2004年12月16日 作成 | モデル (意味論 と 構文論) | >> 目次 (テーマ ごと) |
2009年 1月16日 補遺 |
(1) 音韻論
「モデル (modeling)」 は、「形式と意味」 を扱うので、「構文論と意味論」 の かねあい が論点となる。
(1) 構文論を主体にして、意味を 「制約条件 (constraint)」 として扱う。 [ 構文論主導型 ]
「構文論主導型」 は、関係 モデル を使って、生成規則を主体にするので、「数理 モデル (論理的構文論)」 となる。 いずれの やりかた が良いか、という点は、即断できない。というのは、「モデル」 として作用するためには、いずれの やりかた であれ、「真理性」 概念が提示されていなければならない。すなわち、どのような集合 (対象) が 「真」 であり、どのような集合 (対象) が 「偽」 となるか、という照合規則が提示されていなければならない。 「真」 概念には、以下の 2つがある (カルナップ 氏が提示した「真」 概念であるが、カルナップ 氏は、タルスキー 氏の考えかたを前提にしている)。
(1) 「F-真」 概念----事実と対応して判断する。
「メタ」 言語は、対象言語の意味論をふくむ高階の言語である。 ただ、やっかいな点は、照合規則は、「構文論主導型」 では、生成規則と同じになっていて、生成規則が、「制約条件」 として、「意味」 を記述するし、「意味論主導型」 では、指示規則が、「真」 概念を示していて、指示規則が照合規則になっている、という点である。たとえば、「従業員と部門」 を対象にして、「構文論主導型」 の典型的な モデル の コッド 関係 モデル と、「意味論主導型」の典型的な モデル の チェン ER手法を、「入社と配属」 に関して、比べてみる----ただし、配属日は、コンピュータ のなかに実装しない、とする。
{従業員番号、従業員名称、...入社日、...部門 コード (R)} (従業員).
{入社日、...} (入社). コッド 関係 モデル では、「従属性」 という生成規則を知っていれば、「構造」 を作ることができる。言い換えれば、「従属性」 という生成規則が提示されているので、「構造」 そのものが、「恣意的」 になることはない。しかし、「従属性」 を使って 「意味」 を記述する、ということは 「論点先取り」 である、と思う。というのは、従業員番号と入社日の 「関係 (の意味)」 を知らなければ、「従属性」 を使うことはできないし、従業員と部門の 「関係 (の意味)」 を知らなければ、「従属性」 を使うことはできない。つまり、対象 (属性値集合と主体集合) の 「意味」 を知らなければ、生成規則 (構文論) を使うことができない。言い換えれば、構文論は、意味論を前提にしている。 いっぽう、チェン ER手法は、意味論の観点から、現実の事物を entity として記述する。entity には、主体型 entity (従業員、部門など) と関連型 entity (入社、配属など) がある。現実の事物を entity として記述する指示関係を扱っているが、論点となるのは、entity の生成規則が提示されていない、という点である。つまり、どんな事物を、どういう単位で、entity として認知するのか、という点が提示されていない。したがって、「恣意性」 が入る余地が高い。 意味論が構文論に先立つのは確かである。しかし、意味論が、事物の認知規則を示さないかぎり、「恣意性」 を排除することはできない。たとえ、構文論が、生成規則を提示しているとしても、構文論が、制約条件として記述する 「意味」 は、意味論 (指示規則) を前提としているかぎり、事物に対して、認知規則を示さないかぎり、「恣意性」 を排除することはできない。とすれば、事物の認知規則が最大の論点になる、ということである。 |
[ 補遺 ] (2009年 1月16日)
4年前に綴られた本 エッセー を、いま、読み返してみて、非常に 「きわどい」 ことを語っていますね----その 「きわどさ」 が典型的に現れているのが、「意味論が構文論に先立つのは確かである」 という文です。こういう文を断定的に綴ってしまうというのは、明らかに、(数学的な モデル を前提にしないで、) 言語哲学的な前提を置いていることを示していますね。 私は、確かに、言語哲学的な前提に立って、「どんな形式的構造も自然言語に翻訳されないかぎり無意味である」 という意見を抱いています。したがって、事物の----それが具体的な事物であれ、抽象的な事物であれ----「認知」 は、自然言語のなかで示されているというふうに考えています。勿論、数学的な観点に立って、「事物が一意にあるということをべつにして、事物を一意にできる アルゴリズム がある」 というふうに考えて、アルゴリズム (「関数」 と言ってもいいでしょうが) を定立することもできます----そして、そのアルゴリズム のなかで、事物は 「変項 (変数)」 として扱われ、「充足」 概念を前提にして、「存在する」 ということは 「変項 (の値)」 になりえることというふうに考えることもできます。 「意味論と構文論」 の かねあい は、私が TM (T字形 ER手法の改良版) を作るときに最大に悩んだ点でした。そして、私が TM のなかに導入した やりかた は、まず、自然言語を input にして、次に、自然言語の文に対して論理法則を適用して形式的構造を作って----すなわち、L-真を構成して----、最後に、output たる形式的構造のなかの文が現実的事態として起こった事象かどうか----すなわち、真 (F-真)----を問うという手続きでした。この手続きを単純に図式化すれば以下のようになります。 事物の認知 → L-真の構成 → F-真の験証 この図式の後半 (L-真の構成 → F-真の験証) は、数学的な モデル を前提にして、明らかに、「構文論が意味論に先行する」 という やりかた です。ただし、この図式の最初に、「事物の認知」 として、「合意された認知」 を置いています。言い換えれば、図式の後半で モデル (関数) の変項として扱われる個体を、すでに、認知している (個体化している) という点が特徴点になっています。すなわち、実体主義的な個体に対して関係主義的な関係 モデル を適用する手続きになっています。というのは、数学的な モデル を使って、かつ、自然言語で記述された文を input にするなら、こういう手続きしか考えることができなかった----言い換えれば、図式の前半 「事物の認知 → L-真の構成」 が言語哲学的な扱いで、図式の後半 「L-真の構成 → F-真の験証」 が数学的な モデル の扱いになっています。 この図式を以下のように記述してもいいでしょう。
(F-真) ┌──────────────────────────────────┐ │ │ │ ┌───────┐ │ │ │ │ │ │ ─┘ └─ ↓ y (形式的構造) ← f ← x (語彙) ← 「情報」 ← 現実的事態 ─┐ (L-真) ┌─ │ │ └───────┘ この関数 f を隠蔽すれば、この図式が示していることは非常に単純なことであって、「文として記述されたことが 『真』 であるのは、実際に そういう事態が起こったことを確認すればいい」 ということです。デイヴィドソン 氏風に言えば、「言明 『p』 が真であるのは、時刻 t において、事態 p と一致するとき、そして、そのときに限る」 ということ。 以上述べたように、TM は、意味論と構文論を忠実に守って構成された モデル です。 |
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