2001年 7月11日 作成 複文 と 単文 >> 目次 (テーマごと)
2006年 9月16日 補遺  



 「帰納的 (recursive) 定義」 は数学の証明のなかで使われるやりかたである。たとえば、命題論理の論理式は、以下のように帰納的に定義される。

 (1) 命題変 項 p, q, r, ...は論理式である。
 (2) p が論理式であれば、¬p も論理式である。
 (3) p および q が論理式であれば、 p ∨ q は論理式である。

 この帰納的定義は、無限個の文を含む言語にも適用される。
 命題論理では、「いかなる複合命題 (複文) も、有限個の要素命題 (単文) に解体でき」、「真理値表」 を使って、複合命題が真 (あるいは偽) であることを検証する手続きが用意されている。

 しかし、無限個の文を扱う言語では、量化記号を導入することになるが、量化記号を導入すれば、「複文は単文の合成物である」 ということが成立しないこともある。たとえば、全称記号(∀、「すべての」 という 意味) と存在記号(∃、「いくつか、存在する」 という意味) を併用した以下の文を作る。

 (1) ∀x F (x)、すべての x は 性質 F をもつ。
 (2) ∃x G (x)、性質 G をもつ x が存在する。
 (3) ∀x F (x) ∨ ∃x G (x)、再帰的定義によれば、この複合文も文である。

 以下の文を作る。

   ∀x ∃y [ F (x) ∨ G (y) ].

 文 {∀x ∃y [ F (x) ∨ G (y) ] } は、文 [∀x F (x) ∨ ∃x G (x)] と、全然、構造がちがう。文 {∀x ∃y [ F (x) ∨ G (y)] } は、(文関数に対して量化記号を適用しているので)有限個の単文に解体できない。すべての量化記号が、他のすべての論理式の外側 (冠頭) に置かれている形の術語を 「冠頭標準形」 という。

 任意の術語は冠頭標準形として表現することができ、数学の証明のなかで、多々、使われる (*)。たとえば、以下の論理式を証明する。

 ∃x P (x) ⇒ A = ∀x [ P (x) ⇒ A].(ただし、A は自由変項を含まない。)
 ∃x P (x) ⇒ A = ¬∃x P (x) ∨ A = ∀x ¬ P (x) ∨ A = ∀x [¬P (x) ∨ A ] = ∀x [ P (x) ⇒ A ].

 量化記号を含んだ文の証明には、一定の証明手続きはない。個々に証明するしかない。
 さて、「術語の量化」 を考えていただきたい。例えば、∀x P (x) が、恒真であるとして--たとえば、P を 「死ぬ ( 寿命がある)」 という性質を想像すれば--∀P ∀x P (x) の省略形であるとすれば、その否定形 (¬ [∀x P ∀x P (x) ]) は、以下のいずれを意味しているのか?

 (1) ∀P ¬[ ∀x P (x) ].
 (2) ∃P ¬[∀x P (x) ].

 
(*) 「記号論理学の基礎」 (ヒルベルト と アッケルマン の共著) では、この考えかたを使って--正確に言えば、「ε-記号」 と 「ε-定理 (『第 1 ε-定理』 と 『第 2 ε-定理』)」を使って --、論理式の 「次数」 と 「階数」 を除去しながら (除去の可能性を論証しながら)、導出を扱い、有限回の手続きのなかで無矛盾性を証明しようとした。だが、ゲーデル は ヒルベルト のやりかたでは 「数学の完全性を証明できない」 ことを証明した(いわゆる 「 不完全性定理」)。□

 



[ 補遺 ] (2006年 9月16日)

 私は、数学の専門家ではないので、いわゆる 「純粋数学」 の 「公準」 を述べることはできないが、数学を応用した 「仮説演繹法」 では、「仮説と判断」 が検討事項となる。すなわち、「仮説-検証」 の モデル は、モノ (現実) と接する最初の段階および最終の段階では、蓋然的推論が適用され、その中間の段階では演繹的推論が適用される。蓋然的推論を 「意味論」 といい、演繹的推論を 「構文論」 といっても良い (拙著 「論理 データベース 論考」 27ページ 参照)。

 言い換えれば、蓋然的推論では、「命題 (判断)」 は、たとえば、「真理値表」 を使って、真・偽を検証される。ただし、真理値表を作成するのが数学ではない。前述したように、私は、数学の専門家ではないので、数学全体の構成を述べるほどの知識はないが、少なくとも、数学基礎論 (現代集合論) に限っていえば、以下の領域から構成されると云ってよい。

 (1) 証明論 (形式的公理系の無矛盾性を証明する)
 (2) モデル の理論 (形式的公理系の解釈を扱う)
 (3) 帰納的関数の理論 (計算可能関数を扱う)
 (4) 公理的集合論 (集合論を形式的公理系として扱う)

 「数学の哲学」 が争点になった 20世紀初頭に、ウィーン 学団 (Wiener Kreist) は、ウィトゲンシュタイン の 「論理哲学論考」 を バイブル にして、「検証主義 (検証可能性)」 を謳った。しかしながら、検証可能性は、以下の理由のために、経験的意味規準として妥当でないことを、ヘンペル (Hempel, C.G.)が指摘した。(参考)

  (1) 制約が強すぎる。
  (2) 包括的になり過ぎる。
  (3) 論理的同値が成立しなくなる。

 「制約が強すぎる」 という意味は、全称形式の文--「∀ (すべての)」 を使った文--を排除してしまう、ということである。つまり、一般法則の言明を排除してしまう。また、全称の量化記号と存在の量化記号が構成する文を、経験的に、意味のない言明にしてしまう。たとえば、「すべての物質には、或る溶媒がある」 のような文が、経験的には、意味のない言明になってしまう。
 「包括的になり過ぎる」 という意味は、経験的に有意味な文 (S) と経験的に無意味な文 (N) が、「選言 (S または N、記号的には、S ∨ N)」 として言明されたら、(2値論理の) 真理値表では、「T (true) ∨ F (false)」 は、「T」 とされるので、) 「真」 となる。
 さらに、経験的に有意味な文、たとえば、∃x P (x)--性質 P をもつ モノ が、少なくとも 1つ存在する、という文--は、経験的に検証できるが、その否定文は、(ド・モルガン の法則に従えば、) 全称文になるので--すなわち、∀x ¬P (x) となるので--経験的に検証できない。しかし、∃x P (x) と ∀x ¬P (x) は、論理的に 「同値」 とされているので、経験的に有意味な文の否定文が、--恒真でも恒偽でもないにもかかわらず--経験的に無意味な文になってしまう。とすれば、経験論的には、「同値」 が認められないことになってしまう。
 したがって、検証可能性 (経験的な テスト 可能性) は、経験論的意味規準として、適切ではない。ちなみに、反証可能性も、検証可能性と同じように、適切ではないことを、ヘンペル は論証している。

 ウィトゲンシュタイン は、(「論理哲学論考」 に示された) 前期哲学から (「哲学探究」 で示された) 後期哲学に移る過程で、一時、ウィーン 学団の主張した 「検証可能性」 を採用したことがあったが、すぐに、その考えかたから離れて、「文法」 を重視した 「言語 ゲーム」 を着想した。

 本 エッセーのなかで述べたこと (帰納的関数および量化記号) を TM (T字形 ER手法) は、(「帰納的関数」 を応用した 「再帰」 構造を除いて) 直接、採用していない。ただ、数理 モデル では、「すべての」 という対象を外す訳にはいかないので、本 エッセー では、演繹的推論 (構文論) の前提として、量化記号を説明した。

 
(参考1)
 カール・G・ヘンペル (竹尾治一郎・山川 学 訳)、「意味の経験論的基準における問題と変遷」。
 この論文は、「現代哲学基本論文集T」、坂本百大 編、勁草書房に収録されている。




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