2004年 7月 1日 作成 | 外的性質 と 内的性質 | >> 目次 (テーマ ごと) |
2008年 8月 1日 補遺 |
私は、「性質」 に関して、そうとうに、悩んできました。というのは、T字形 ER手法を着想して以来、「(性質が) 帰属する」 という概念を、的確に示すことができなくて苦しんでいました。 以来、10年に及んで、「性質が帰属する」 ということは、どういうことなのか、という疑問点を抱いていたのですが、どの文献を読んでも、的確な記述がなかった。記述があったとしても、せいぜい、(記述の形式として集合論を使って、) 性質を {{a, b, c, ・・・}, {α, β, γ, ・・・}}として記述して、「それを取り除いたら、モノ が成立しない属性 ({a, b, c, ・・・})」 が、「帰属する性質」 であり、それ以外──たぶん、ほかの モノ との関係のなかで──成立する性質 ({α, β, γ, ・・・}) は、帰属する性質ではない、という程度の説明しかなかった。 「性質」 といえば、哲学上、アリストテレス が提示した 「質料」 という観点から説明されるのが常です。「ベーシックス」 (312 ページ) のなかで、私は、「実体-属性」 論を非難しています。というのは、「性質」 を 「質料」 の観点から説明すれば、モノ とはなにか、ということを的確に定義できないので、ついには、「実体 (本質)」 などという概念を援用しなければならない──その究極の形が、(ライプニッツ が提示した) モナド でしょうね。 で、私は、「性質」 が、数学では、どのように扱われているか、という点を調べたのですが、まず、「述語」 と 「性質」 が違うことを知りました。
単項述語論理 [ f (x) ] では、「主語-述語」 の形式ですから、「性質」 は 「述語」 と同じである、と考えてもよいでしょうね。でも、多項述語論理 [ f (x, y) ] では、「述語」 は、モノ の 「関係」 を記述するので、「述語」 が 「性質」 にはならない。したがって、「述語」 と 「性質」 は違うという点を、まず、理解しました。「述語」 は、「性質」 として考えるよりも、単純に (技術的に)、「関数」 と考えたほうがよい、と私は思っています。 「性質」 のみを対象にすれば、「モノ を構成している 『自然的な』 性質」 と 「『抽象的な』 集合を作るために使う 『述語 (性質)』」 とを私は切り離しています。
このとき、「自然的な」 性質という概念を定義しなければならない。しかし、「自然的な」 性質を定義しようとすれば、無限後退に陥ることになるでしょう。たとえば、(ホームページ のなかで、以前、記述しましたが──「反コンピュータ的断章」 2003年11月28日、) 「鳥」 として存在するための 「自然的な」 性質を記述しようと思っても非常にむずかしいでしょうね。 従業員を例にすれば、「従業員」 という集合と、「入社している人たち」 の集合の関係を考えれば、以下の因果律が成立します。 入社している (x) → 従業員である (y). そして、この 2つの集合の濃度 (基数、データ 件数) は、同じでしょう。数学では、「入社した人たちが、従業員になる」 などという 「意味」 を考えることはしない。しかも、濃度だけではなくて、2つの集合を構成している メンバー も同じです。以上の 2つの集合について、濃度と メンバー が同じであれば──つまり、2つは同じ集合である、ということですが──、従業員のなかに、「入社日」 があってもよい、ということになりますね。したがって、従業員を構成する メンバー を対象にすれば、入社日は、「述語」 として考えてもよい、ということになります。つまり、「抽象的な集合を作る条件」 として使った 「述語」 が、「外的性質」 です。
いっぽう、T字形 ER手法は、モノ を 2つの クラス (「resource」 と 「event」) に切り離して考えています。
系列を作る モノ は、「出来事」 のことです──この 「出来事」 は、私のいう 「event」 ではない点に注意してください。
そして、モノ が 「出来事」 に対して関与するのですが──ホワイトヘッド 氏は、「関与」 という用語ではなくて、「侵入」 という用語を使っていますが──、モノ には、以下の 4つがある。 (1) が 「resource」、(2) が 「event」 です──(3) は、「resource」 であったり、モノ の 「性質」 であったりします。 T字形 ER手法では、まず、モノ に帰属する 「性質」 と、「関係」 とを切り離しました──そして、「述語」 という用語を、モノ の「性質」 を記述するための用語法に限定して、「関係」 を 「述語」 とは言わないようにしました。そうして、「主語-述語」 形式のなかで、「述語」 を 「性質」 として記述するようにしました。
次に、「性質」 が、モノ に 「帰属する」 かどうか、という点を、言語の使用法を使って判断するようにしました。つまり、「entity 名称. 性質」 という判断規準を使うようにしました。 当然ながら、「言語の使用法が、科学的な理論と、かならずしも、同じにならないことが起こる」 という反論もあるでしょうね。ただ、たとえば、「色」 を考えてみればいいでしょう。「色」 は、物体色にしても、構造色にしても、「かならず」、モノ に着いています──自然的な性質として、「無色」 の モノ はない。もし、科学的な理論を使って 「性質」 を記述するのなら、「すべての」 モノ には、「性質」 として、「色」 が帰属していなければならない。 言い換えれば、モノ を、いかにして、認知して、モノ と モノ との関係を、いかにして、認知しているか、という点は、それぞれの企業の考えかた次第ということです。その 「モノ の見かた」 をあぶり出すのが、T字形 ER手法です。
したがって、T字形 ER手法では、「自然な性質」 は、言語の使用法を判断規準にして、かくかくの企業が、モノ をしかじかのように観ている、というふうに記述する手法です。そして、モノ に帰属すると判断して、そういうふうに言語的に記述されている 「性質」 を 「内的性質」 として扱っています。
(1) 外的性質とは、抽象的な集合を作るために使った条件 「性質」 に関する以上の考えかたを得るまで、私が手間取った理由は、ウィトゲンシュタイン 氏の 「論理哲学論考」 に惑わされていたからです。「論理哲学論考」 は、「写像理論」 と 「真理関数」 の 2つが、基本的な テーゼ なのですが──T字形 ER手法は、「真理関数」 の考えかた (主選言標準形、あるいは、真理値表) を継承しましたが、当初 (T字形 ER手法を作った際)、「写像理論」 を、とことん検討していなかった。せいぜい、「言語は、現実の世界を写像している」 という程度の意味のまま、検討していなかった。 ところが、「関係」 を記述する際、「写像理論」 が足かせになった。というのは、もし、「写像理論」 を前提にするのなら、「関係」 は、ビジネス・ルール の 「すべて」 を理解しなければ、記述することができないから。 「写像理論」 では、現実の事態と、論理的な (形式的な) 構造の間には、「或る共有形式」 がある、という前提を ウィトゲンシュタイン 氏は、提示していました──当然、この 「奇妙な」 考えかたは、後々、「哲学探究」 のなかで否定されることになりました。
現実の事態と形式的な構造には、「或る共有形式」 が成立しているという考えかたをすれば、「内的な秩序」 を仮想することになるので、ウィトゲンシュタイン 氏は、その 「共有形式」 を作る性質のことを 「内的特徴」 と言っていました。 「内的特徴 (論理的な共有形式) と 外的特徴 (モノ の自然的な性質)」 は、さきほど記述した 「外的性質 (抽象的な集合を作る条件) と 内的性質 (モノ の自然的な性質)」 とは、まったく、「逆の」 言いかたですね。 私は、最近まで、これらの概念を、的確に整理することができていなかったので、「性質」 に関して、的確な記述をすることが、最近まで、できなかった (苦笑)。私の ホームページ は、最近の 2ヶ月のあいだ、ホワイトヘッド 氏の考えかたを、さかんに取り扱っています。その理由は、「性質」 を的確に整理するためでした。 |
[ 補遺 ] (2008年 8月 1日)
「『内的特徴 (論理的な共有形式)』 と 『外的特徴 (モノ の自然な性質)』」 は、ウィトゲンシュタイン 哲学を理解するときに、中核概念の一つではないか、と私は判断しています。かれの前期哲学の代表作 「論理哲学論考」 は 「内的特徴」 を示そうとした著作ですが、かれの後期哲学の代表作 「哲学探究」 では、「内的特徴」 を、あくまで、ロジック の規約 (約束事) であって、「外的特徴」 を 「言語の使いかた」 のなかで 「意味 (meaning)」 として示そうとしている、と私は理解しています。「哲学探究」 は、「観念」 を 「意味」 に置き換えた西洋哲学の転換点ではないかしら──私は、哲学の専門家ではないので、哲学史を丁寧に研究していないので、そういうふうに推測するのは シロート の浅見かもしれないのですが、たとえ、ウィトゲンシュタイン 以前に、哲学の争点を 「観念」 から 「言語 (あるいは、意味)」 に移そうとした哲学者がいたとしても、「哲学探究」 ほどに徹底的な検討をした著作はないのではないかしら。 さて、本 エッセー は、長い文章になっていて、いま読み返してみて、私の 「悩み・迷い」 を吐露している文章ですね。本 エッセー を綴ってから 4年がたちました。「内的性質と外的性質」 に関して、私は、いま、いわゆる 「チューリング・テスト」 に対して興味を抱いています (「チューリング・テスト」 に関して、チューリング の原文を丁寧に読もうとしています)。「チューリング・テスト」 について述べ始めると長い補遺になってしまうので割愛しますが、「チューリング・テスト」 は、認知科学の領域で テーマ になっているので、認知科学の書物を調べてみてください。 本 エッセー を綴ったあと、私は、「性質」 に関して、内包的に、「クラス」 [ すなわち、概念 f (x) ] と同義に使ったり、もし、外延があれば、「セット」 と同義に使ったりして──したがって、「クラス」 が 「クラス」 を構成員としてもつのであれば 「セット」 と同値なので、「性質」 も 「クラス」 も 「セット」 も、ほとんど同義に使っていて──、「性質」 の定義に拘泥しなくなりました。さらに、f (x) を 「概念」 とし、f (x, y) を 「構成」 として考えて、どちらかと言えば、「構成」 のなかで、文が 「真」 であるかどうかという点を重視するようになりました。言い換えれば、フレーゲ の 「意味 (sense)」 [ すなわち、指示規則 ] や、タルスキー の 「真理条件」 [ すなわち、「規約 T」 ] を重視するようになりました。 では、ウィトゲンシュタイン の後期哲学を捨てたのかと言われれば、そうではなくて、ウィトゲンシュタイン の考えかたは、モデル を作るときに、一番最初に使っています。すなわち、「個体の認知」 という行為のなかで、ウィトゲンシュタイン が示した 「言語 ゲーム」 (「意味」 は、ことば の使いかたのなかで示されて、ことば の使いかた [ 意味 ] は、生活様式に根ざしていること) を導入しています。 私は、「意味 (meaning)」 とか 「解釈 (interpretation)」 という厄介な概念を できるかぎり 避けて、「文法」 に従って構成された文が 「真 (事実的な 『F-真』)」 であるかどうかという点を重視するようにしています。この点では、「関係主義」 的な接近法を使っているのですが、文法を適用する対象 (語、あるいは項) を認知する際に、「同意された認知」 を重視して、まず、「個体 (あるいは、語とか項)」 を認知して──ただし、前述したように、モデル の対象領域 (domain、universe) に関与している人たちが 「同意した認知」 でなければならないのですが──、「個体 (あるいは、語とか項)」 に対して 「文法」 を適用して 「文」 を作って──すなわち、「個体」 のあいだの 「関係」 を構成して──、構成された文が 「真」 かどうかを問う接近法を使っています。単純に言い切れば、以下の手続きで モデル を作ります。 「認知 (同意された認知)」 → L-真 (文法で構成された真) → F-真 (事実的な真). この手続きのなかでは、「性質」 は 「観察述語」 というくらいの意味で使っていて、物理的対象の性質・関係が、適当な条件の下で、与えられた事態のなかに現れるか現れないかという点を直接の観察によって確かめられる 「述語」 としています。あるいは、概念的対象であれば──たとえば、「色」 とか 「寸法」 とか 「継続する抽象概念」──であれば、その概念を構成している 「語法」 のなかで妥当と見なされる 「述語」 としています。たとえば、「カラー・コード」 を個体指定子 (entity-setter) として 「カラー (色)」 を認知したときに、その性質として、「センチメートル (cm)」 を帰属させるのは 「文法違反」 になるでしょう。 |
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