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● アラン (哲学者) のことば 僕にとっては、いつもこの物の以前に他のいろいろの物が存在したのだ。時間と空間とは、遠近という抽象のうちでばかりではなく、僕の実際の経験のうちで、いつも結ばれているものだ。位置、道路、運動、時間、こういうものは、実際には切り離すことができない。少しもむずかしいことはない、どにいるか知るとは、どこからきたか知ることだ、いろいろの物のうちに、来られたら来られた他のいろいろな道のうちに、自分の道をみとめることだ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
自分に絶望する必要があると思ふのです。必要といふと、無理に絶望するといふふうにとられやすいのですが、親鸞聖人の場合なら、煩悩具足の凡夫といふ自覚がそれです。私は当世風の (といふよりは絶望の ポーズ といつた方がいゝ) を奨励してゐるのではありませんし、絶望こそ第一義だとも考へてゐません。大切なのは次のことです。絶望が根本になければ、邂逅もありえないといふことです。
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/ 2018年 1月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 未来とは、ある意味で、僕らにはいつも現在だとさえいえよう。たとえば、僕のいるこの町から地平線までの距離が、可能な未来というものでなければ、いったいなにを意味するか。同様に、空間のいろいろな大きさにしても、時間との関係、実際であると同時に可能な時との関係なしにはあるがままではない。時間の可能性は位置の形で考えられていることを申し添えたい。なおまた、前とか後とかいう言葉が、時間とともに空間も限定していることはいうまでもない。こういうことをくどくど述べるのも、学者によっては、僕らの思想の秩序たる時間と物の秩序たる空間というふうに両者をあまり区別したがるからだ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
私たち人間が、自分の頭のなかで考へた救済、救ひの観念といふものは一体正当か。まづこゝに思ひを致すべきでせう。われわれ人間は非常に虫がいゝのです。救はれないことをやり、それを知りながら、万一の救ひを望んでゐるものです。
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/ 2018年 1月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 連続と連続に関する僕らの認識とを混同してはいけない。一般の経験からいって、前者と後者は別々のものだ。はっきりした僕らの思い出にしても、秩序整然と自動的にうかびあがりはしない。僕が続けざまに三通の電報を受けとったとして、内容を見ても時間の関係が読みとれなければ、どういう順序で電報が到着したか知るよしがあるまい。だからこそ、そういう場合、数の順序だとか時間の指示だとかを採用する。これでわかるとおり、連続という秩序を定めるには、一般の数のいろいろな配列を使用するのだが、こういうあたりまえのことに、人々はあまり注意しない。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
親鸞聖人の非常に辛いところ──まあ辛いと私は思ふのですが、この奇蹟を全部否定してしまった。つまり人間が考へ、妄想するやうなあらゆる救済観念を放棄してしまった。(略) 私たち人間は必ず即効薬を求めるからです。すぐ効くもの、まあいまの奇蹟と同じことですが、すぐ役立つもの、効き目がないといふことは、なにか私たちに魅力を起こさせない。 |
/ 2018年 2月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば
僕らの経験を探って見つかる、確固たる連続の秩序が二種ある。まず物の秩序が僕らの知覚に、一種の秩序を強いる。僕が行こうと思う道を指名するとき、同時に僕は、共存するさまざまな物のある秩序を描き、さまざまな知覚のはっきり限定されたある連続を描く。「まず小屋が見つかる、つぎに四つ角、次には標柱、やがて小道だ」。ある場所に行くには、道は一つではない。世界をかけまわるには、無数の方法がある。はっきりと定めたある物との関係なしには、共存するさまざまな物の間に前も後もないが、一度歩きだして運動の方向を定めれば、共存しているいろいろな物の秩序を同時に連続の秩序が定まってしまう。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
だから親鸞聖人の教へといふものは、人間の心のなかの、つまり人間とはなにかと問うて、人間とはかういふものだといふことを、自分の心のなかに明確に自覚しながら、さういふ自分と死ぬまで戦つて行かなければならないといふ性格を帯びざるをえないと言つていゝでせう。目に見る効果といふものを、一つも聖人は求めなかつた。絶えず心のなかの格闘を次から次へと続けて行く以外にない。(略) 煩悩具足の凡夫として、自分の心のなかの戦ひをどこまでも持続してゆく。むろん聖人の自力修行といつたものではなく、その中心に如来より賜はりたる信心といふのが、一本貫いてゐるのであります。
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/ 2018年 2月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば そうなると、どうやら、意識の統一というものがなければ、はっきりした部分もあり変化もある物は眼前に横たわっていまいということになる。もう一つの物とは要するにもう一つの物だが、僕というのは全体だ。逆にいえば、物の知覚がまるでなければ、主観の統一も現れない。(略) 僕は僕自身を思いだすにすぎない、また僕は物を思い出すにすぎない、物の真理だけが、僕に親しい持続の感情に意味を与える。まったく同じあんばいに、運動の心像だけが、僕が腕を延ばすときに感ずるものに意味を与えるのだから。最後に言っておくが、僕が意識をもっている以上、僕とはつねに悟性だ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
「歎異抄」 に幸福といふ言葉は使つてをりませんが、私にとつては次の述懐こそ親鸞聖人の幸福論だと思はれるのです。「たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆゑは、自分の行もはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまうして地獄にもおちてさふらうはばこそ、すかされたてまつりてといふ、後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
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/ 2018年 3月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば たとえば、時間は分割できない諸瞬間からできあがっていやしないだろうか、と考えるのは、時間を運動と置きかえているので、しかも運動の影像からのがれていない、運動というものもまた、悟性にとって、挿話の連続とは別物なのだから。空疎な論理が、永遠を発見して嬉しがるのも、時間を物質化してしまった結果だ。ここでも、物と考えとを切り離さず、しかも両者をはっきり区別しなければならない。事実僕らはそういう態度でものを考えているのだ、僕らが通常の判断で考えるところを正確に知るということが、そもそも決してばかにならないことなのだ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
とにかく出会って、さうして開眼する。いままで自覚してなかつたことを自覚せしめられる、目を開かせられる、さうしてそれに信じ従ふ。邂逅と開眼と信従、したがつてそこに感謝の気持が出てくるわけですが、かうした経験だけが人間としての最高の経験だらうと思つてをります。
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/ 2018年 3月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 僕らは、夢を語りながらでも、夢をこしらえあげるということも明らかだ。僕らの内部生活は、いつもこういう具合に展開するものだ、いつも物に翻訳された印象からできあがっているものだが、決して完全な知覚には到達しない。到達したら目がさめてしまう。目がさめるとは、まさしく目や手の運動で物の真理を探ることだ、僕らの夢とは、探求の欠如すなわち知覚の欠如と批判の力によるものの実際の出現との間の通路にすぎぬ。この道路で書く怠惰な感想文が僕らの夢だ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
自分 (法然上人) が知識とか教養のためにどれほど迷ひわづらはされてきたか。はたして自分は念仏を唱へながら心安らかに死ぬことができるかどうか。自分に対して疑つてをつたにちがひないと思ふのです。
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/ 2018年 4月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 時間の記憶が場所の記憶にしっかり結びついている。(略) 僕が僕であるのは、さまざまな真実な知覚の唯一の連続による。(略) 僕のこの世によって自分自身を考えるにすぎない。外界の物の存在を証明するには自意識というものでたりる、と、なかなかむずかしい定理だが、カント は言っている。主観的な外見をもった生活から、真実の物にいわば飛び移る道はないが、反対に、外観というものが姿をあらわすには、真実の物によらなければならない。そういうことが カント は言いたかったのだ。たとえば遠近といっても、実際の或る立方体ではなく、あるがままの立方体を僕が考えていることを仮定している。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
つまり自分が絶対的に信頼し、その人に従ふ、さういう先生を持つてをつた、あるひはさういう経験といふものが人生のある時期にあつたとしたならば、それを息をひきとるときに、思ひ出すべきではなからうか。親鸞聖人の教へから申しますと、それが念仏です。念仏申さんと思ひ立つ心の起こるときといふ、心の底のなかのいちばん微妙なものに、聖人は注目したわけですが、しかしさういふ言葉のその背後には、いま申し上げました邂逅と開眼と信従といふ、そこからくる動かしがたい思ひ出といふものが、つねにまつはりついてをつたであらうと私は思ふのです。
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/ 2018年 4月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 物のない考えは規律のない考えであり、ただ駄弁をろうするだけだ、ちょうど、判断のない経験が物をつかむことができないように。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
本を読むといふことも大事ですけれども、しかし生身の師に出会つて、その師を通して直接的に声に接することほど重要な経験はないと思ふのです。(略) よく、イデオロギー といふ言葉を使ひますが、さういふものは抽象的に存在するのではなくて、ある特定の人間の人間的魅力として存在する。さうでなければ、実際に人をひきつけることは出来ないでせう。直接の邂逅と、そこでの人間的魅力ほど重大なものはなく、すべての思想はこれによつて生きるものです。
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/ 2018年 5月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 野心的な思想に対立するものは、自分のしていることだけを観察する労働者の思想だ。ここには正確な方法、今日の物理学を支配し、ある意味では手も足も出ないようにしているあの正確な方法というものが現われている。問題となるのはただ物だけだ、というところからそういうことになる。いろいろな機械、てこも滑車も車輪も斜面も、力学の諸原理がまだ発見されないときにみな知られていた。(略) 無線電信の歴史を見ても明らかなとおり、実地の応用が成功した場合、思想はたちまち器具の列に加えられる。実験は方法の女王だという陳腐な考えは捨てなければならぬ。実験上の探究に道具や人の手を無視できないだけであって、道具をおき、手をこまぬき、精神から鋭敏な自然に質問を発することもまた必要なのである。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
人間の声といふものに対する郷愁を抱かなければ、ことに宗教とか文学の場合は、身にしみてわからないと言つてもいゝのではないかと思ひます。(略) 親鸞聖人も信ずるといふことと、聞くといふことを一つのものとして重要視してゐることです。道元の 「正法眼蔵」 を読んでみますと、如来全身といふ言葉があります。つまりお経といふものは如来そのものであつて、如来の声そのものであるといふな言ひ方をしてをります。本を読むと言はずに、本を聞くといひませうか、本のなかに、つまり経文のなかに如来の音声を聞く、さういふ態度をとつてゐる。つまり邂逅の直接性を、いかに重んじたかといふことのあらはれだと思ふのです。
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/ 2018年 5月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 観念なしに観察しても無駄だとは、だれでも言い、だれでも承知しているのだが、一般の人々は、観察の基準となる観念を、あまり物の遠方に探したがる、あるいは、もっと適切にいうと、機械的なお手本として、物の傍に探したがる。知覚の分析で、すでに物自身を考えによって限定する準備をしておいた。大哲学者たちがたくみに説いたように、観念は物の額縁であり、骨組であり、形式であることを述べておいたはずだ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
正倉院の御物を拝して、その生ま生ましい悠久の美にうたれるか、それともこれは聖武帝時代のもので古い過去のものだといふ判断が来るか。要するに我々を惑はすものは、古典でなく、我々自身のとるに足らぬ思慮分別なのではなからうか。率直な驚きを我々は失つてゐる。色々な附加物に煩はされて虚心になれないのである。
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/ 2018年 6月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば もし目に見えない形式という組織がなければ、僕らの記憶に、なに一つ確かなものを与えてはくれない、形式の諸関係があればこそ、すべての物が秩序立てられ、計量される。僕が注意したいのは、設けられ考えられたもので、決して現在はしていないが、たとえばこの建物の丸天井とか柱とかと同じように云々できる、この地球や地球の軸とか極とか子午線とか赤道とかいうものだ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
美術研究といふ名目も、「教養のため」 といふ心がけも、「過去のものと現在のもの」 といふ分別も、悉く我らの煩ひなのであらう。それらを去って畢竟私の心に湧いてきたのは一片の信心だけであつた。諸〃の菩薩像が私にかくあらざるをえぬやうに強ひたのだと云つてもよい。わが身にまつはりついた一切の雑念邪心を放下して、たゞ無心の裡に仏自らの運命の物語を聞くといふ態度のみが正しいのではなからうか。
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/ 2018年 6月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 無秩序な経験は、重ねれば重ねるほど、単独な物よりももっと人をあざむくものだ。無秩序な経験が悟性ににせ金をつかませるのは統計の拙劣による。地平線とか鐘楼とか並木道とかの知覚には、考えられた距離がなくてはならないように、落下の知覚にもなくてはならぬ、分割できない惰性とか速力とか加速度とか力とかという、目には見えない、考えられ設けられた諸関係は、ひとえに物の考察から、ひとえに物を知覚しよう、物の表象を得ようとする不断の努力からのみ生れるのだ。この世は法則以前に与えられたものではない。たとえば明け方と暮れ方に現われるあの妙な二つの星が、たった一つのケプレルの軌道の上のたった一つの星となるように、法則が姿をあらわすに準じてこの世はこの世となり物となる。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
諸々の古菩薩像は、千年の歳月を経て、いづれも彼ら固有の運命をもち、固有の神託をもつてゐる。(略) 古仏をたゞ保存された彫塑とのみ思ふのは誤りである。千年にわたつて人間が祈つた切なる生命の息吹きを、古仏の肉体は吸収してゐるのである。彼らはわが前に跪拝せよとは言はぬ。われを絶対に信ぜよとも言はぬ。伝統を語らず勿体をつけず、放心のまゝ黙然として立つてゐるだけである。大自然の扉をひらく黄金の鍵と云つてもよかろう。それを開顕する力は我らの唯信である。
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/ 2018年 7月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば
類推には、なにもたとえば両者が同じように感ずるとか動くとかという共通な性質を必要としない。ただ悟性にだけ語りかける関係というものの一致があればよい。だからこそ類推は完全なときに最も目に入りにくい。(略) |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
一切を他人事として、「客観的」 に論ずる、かゝる態度を私は官僚的とよぶのであるが、今日の官僚よりも、今日の評論家思想家の方がよほど官僚的になりつゝあるのは注目すべき現象だと思ふ。
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/ 2018年 7月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 法則に準じた悟性の諸形式である仮説と、多少は整頓された想像の戯れである憶測とを混同しないだけの準備は、もう読者諸君にはできているはずだ。(略) 裁判官がこの被告は有罪だあるいは彼はこの窓から逃げたとかこの足跡は当人の足跡だとか思いめぐらす際、裁判官は憶測をしているにすぎない。しかし、殺人者の姿勢と短刀の位置とを力学上から結びつけて考える際には、二つの形跡から一つの運動を再建するのだから、一種の仮説を立てていることになる。運動は常に精神によって再建されるもので、変化の形式であり、感じられる変化とは運動の素材にすぎないのだから。(略) 憶測は存在を設定し、仮説は本質を設定する。またいろいろな学問があんまりたくさんの憶測を背負いすぎているということもわかる。これを機会に言っておくが、存在は、決して設定されも仮定されもしない、ただ認知されるものだ。以上述べたところをよく考えてみると、近頃はすぐれた書物のなかでも、仮説と憶測とが混同されているのに気がつくと思う。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
諸々の宗教を有用物とし、これを単に学問や知識の対象とするのは我が求道者たちの厳に戒めたところである。(略) 上宮太子の御信念は申すまでもないが、近くは プロテスタンティズム における内村鑑三の仕事を考へてみても、宗派に属せず、教義にとらはれず、たゞ純潔な一片の信心をもつて、仏陀自身あるひは耶蘇自身の本然の相と偕に在らんと覚悟し、一切の夾雑物を剥奪すべく戦つたのである。そのため神ながらの道に直面し憂悩したことも深い。だが、さういふ苦しみを自他に対して誤魔化さず、憂悩の裡にひとへに人間の高貴性のために戦ひ殉じた、その生涯の姿が私には尊く思はれるのである。彼らはまづ胸をひらいて己が衷情を訴へた。自分の言説に、一々これは愛国的だと弁明註釈するごとき無恥の行為はしなかつたのである。
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/ 2018年 8月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 遅くなったり早くなったり曲がったりしない運動はまずない。厳密にいえばそんなものは全然ない。斉一運動とはただ惰性に殉じて作りあげたものである以上、一つの観念だ、何物にも連絡のない運動である、だからそんなものはどこにもない。しかし、悟性はこれを要素として設ける。つまりそれが力学の権利だ。ここから、この世でなにものも捕らえない速度というものが定まる。(略) 根源は一つだが、こういうさまざまな形式、恐らくもっとほかにいろいろの形式が必要だが、こういう諸形式がなければ、線も円も持たぬ牧人が、天体の外見を定めることができないように、僕らは、最も単純な実際の運動さえつかむことができない。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
実際に仏典をよみ聖書をひもどいた折の感慨、またわが古仏の前に佇んだ時のいつはらぬ心情からものをかくべきであらう。日本の伝統はたゞ説明すればよいといふものではない。その語り方、表現の仕方のうちに、情操や恥らひの心を欠いた蕪雑な正体が曝露するものだと知るべきである。一夜漬で古事記や万葉集をよんで器用に引用したりする悲しむべき小才が我らに共通の病弊なのではなからうか。
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/ 2018年 8月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば アトム もまた美しい仮説だ、真の科学に準じた システム のなかには、何にたいしても内部というようなものはない、なにかのなかに収容された物とかいうようなものはない、すべてが外部の関係だ、ということをこの仮説は正しく説明している。大きさも アトム となんの関係もない、アトム という観念によって、その内部には、およそ考えられるものが何一つないそういう物体が簡単に設けられたのである。それでも諸君は、アトム はあるかないかとたずねるだろうか。アトム の見せ物小屋に行ってみたいか。それならいっしょに赤道と子午線をみせてもらうとよろしい。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
平生私は出来るだけおだやかに勉学してゐたい気持でゐるが、かういふ時勢になれば、腹に据ゑかねることも二三はある。それが私の狭量の致すところではないか、或は自分の小さな野心のためではないか、と種々思ひ惑ふが故に、夢殿まで赴き救世観音を拝しその仏意をうかゞふのである。これが私の為しうるわづかな隠遁である。
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/ 2018年 9月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば デカルト を理解するために僕らに不足しているものは、常に知恵である。見たところ明瞭で、模倣も容易なら反駁も容易なようだ。しかも、いたるところはほとんど底のしれない感じだ。おそらくだれもこれほどみごとに、おのれのために思いをこらしたものはなかった。あんまり孤独すぎるかもしれない。語っているときの彼はことに孤独だ。彼の言葉は、なにごとも吹聴しない、世のならわしどおりの言葉だ。デカルト は、自分の宗教も情熱も性癖も、ただ一つの言葉さえつくりだしはしなかったが、そういうものはみな一体となって、すべて内からの光に照らされ、あの癖のない自然な言葉に乗って僕らに伝わる。言葉の意味を変えるどころか、一語一語のすべての意味を同時に悟った。人間が当然すべきことをしたまでだ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
世の中には妙な人がゐて、救世観音をみると、あれは朝鮮からの輸入品だといふし、御物を拝すると、これは支那の工芸品だと云つて得得としてゐる。だが輸入自身に意味があるのではない。いかに享けいれ、愛し、信じ、わがものとしたか、この直ぐな純潔さに一切があるのだ。
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/ 2018年 9月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば
(デカルト は、) 組織の改変はしなかったが、革命もなく、新しい道もなく、精神のうちで、すべてを改変したのだから。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
「客観的態度」 で文化政策論などせずに、自分が実際読んだり接したり、あるひは思ひ惑つてゐるところを、胸をひらいて衷心述べることだ。古来優れた為政者や武将たちが、戦ひのあひまに歌を詠じ、絵を愛し、また茶道に身をいれて、そこに痛切の思ひを述べたのは我が美しい国風であつた。
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/ 2018年10月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば
僕らの認識は、事実によって整頓され、事実によって制限されるとだれでもいうが、一般に充分理解されているとはいえぬ。経験とはあらゆる僕らの認識の形式だが、僕らは観念をおきざりにして、経験から出発するわけにもいかないし、ある観念と他の観念とどちらを取るか経験が定めるわけでもない。事実とは、学問により組み立てられ、諸観念、ある意味では、あらゆる観念によって定められた物自身だ。事実をつかむのには周到な用意がいる。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
無常の観念は、人間の生の驚くべき不安定に対する開眼より生ずる。あくまで現世の覚醒者たることだ。(略) 事物の実相について正確さを期する、勁い忍耐からのみ無常の観点は生ずるのであらう。 |
/ 2018年10月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば ここに重い石があるとする、手を離せば落ちる、石を落とすなり、石に僕の手を押しつけるなりさせる原因は、石の重さだという、重さは石のなかにあるという。ところが石のなかにはない、(略) 石が重いとは、石と地球との間に、両者の距離と質量に依存する力が働いている、という意味だ。(略) この重力は、地球のなかにも石のなかにもない両者の間にあって、両者の共有である、僕らにいわせれば、考えられた関係であり、形式だ (略)。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
デッサン の確実な修練を経ない 「印象派」 (即ち絵画における映画) に堕して行く。見物の期待するものも正にそれなのだ。どんな 「物」 が写されたか──その 「物」 の迅速な成立を興じてゐる。かくて自分はみられてゐる、周囲のものはみてゐる──平静な無感覚状態の生産──たしかにこれが技術の世界といふものだらう。しかし秘義の世界ではあるまい。
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/ 2018年11月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 物のなかに閉じこめられた魂というようなものを考えようとはしないはずだ。(略) ものにおける原因、もっと正しくいえば物として原因を扱おうとするには、物を物自体に投げ返す必要がある、生きている肉体という物にも、延長すなわちまったく外的な関係だけを見るようにしなければならない。これが真の知識の鍵だ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
感受性の驚くべき頽廃は現代の特色と云つてもよかろう。しかもそれは個々人の至らなさといふやうなものではない。現代人が寄り集つて、さういふ感覚といふよりは無感覚の性格をつくり出したのだ。(略) あらゆる苦悩に対してすら、今や無感覚の性格はやをら肩から写真機をひきずりおろし、その苦悩に向つて カメラ をさしむけかねない。或は肉眼が カメラ 化したと云つてもよかろう。そして驚くべき迅速な映写と忘却。──至高の精神すらこの巨大な歯車にまきこまれて行く。精神はかゝる地獄を生きねばならぬ。
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/ 2018年11月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 「なんの目的で」 からいかにしてに移る、つまり、さまざまな原因と条件との探究に移る。(略) 幾何学やその他の諸形式に準じて建て直した知覚を、決して忘れないようにしているなら、神学上の観念も、少なくとも指導観念として別に悪いことはない。神が飛翔のために翼を作った、と言って安心している人の精神には、ただ言葉があるだけだが、もしその人が、どういう具合に翼が飛翔のために有効かということを承知しているなら、いわゆる諸原因をきわめて物を理解していることになる。神という作者を一枚加えてみたところで、物についてもっている考えがなに一つ変わるわけではない。(略) 物において、目的を原因に結びつけるものは、まさしく効用の考えだ。仮定された効用とは目的であり、説明された効用とは原因あるいは法則、また、お望みなら説明された物自体ともよばるべきものだからだ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
精神が生存するためには、絶えず自己弁護しなければならぬとは何といふ悲劇であらう。(略) 効用性の宣伝によつて保身する信仰こそ贋物であらう。たとへその効用性が精神のいかなる高貴性を説いたものであつても。
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/ 2018年12月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 自然がどれほど固定しがたいものとなろうとも、再びかえらぬ旋風が四季に代って荒れまわるようなことになろうとも、それは曲がりなりにでも考えられるものであるはずだ。方向、距離、力、速度、質量、張力、圧力、数、代数学、幾何学、そういう不断の支配の手をかりて。(略) こういう自然の諸法則や諸形式は僕らの道具であり、器械であり、星の進路をしらべて、ぎりぎりの正確さまで行きつこうとすれば、星の進路は勢い果てしなく複雑なものになるだろうが、これを捕える直線や円や楕円や力、質量、加速度などという道具は依然として通用する。こういう諸要素は運動自体の諸要素であり、運動は形式に由来するものであって、はじめて目がさめたときの影像によりできあがったものとして与えられたものではない。正しくいえば、法則のない運動は運動とはいえない。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
神道是か、仏法是か、さういふ議論に私は何の興味も感じない。いづれが是なりと非なりと人生苦に変りはあるまい。釈尊の教よりも耶蘇の教よりも、更に深いものは人生苦自体である。そこから発して、見えざる処で慟哭と祈りに一切があるであらうに。そこにのみ何ものかが在 (いま) す。名を言ふことも説き明かすことも出来ないが、感じることだけは出来るといふ世の深さ。何びとも之を奪ふことは出来まい。まづこの根源を思はねばならぬのに、何故宗派と宗旨といふ転倒した立場から論議が始るのか。排仏棄釈をやつてみるとよいと思ふ。何事でもやるがいい。生命の痛苦は絶えないだらう。
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/ 2018年12月15日 / ▲ ページ の トップ / |
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