2005年 3月 1日 作成 意味と意義について >> 目次 (テーマ ごと)
2009年 4月 1日 補遺  


 
 「意味」 と 「意義」 は、論理学上、違う概念である──おそらく、言語学でも、違う概念として扱われている、と思う。論理学上、それを、最初に、明示した人物が、フレーゲ 氏 (Frege, G.) である。(参考)

 「同一性」 概念は、西洋哲学上、論点の 1つであった。「同一性」 に関する様々な見解については、哲学事典を参照してもらうとして、おおまかに言えば、以下の 2つの見解として、まとめることができる。

 (1) 事実的対象のあいだに成立する関係
 (2) (事実的対象に与えられた) 記号または名前のあいだに成立する関係

 
 フレーゲ 氏は、(2) の見解を立脚点にして、「概念記法」 (記号論理学の基礎) を作った。
 彼によれば、「a = a」 と 「a = b」 は、「認識価値」 が違う。「a = a」 は、アプリオリ (先天的、あるいは、トートロジー 的) に妥当するが、「a = b」 として記述される立言は、アプリオリ ではない、とされる。たとえば、昨日登った太陽 (a) と、きょう登った太陽 (b) が同じである (a = b)、という (天文学上の) 事実的検証は、「つねに、同一の太陽が昇る」 という判断となる。

 つまり、「同一性」 が、2つの名前 (a と b) のあいだに成立する関係であるならば、「a = b」 が真であるとき、「a = a」 と 「a = b」 を、それぞれ、べつの概念である、とする理由はない。すなわち、「a = b」 という等式を使うということは、a と b という 2つの名前 (あるいは、記号) が、同一の モノ を意味している、という 「規約」 として使うことができる。ただし、この関係が成立するのは、名前 (あるいは記号) が、「なにかを表示している (指示している)」 限りにおいてのみである。

 言い換えれば、その関係は、2つの名前 (あるいは、記号) を、モノ (事実的対象) と対応する、という行為を前提にしている。しかし、モノ と モノ を対応するという行為は、恣意的である。したがって、「a = b」 という立言は、事態そのものに関するのではなくて、(認識主体が記述した) 表示形式として扱われることになる。したがって、もし、「a = b」 が真であれば、「a = a」 の認識価値と、「a = b」 の認識価値は、同じである。そして、「a = a」 とか 「a = b」 というふうに、表示形式が違うのは、表示される モノ に与えられる 「様態」 の違いが、記号の違いとして対応するからである。

 たとえば、「明けの明星」 と 「宵の明星」 は、同じ モノ (金星) を表示しているが、表示された 「様態」 (実際的な認識) も、ふくまれている。名前 (あるいは、記号) が表示する モノ を 「意味」 と云い、(表示された) モノ の 「様態」 は、名前 (あるいは、記号) の 「意義」 として考えられる。したがって、「明けの明星」 と 「宵の明星」 は、「意味」 は同じであるが、それらの表現の 「意義」 は同一ではない。

 記号の 「意味」 が、感覚的・知覚的な対象であるならば、(対象の) 表象は、認識主体にとって、主観的な 「内的な」 像である。すなわち、或る人が抱く像 (表象) は、ほかの人が抱く像 (表象) と同じではない。固有名詞の意味は、固有名詞を使って表示される対象そのものであるが、どのような像 (表象) を抱くか、という点は、主観的である。「意味」 と 「像」 との中間に、「意義」 が成立する。たとえば、「月 (the moon)」 を考えれば、「月」 それ自体は、「意味」 に対応するが、「兎が餅つきしている」 像を描く人もいれば、「アポロ 号が着陸した」 像を描く人もいる。したがって、語・文は、以下の 3段階のなかで、認識主体に対して作用する。

 (1) 像 (表象) に関わる
 (2) 「意義」 に関わるが、「意味」 に関わらない
 (3) 「意味」 に関わる

 「色合い」 とか 「明るさ」 は、主観的であって、(1) の段階を超えることはない。
 主張を述べた文全体には、「思想」 がふくまれている、と云われるが、「思想」 は、「意義」 であって、「意味」 ではない (と、フレーゲ 氏は言う)。というのは、「意味」 が同じでも、「意義」 の違う語と置き換えて、文を考えてみればよい。
 たとえば、(フレーゲ 氏を引用すれば、) 以下の 2つの文を比べてみればよい。

 (1) 明けの明星は、太陽によって照らされる物体である。
 (2) 宵の明星は、太陽によって照らされる物体である。

 このような操作は、文の 「意味」 に対して、なんら、影響を与えないが、「思想 (あるいは、主張)」 は、あきらかに、変わった。言い換えれば、文の 「意味」 を知らない人は──たとえば、「明けの明星」 を知ってしても、「宵の明星」 を知らなければ──、(1) を真としても、(2) を偽とすることが起こり得る。したがって、「思想」 は、文の 「意味」 ではない (「意義」 として考えたほうがよい)。

 「思想 (あるいは、主張)」 では、文字通りに言えば、文の 「意義」 が論点であって、文を構成している固有名の 「意味」 まで考慮しなくてもよい。しかし、我々は、文を構成している固有名の (「意義」 のみならず、) 「意味」 を検討したがる。というのは、「思想」 の真理値 (真・偽) が問われるからである。
 言い換えれば、文の 「意味」 が問われるのは、「思想」 の真理値が問われるとき、そのときのみである。

 したがって、文の真理値を、その文の 「意味」 として考えざるを得ない。つまり、文の真理値とは、文が、真であったり、偽であったりする、という状態である。それ以外に──真あるいは偽のほかに──、真理値はない。(注意)
 とすれば、語の 「意味」 が論点となる主張文は、固有名 (記号) として理解されてよい。そして、「思想」 は、「意味」 すなわち真理値といっしょになって、はじめて認識を与える。
 したがって、文の真理値 (意味) は、そのなかの 1つの語を、同指示的な・ほかの語と置き換えても、変わらない。

 論理的に完全な言語では、1) すでに導入された記号を前提にして、文法的に正しい導出規則を適用して構成された記述は、すべて、実際上、或る対象を指示すること、そして、2) いかなる記号も、それに対する 「意味」 が保証されることなしに、新たに、固有名 (記号) として導入されることはないこと、という 2つが 「規約」 として前提とされる。

 T字形 ER手法 (TM の体系) では、以上の 2つの論理的 「規約」 は、(意味論を前提にした) 以下の生成規則として導入された。

 (1) 「event」 概念と 「resource」 概念
 (2) aRb に対する (4つの) 生成規則

 TM の体系では、モノ は、かならず、「event」 あるいは 「resource」 として示される。そして、「event」 と 「resource」 が、いかなる 「意義」 を示していても──たとえば、受注とか出荷とか、従業員とか商品とか──、「event」 は 「event」 として、「resource」 は 「resource」 として、(関係の) 生成規則が適用され、モデル のなかで、文の 「意味」 は変化しないようになっている。また、生成規則のなかで、あらたに導入された固有名 (対照表と対応表) は、すべて、実際上、或る対象を示すようになっている──たとえば、対照表は 「event」 を示し、対応表は (実際に起こった) 対応関係を示す。

 
[ 注意 ]

 「真および偽」 という 2値を前提にした 2値論理である。
 さらに、「必然性」 や 「可能性」 を加味した、様相論理もある。

 
[ 補遺 ]

 フレーゲ 氏の云う 「意義」 は、現代の通説では、「意味」 として理解されている。
 ただし、そういう 「意味」 は、「指示規則」 と混同されてはならない。



[ 補遺 ] (2009年 4月 1日)

 本 エッセー では、フレーゲ 氏の説 (「意味と意義」) を まとめています。そして、本 エッセー の文は、拙著 「データベース 設計論」 理論編-5 (以下、「赤本」 と略) および拙著 「モデル への いざない」 第 1章 (以下、「いざない」 と略) へ流用されています。「赤本」 では、本 エッセー の文を さらに要約して、ほぼ、流用していますが、「いざない」 では、フレーゲ 氏の説を説明しながらも、私は 「意味と意義」 を重視していないことを述べています。そして、「いざない」 の最終章 (第 12章) で、モデル の構成要件を まとめて、「意味」 の代わりに 「真」 概念を使うことを明らかにしています──ちなみに、「いざない」 の第 1章において、私は、以下の文を (「意味」 の代わりに 「真」 を使うための) 「前振り」 として綴っています。

    私は、「意味」 とか 「解釈」 という用語を使いましたが、本書では、これらの用語を終いには頼らないで、
    「真」 という概念を一貫して使うつもりです。

 つまり、意味論上、私は、「真理条件」 として、フレーゲ 氏の 「意味と意義」 説を開始点にして──なお、ウィトゲンシュタイン 氏の 「真理値表」 も フレーゲ 氏の説に続いて検討して──、タルスキー 氏の 「規約 T」 および カルナップ 氏の 「L-真、F-真」 を経由して、デイヴィドソン 氏の 「(自然言語を対象にした) T-文 テスト」 に至る道筋を歩んできました。そして、TM (T字形 ER手法の改良版) では、カルナップ 氏の 「L-真、F-真」 および デイヴィドソン 氏の 「T-文 テスト」 を基底にして 「モデル の正当化条件」 を整えています (本 ホームページ 368ページ を参照されたい)。

 拙著 「論理 データベース 論考」 (以下、「論考」 と略) を執筆したときに、私は、数学基礎論の基本的な概念・テクニック を棚卸して、モデル の構成要件を探求しましたが、そのときには、いまだ、「モデル の真理条件」 と 「モデル の正当化条件」 を混同していて、真理条件が実現されれば、モデル として正しいと思いこんでいました。「論考」 では、数学基礎論の基本的な概念・テクニック を確認するいっぽうで、意味論の前提を、ウィトゲンシュタイン 氏の前期哲学 (意味の対応説) から後期哲学 (意味の使用説) に移したのですが、意味論のほうを丁寧に検討することができなかった (余力がなかった)。

 そこで、仕残しになっていた 「意味論」 を検討するために 「赤本」 を執筆して、カルナップ 氏の 「L-真、F-真」 を検討して TM のなかに導入しました。この時点で、私は、「構文論と意味論」 を TM のなかに的確に導入したつもりだったのですが、「論考」 で取り組んだ 「『意味論』 の前提移行」 (「意味の対応説」 から 「意味の使用説」 への移行) が丁寧に検討されていなかった。そのために、TM では、数学上の モデル 観と、言語哲学上の モデル 観との ズレ が生じてしまいました。すなわち、数学上の モデル 観で重視されている 「F-真 → L-真 (および、L-真 → F-真)」──すなわち、モデル の完全性──という 「モデル の構成要件」 のなかに、言語哲学上の モデル 観で争点になる 「合意」 概念 (ウィトゲンシュタイン 氏の後期哲学) が入らない状態になっていました。言い換えれば、TM は、以下の 2つの モデル 観を統合できていなかった。

 (1) 数学上の モデル 構成要件 F-真 ←→ L-真。
 (2) 言語哲学上の モデル 構成要件 「合意」 → L-真。

 この 2つの モデル 構成要件を統合するために導入した 「モデル の正当化条件」 が以下の構成でした。

  「合意」 された語彙 → 「L-真」 の構成 → 「F-真」 の験証。

 この構成要件の前半が言語哲学の モデル 観であり、後半が数学の モデル 観です。そして、この構成に至るように導いてくれた説が デイヴィドソン 氏の 「T-文 テスト」 でした。「T-文 テスト」 そのものは タルスキー 氏の 「真理条件」 を自然言語に適用した構成要件であって、モデル の正当化条件ではないのですが、それを導入することによって、それを モデル 構成要件の最後に置いて、「合意」 された語彙を モデル 構成要件の最初に置くことができたので、「モデル の正当化条件」 を 上述した式として整えることができました。

 上述した式を 「モデル の正当化条件」 として整えることができたので、フレーゲ 氏の 「意味および意義」 に頼らないで、「真」 概念を使って モデル を説明できるようになった次第です。





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