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● ゲーテ (詩人) のことば 生活はすべてつぎの二つから成り立っている。したいけれど、できない。できるけれど、したくない。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
他の何等かの状態において私の中に摂取された時のみ、私は他を愛しているのだ。しかし己れの中に摂取された他は、本当をいうともう他ではない。明らかに己の一部分だ。だから私は他を愛している場合も、本質的にいえば他を愛することにおいて己れを愛しているのだ。そして己れをのみだ。
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/ 2011年 1月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● ナポレオン 一世 (軍人) のことば いつまでも貧乏でいるための最も間違いのない方法は、いわゆる君子人であることだ。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
私の愛己的本能がもし自己保存にのみあるならば、それは自己の平安を希求することで、知的生活における欲求の一形式にしか過ぎない。愛は本能である。かくの如き境地に満足する訳がない。私の愛は私の中にあって最上の生長と完成とを欲する。私の愛は私自身のほかに他の対象を求めはしない。私の個性はかくして生長と完成との道程に急ぐ。しからば私はどうしてその成長と完成とを成就するか。それは奪うことによってである。愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし愛の本体は惜しみなく奪うものだ。
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/ 2011年 1月16日 / ▲ ページ の トップ / |
● エッシェンバッハ (作家) のことば 大きい考えをもった人間は、隣人としては気持ちのよくないものだ。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
私の個性は絶えず外界を愛で同化することによってのみ生長し完成してゆく。(略) 私がその小鳥を愛すれば愛する程、小鳥はより多く私に摂取されて、私の生活と不可避的に同化してしまうのだ。(略) 私が小鳥を愛すれば愛するほど、小鳥はより多く私そのものである。私にとっては小鳥はもう私以外の存在ではない。小鳥ではない。小鳥は私だ。私が小鳥を活きるのだ。(The little bird is myself, and I live a bird) "I live a bird" ・・・・・・英語にはこの適切な愛の発想法がある。
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/ 2011年 2月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● ラ・ロシュフコー (批評家) のことば 対象を見るのに隔たりを置く必要があるが、交際をするさいにも、隔たりを置かなければならない。だれでもそれぞれじぶんの観点を持っていて、そこからひとにじぶんを見られたいのである。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
一度愛した経験を有するものは、愛した結果が何であるかを知っている。それは不可避的に何等かの意味の獲得だ。
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/ 2011年 2月16日 / ▲ ページ の トップ / |
● ヒルティ (哲学者) のことば ひとは、怠惰、逸楽、浪費、無節度、吝嗇などの習慣をやしなうことができるように、勤勉、節制、倹約、誠実、寛容の習慣をも実際にやしなうことができる。そして、どんな人間的美徳も習慣になってしまわぬかぎり、たしかに身についたものにはならぬ。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
愛の感激──正しくいうとこのほかに私の生命はない。
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/ 2011年 3月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● コナン・ドイル (小説家) のことば それは パイプ を三本ふかすのにぴったりくる問題だよ。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
ただ人間は nicety の仮面の下に自分自らを瞞着しようとしているのだ。そして人間はたしかにこの欺瞞の天罰を被っている。それは野獣にはない、人間にのみ見る偽善の出現だ。何故愛をその根柢的な本質においてのみ考えることが悪いのだ。それをその本質において考えることなしには、人間の生活には遂に本当の進歩創造は持ち来されないであろう。
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/ 2011年 3月16日 / ▲ ページ の トップ / |
● プーシキン (詩人) のことば 借金は返してこそ美しい。すべての債務も同様である。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
その後味を胡麻化すために、彼れは人のために社会のために義務を果たし、献身の行ないをしたという諦めの心になる。そしてそこに誇るべからざる誇りを感じようとする。社会はかくの如き人の動機の如何は顧慮することなく、直ちに彼れに与えるのに社会人類の恩人の名を以てする。それには知的生活にあっては奨励的にそうするのが便利だからだ。そんな人はそんなことは歯牙にかけるに足らないことのようにいいもし思いもしながら、衷心の満ち足らなさから、知らず知らずそれを歯牙にかけている。
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/ 2011年 4月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● ファン・ゴッホ (画家) のことば 私は次の定義よりもよい芸術の定義を知らない。「芸術とは自然につけ加えられた人間である」、自然、現実、真実につけ加えられた人間である。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
愛は優しい心に宿り易くはある。しかし愛そのものは優しいものではない。それは烈しい容赦のない力だ。それが人間の生活に赤裸のまま現われては、かえって生活の調子を崩してしまいはしないかと思われるほど容赦のない烈しい力だ。
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/ 2011年 4月16日 / ▲ ページ の トップ / |
● オスワルト・マールバッハ (詩人) のことば 芸術はひとを喜ばせたり、しあわせにしたりすべきではない。それは燃えあがり、そして燃えつきていくべきだ。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
愛が完うせられた時に死ぬ。即ち個性がその拡充性をなし遂げてなお余りある時に肉体を破る、それを定命の死といわないで何所に正しい定命の死があろう。(略) 自滅するものの個性は死の瞬間に最上の成長に達しているのだ。
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/ 2011年 5月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● クローデル (詩人) のことば 芸術と詩は生活の否定である。芸術は生活を模倣すべきではない。いかなる芸術も決してこれをしなかった。芸術の目的は、生活がその断片的素描しか与えなかったものを実現することである。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
しかし彼れ(=基督)は純粋な愛の事業のほかには何物をも択ばなかった。彼れは知的生活のためには何事をも敢えてなさなかった。(略) 彼れはその無上愛によって三世に亙っての人類を自己の内に摂取してしまった。それだけが彼れの已むに已まれぬ事業だったのだ。
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/ 2011年 5月16日 / ▲ ページ の トップ / |
● ベートーヴェン (音楽家) のことば 芸術の修業だけでなく、あなたの精神を益する修業をおつづけなさい。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
お前が愛の極印のないものを施すのは一番に大きな罪だと知らねばならぬ。
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/ 2011年 6月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● バルザック (小説家) のことば 絶えざる労働が、生活の法則であると同時に芸術の法則でもある。芸術は観照による創造である。したがって偉大な芸術家や完璧な詩人は、注文や買手を待って初めて仕事に取り掛るのではない。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
愛の反対は憎みではない。愛の反対は愛しないことだ。だから、愛しない場合にのみ、私は何ものをも個性の中に奪い取ることができないのだ。憎む場合にも私は奪い取る。
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/ 2011年 6月16日 / ▲ ページ の トップ / |
● フォークナー (小説家) のことば 現在の自分の作品に決して満足してはならない。到達し得ない高みに登ることを目指さなければならない。同時代人や先人たちより優ろうとだけ努めてはならない。じぶん自身をのり越えようと努めなければならない。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
愛せざるところに愛する真似をしてはならぬ。憎まざるところに憎む真似をしてはならぬ。(略) 愛は烈しい働きの力であるが故に、これを逆用するものはその場に傷けられなければならぬ。その人は癒すべからざる諦めか不平かをもってその傷を繃帯するほか道はあるまい。
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/ 2011年 7月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● ジード (小説家) のことば 誠実は、芸術においては、それが努力の末ようやく認められたときでなければ、私には無縁である。じぶんの個性の誠実な表現にたやすく到達し得るのは、きわめて平凡な魂の持主だけである。なぜならば、新しい個性は、新しい形式のなかにしか、誠実に自己を表現することはできないからである。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
基督は 「汝等互にさばくなかれ」 といった。その言葉は普通受け取られている以上の意味を持っている。何故なら愛の生活は愛するもの一人にかかわることだ。その結果がどうであったとしたところが、他人に絶対にそれを判断すべき尺度を持っていない。しかるに知的生活においては心外に規定された尺度がある。人は誰れでもその尺度にあてはめて、ある人の行為を測定することができる。だから基督の言葉は知的生活にあてはむべきものではない。基督は愛の生活の如何なるものであるかを知っておられたのだ。ただその現われにおいては愛から生れた行為と、愛の真似から生れた行為とを区別することが人間にとっては殆ど不可能だ。だから人は人をさばいてはならぬだ。しかも今の世に、人はいかに易々とさばかれつつあることよ。
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/ 2011年 7月16日 / ▲ ページ の トップ / |
● ピカソ (画家) のことば 私にとっては、画は破壊の堆積である。私は画を描き、そして直ぐにそれを打ち壊す。だが結局のところ、何も失われてはいない。ここで切り捨てた赤は、また別な処に現れる。画を描きはじめると、よく美しいものを発見する。ひとはそれを警戒しなくてはならない。画を打ち壊し、何度でもやりなおすのだ。美しい発見を破壊するたびに、芸術家はそれを失ってしまいはしない。実際は、彼はそれを変化させ、緻密にし、より実質的にさせる。成功は発見を否定した結果である。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
私の個性が表現せられるために、私は自分ながらもどかしい程の廻り道をしなければならなぬ。数限りもない捨石が積まれた後でなければ、そこには私は現れ出て来ない。何故そんなことをしていねばならぬかと私は時々自分を歯がゆく思う。それは明らかに愛の要求に対する私の感受性が不十分であるからである。私にもっと鋭敵な感受性があったなら、私は凡てを捨てて詩に走ったであろう。そこには詩人の世界が截然として創り上げられている。私達は殆んど言葉を飛躍してその後ろの実質に這入りこむことができる。そしてその実質は驚くべく純粋だ。
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/ 2011年 8月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● フローベル (小説家) のことば
巧みに書かれたものは、読む人を少しもあかせない。 |
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有島武郎 (小説家) のことば
生命の向上は思想の変化を結果する。思想の変化は主張の変化を予想する。生きんとするものは、既成の主張を以て自個を金縛りにしてはなるまい。
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/ 2011年 8月16日 / ▲ ページ の トップ / |
● ヴァレリー (詩人) のことば 「飾られた」 文体。文体を飾ること。ありのままの、清潔な文体を書ける人だけが、真に文体を飾ることができる。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
この文明の利器 (ジャーナリズム) は、事物そのものに直接ふれることなしに、事物そのものを見たという錯覚を生ぜしめやすい。(略) 即ち 「性急な裁断による限定」 という形をとる。それは限定であるが故に明快な外観を呈するが、この種の 「明快さ」 に我々現代人は毒されていないだろうか。
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/ 2011年 9月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● ジロドゥー (劇作家) のことば 唯一の仕事は、文体を見出すことで、思想は後からやって来る。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
一体、自分で自分を束縛するとはどういうことであるか。その一つは、人間の認識能力と称するものへの 「我執」 と言ってもよかろう。人は 「自分の観点」 「自分の立場」 なるものをひとたび決めてしまうと、それに執着し、そのことで自己を束縛してしまうものである。自分の 「観点」 とか 「立場」 への懐疑を失ったところに、自ら意識しない 「不自由さ」 が生ずる。自分では 「自由」 であると錯覚しながら。
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/ 2011年 9月16日 / ▲ ページ の トップ / |
● ジード (小説家) のことば 下手な小説家は、その作中人物をつくり上げ、これを操り、これに喋らせる。真の小説家は、作中人物の言葉に傾聴し、かれらが行動するのを見守る。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
「無為」 とは、まず行動における無執着を意味していると言ってよかろう。何もしないということではむろんない。もの事を判断する場合ならば、判断すると同時にその判断自体に執着しないということである。同時に世間体や他人の顔色にもとらわれない。(略) 「無執着」 を口にしながら執着していることがある。あるいは 「無執着」 も当為と化すれば一種の執着となる。(略) 自己の判断や行動に誤謬があると気づいた時には、直ちにそれを取消すという、極めて平凡な行為から始める以外にない。ところがこの平凡なことが出来ないのだ。
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/ 2011年10月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● ホフマンスタール (詩人、劇作家) のことば 有名作家も無名作家も理解されずに生きていることは同じで、ただその形式が違うだけだ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
現代の社会は様々の限定によって成立し、いかなるものも名称によってある ワク をはめられている。たとえば、職業、流派、党派、さまざまの思想、イデオロギー、その他のすべての芸術作品にしても、そこにはかならず分類があり、分類による限定がある。これは、社会生活の便宜上、やむをえないことではあるけれど、しかし限定とはあくまでも一つの仮設にすぎない。この自覚をもつことが必要なのではなかろうか。社会はこの仮設の上に成立しているが、この仮設を一度破壊してみてはどうか。
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/ 2011年10月16日 / ▲ ページ の トップ / |
● ニーチェ (哲学者) のことば じぶん自身の悲劇や喜劇を満喫している者は、たしかに、劇場には行きたがらないものである。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
(略) 自己が成り得るかもしれないあらゆる可能性へのそれは信頼だと言ってもよかろう。我々は世間とか他人の言葉によって自ら自己を限定されることに慣れてしまっている。そしてついにそのものであるかのごとくに思いこんで生きている。だからそういう自己とは一種の 「仮設」 だと言っていいかもしれない。しかし実際は、人間はすべて本来無限定の存在である。無限定の存在とは、いま述べたとおり、あらゆる可能性を含む存在という意味だ。それを限定によって殺しているのだ。
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/ 2011年11月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● ビュッフォン (博物学者) のことば 立派に書かれた作品のみ後世に残るであろう。知識の量、事実の特異性、探究された内容の新しささえ、作品の不朽を確実に保障するものではない。これらの事柄はその人間の外にある。文体はその人間自体である。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
(略) 我々が自分の学問とか知識と称しているものは、一種の 「私有化」 状態にすぎないのである。即ち学問とか知識による自己限定である。それが固定化すると偏見となり、あるいは先入観となる。(略) その自説に対し、自ら絶えず懐疑していないような 「自説」 は悪徳となる。
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/ 2011年11月23日 / ▲ ページ の トップ / |
● ユゴー (詩人) のことば 凡人は常に規則的な作品を作り、非凡な人は作品に秩序を与える。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
さまざまな問題に直面するとき、それを出来るだけ早く解決したいと思うのは当然である。しかし問題というものの性質から言って、それが容易に解決しがたいものであればあるほど問題としての重要性を増すものだ。
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/ 2011年12月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● エミール・ゾラ (小説家) のことば 作品とは、作家の体質を通して眺めた自然の一角である。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
矛盾は永続するだろう。矛盾なしに人間は生きられない。それは我々人間を永久に不安な状態におくことである。しかしこの不安な状態が人間の実際の状態であって、菩薩の大乗精神とは、「不安そのものの中に充満している生命力」 に没入することだと言ってもよい。(略) だから迷わないということが大乗の精神ではなく、迷いの中にあって、迷いそのものの生命力に自己を没入させることが大乗の精神である。言わば矛盾の連続と、未解決のもつ苦痛の中で忍耐することだ。この種の忍耐こそ真の認識能力というものではなかろうか。
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/ 2011年12月16日 / ▲ ページ の トップ / |
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