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● アラン (哲学者) のことば すべての物の姿を僕の眼の前に示してくれる この距離というものは、しかし、決して物ではない。このところに注意してしてほしい。物のほかの物に対するあるいは僕に対する一つの関係だ。こういう性質を方向というものが明らかに教えてくれる。方向は、僕の身体の回転に対する関係によっていろいろな物を秩序づけるが、物ではない。方向は物を決めるものだ、形式上のものだ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
人間は無常な存在であることを知りながら、しかもこれほど執着の深い存在はないといふことです。
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/ 2017年 5月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 正しく考えることほど適切な哲学上の経験は おそらく あるまい。(略) この種の探究がおもしろくないというなら、それは もう神さまの お言葉のようなもので、こんな書物を読まないでもよろしい。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
たいていは自分の欲する側面しか見ていない。ないしは先入観や偏見をもって接している場合も少なくない。「全面的な判断」 の大切なことは自覚しているが、実際にそれを運用出来るかどうか。
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/ 2017年 8月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 知覚とは、まさしく僕らの運動とその効果に関する予想だ。よく知覚するとは、そういう目的に達するのに、どういう運動をすればいいか あらかじめ知ることで、正しく知覚する人はなにをすべきかを知っている人だ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
人間の精神が衰弱の方向をたどる時、その徴候が一番に どこに現れるかというと、判断力の衰弱である。即ち性急な裁断による限定という形をとる。それは限定であるが故に明快な外観を呈する。
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/ 2017年 9月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 幽霊を知覚する誤りは僕らの予想のうちにある。幽霊をみるとは幽霊をだと推測することだ。見える対象から、手を延ばせば、なにか動いているものにさわるだろうと推測することだ。しかし、僕が実際に感じているものはまさしく感じている。その感じているそのことについての学問というものは成り立たない。なぜかというと感じていることには誤りというものがまるでないからだ。僕の感ずることについての研究とはすべて、それはどういう意味か、僕の運動によってそれがどう変化するかというところに成り立つ。と、言えばおわかりだろうか。(略) くわしく言えば、物の真とはその形とか位置とかその他すべての物の特質を定める空間上の諸関係全体にほかならぬ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
そこ(悩み) での無限漂白がその運命である。だからこそ菩薩なのである。人間として煩悩の消滅することはない。菩薩はそれを 「断」 ずるものであってはならないのだ。むしろ煩悩自体の中に漂いつつ、人間の実相を凝視しつづけようとする永続的な認識能力として、それはあらわれなければならなぬ。
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/ 2017年 9月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 或る物は他の物との関係、つまり他のすべての物との関係によって決定される。単独に考えられた物とは真の物ではない。つまり、物とは分割できない諸関係の組織のうちに成立しているもので、考えられるもの、感じられるものではない。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
いかに多くの学識教養をもって臨んでも、仏像が人間に教えるものは無心の一事である。
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/ 2017年10月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 見えるがままの世界を正直に描き出さなくてはならぬ。ところがこれが容易ではない。人々は感ずるままの世界を見ていやしないし、世界は見えるがままのものではないこともよく承知している。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
自分の都合のいいような反省の仕方をする。(略) 自分で自分の罪を評価し、罪をもてあそぶようなことがしばしばある。ないしは、罪悪感を抱くことで安心するという危険もある。
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/ 2017年10月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 想像は間違った知覚である。しかし、どんなに厳密な知覚のうちにも、想像はいつも流れている。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
その不安定なものに耐えて、それを切り抜けて行く勇気そのものが幸福だと感ずるためには、邂逅の謝念が前提となっていなければなるまい。そしてそういう状態にあるとき、人間は改めて「幸福」の探求など考えないのではあるまいか。確乎たる意志のないところに生ずる「幸福」論議ほど、その人間の脆弱さを示すものはない。
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/ 2017年11月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 僕らはちょっとなにか見えると、あわてて判断しがちなもので、真の知覚というものは、ひるがえるさまざまな誤りに対する不断の戦いだといえるのだ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
道徳を完全に実行する人間というものは事実上存在しない。真の道徳家とは、道徳の完全な実行者のことではない。実行しようと思っても、実行出来ないでいる苦しみを、身にしみて感じた人、それが真の道徳家である。
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/ 2017年11月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 知覚とは常に思いうかべることだ。だから、どんな簡単な知覚にも、知覚のうちには、いわば暗黙の記憶がある。僕の経験の総和がおのおのの経験に集まっている。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
人間の罪はすべて執着力から発する。しかも人間は執着力がなければ生きて行けない。これはたいへんな矛盾です。だから生きることは、罪を犯すことだとさへ言はなければならないほどです。執着力がなければ生きられないし、しかもその執着力は罪の母胎となる。人間はこの矛盾からいかにして脱却しうるか。鎌倉仏教の祖師たちの痛切な問ひでした。そこにどんなに多くの修行方法が発生したか。
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/ 2017年12月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 記憶をもたぬ、暗黙の記憶すら新しい人間には、距離を積ることもできなければ、一わたりいろいろの物を考えてみることもできない。僕らのように推測することもできない。つまりは見ることもさわることもできない。記憶とは切り離された働きでも、切り離すことのできる働きでもない。(略) もし、どんなものの知覚のうちにも、幾千という記憶が閉じこめられているものだとすれば、その物は他のさまざまな物のただ中で考えられた物ということになる。(略) これはすでに、現在はないがいずれ姿を現わすものという考えを仮定している。存在し、しかも存在しない同じ物、もっとくわしくいえば、姿を隠しているが、時間のある条件のもとでは姿を現わす同じ物を協力して取捨するというこの不思議な関係から、すでに時間というものがどうやら限定されているといえる。たとえば、僕の背後にある町とは、僕が三十分かかれば行ける町だ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
無常なる存在であることを自覚することによって、死を確認すること、執着深い存在であることを自覚することによって、罪を確認すること、激変する存在であることを自覚することによって、狂気を確認すること。私たち自分の心をふりかへつてみると、この三つをことごとく兼ね備へてゐるわけで、人間にはいろんな可能性がありますけれど、むろんよりよくなる可能性もあるが、いまのやうな、非常な危険もはらんでゐる。人間である以上みなさうだと言つていゝでせう。
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/ 2017年12月15日 / ▲ ページ の トップ / |
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