に関して、「取って付けたような 『無限の公理』 『還元の公理』 などいらない」 と言っています。ちなみに、数学上は、当時、形式主義と直観主義が、10年以上に及ぶ論争を交わしたそうです。
(1) 有限回の手続きの中で、無矛盾性の証明を保全する。 |
▼ 「数」・集合論・公理系の考えかたとして、以下の文献をお薦めします。 ● 数について、テ゛ーテ゛キント 著、川野伊三郎 訳、岩波文庫
● 数の概念について、ヘ゜アノ 著、小野勝次・梅沢敏郎 共訳、共立出版 ● 超限集合論、カントル 著、功力金二朗・村田 全 共訳、共立出版 ● 数学の基礎、ヒルヘ゛ルト・ヘ゛ルナイス 共著、吉田夏彦・渕野 昌 共訳、シュフ゜リンカ゛ー・フェアラーク 東京 |
[ 読みかた ] (2006年 1月 1日)
以上に記載した書物は、数学 (「無限」 や連続体のほうを重視する) として読むか、哲学 (「無限」 の考えかた) として読むか、論理式を公理系との関係のなかで読むか、という観点によって、読みかたの力点がちがってくるかもしれないですね。数学のほうに向かわないのであれば、ヒルヘ゛ルト の 「数学の基礎」 のみ読んで、ほかの書物を読まなくても良いでしょう。あるいは、ケ゛ーテ゛ル の 「不完全定理」 を読まないのであれば、ヒルヘ゛ルト の 「数学の基礎」 も読まなくても良いでしょうね。
「超限」 は 「無限」 ということです。 集合論を学習する際、まず、注意しなければならない点は、「集合の包含・被包含関係と濃度の大小は、べつの概念である」 という点です。濃度は、(専門的な定義を度外視すれば、) 「基数 (メンハ゛ー の数)」 と思って良いでしょう。たとえば、以下を考えてみましょう。
(1) (ゼロと) 自然数の前提を N とすれば、N = {0, 1, 2, ...} である。 N と N0 と N1 は (「無限」 ですから)、それぞれ、対応 (写像) が双射になります。
N = {0, 1, 2, 3, ...}.
双射というのは、「同数」 ということです。双射の同数のことを 「同濃度」 と云います。つまり、自然数も偶数も奇数も 「同濃度」 ということです。濃度を Card として記述すれば、Card (N) = Card (N0) = Card (N1). でも、包摂関係では、N ⊃ N0, N1. Card (R) = Card (R2). さて、自然数と偶数と奇数が、どうして、同濃度になるかといえば、それぞれ、「無限」 に、「後続」 が起こるからです。「後続」 を S として記述すれば、たとえば、1 と 2 は、以下のように記述できるでしょう。
1 = S0.
この からくり を公理系 (自然数の公理系) として整えた人物が ヘ゜アノ です。
0 = φ.
「基数」 および 「序数」 は、集合論的には、「集める」 および 「並べる」 を示す基本概念です。
「ラッセル の ハ゜ラト゛ックス」 が出て、「集合の全体 (すべての集合を ひとまとめにした集合) を集合と云ってはいけない」 ことになりました。そのために、集合が あまり大きくならないように、集合を作るやりかたが 「公理」 として扱われるようになりました。それを 「公理的集合論」 と云います。ツェルメロ は、「ひとまとめにした集合」 を考える代わりに、{x ∈ a | A (x)} の形を集合とするように提示しました。すなわち、もう 1つの集合 (集合 a) を作って、あまりに大きくならない集合 (a よりも小さい集合) を導入しました。つまり、安全規準を導入したのです。この安全規準 {x ∈ a | A (x)} を分出公理と云います (「内包の公理」 とか 「部分集合の公理」 とも云います)。そして、そういうふうに作られた集合を セット と云います。ただし、分出公理のみでは、たとえば、2つの集合があって、その 2つの集合を メンハ゛ー とする集合を作ることができないし、a ∪ b の和集合も導かれないので、そういういくつかの ルール (9つのルール) を加味して公理化して、どのようなまとまりを集合というかを提示しました。それらの ルール のなかには、自然数の全体を集合とすることも認めています。なお、それらの ルール の 1つを、フレンケル が変更したので、ツェルメロ と フレンケル のそれぞれの頭文字を使って、「ZF の公理系」 というふうに云われています。
(1) 等号 (=) をふくむ第1階の述語論理を使って形式化されている。 ZF は分出公理を起点にしていますので、{u | A (u) } の存在は、ZF の公理では得られない。{u | A (u) } を ZF の セット 概念と区別して、クラス と云います。A (u) を任意の集合論的論理式とするとき、以下を公理に加えます。 ∃X∀u {u ∈ X ≡ A (u) }.
つまり、「セット 以外の補集合全体」 を集合とする セット は存在しないけれど、そういう クラス は存在するということです。 ぼくは、ZF の公理系を使うので、BG の公理系を詳細には知らない。ただ、数学の専門家によれば、ZF で証明される論理式は BG で証明されるし、BG で証明される集合論的論理式は ZF で証明されるとのことです。 |
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