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● アラン (哲学者) のことば 法則のない運動は運動とはいえない。もう充分に述べたことだが、運動を知覚するとは、一定不変の運動体という考えと連続的に変化する距離という考えとによって変化を整理することだ。最も簡単な知覚においても、運動とは表象され限定されたものであり、分割できないものである。運動自体が当の変化の法則なのであって、この法則が完全になるに準じて、すなわち間段なく物が動いていった道筋をこの法則が明らかにするに準じて、運動はまさしく運動となる、つまり実際の運動となる、運行する物と他のすべての物との関係が限定されていくわけだから。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
すべてを露はにしなければやまぬ無礼の感覚と、自己宣伝して己の存在を示さうとする焦燥と、信仰にとつておそらくこれ以上の危険はあるまい。しかもこの危険を意識せぬほど感覚の麻痺したところに現代文明の性格がある。(略) 即ち文明の利器が精妙になるに比例して、人間の感覚は粗暴になつて行く。機械が正確にになるにつれて、我々の認識は益々不正確になつて行く。
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/ 2019年 1月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 認識はすべて経験によるが、法則はすべて先験的なものだ。(略) ここでもまた考えと物とをしっかり結びつけておくことを忘れてはならない。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
容赦なく一切を機械の餌食とする。そして人間の心は悲しむべきことに之に順応し易い。すべての精神現象は、今や拙劣な俳優の鈍感 カメラマン に対する関係において存続しはじめつゝある。 |
/ 2019年 1月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 悟性の原理と理性のおきてをはっきり区別しておく必要がある。この仕事を最もみごとにやったのが カント で、両者が理路整然と書きわけられている。ここに彼の説を要約し説明しようとは思わないが、最もたいせつな点だけを述べてみよう。数学は、おのずから悟性原理の システム を形成している、言いかえれば、僕らが経験においてどういうものを捕えるにせよ、一定の形式をふまねばならぬ、その形式が無くてはなにものも捕えることができない、そういう形式の数々についての目録を形成しているのである。この事情は次のような一般原理で現わされる、すなわち時間と空間との関係によって、他のいっさいの物と結ばれていないような対象も事実も、経験のうちには絶対にない。完結した システム のなかの変化で、諸変化の間の空隙というものは別だが、なんらかの不変な量の存続を許さないような変化は断じてない。このあとの方の原理が、変化の定義自体であることに、注意したまえ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
信仰の途上における最大の誘惑は、自分だけ一足先に救はれようとする焦燥であらう。信仰に限らず、すべてはかくのごときであるが、最も救はれ難い最低線に赴き、己の裡にもそれを生々と感じる心が何故え難いのであるか。
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/ 2019年 2月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 物とは存在するものだ。物としての変化とは、変化のもとに物は存在するという意味での変化である。ここで問題は、混沌と秩序とのいずれを選ぶかではなく、現実と虚無といずれを選ぶかにある。なぜ虚無というか、僕らのうちの秩序、思い出や愛や望みの秩序も、物の秩序だけにささえられているからだ。だから、ジュール・ラニョオは言った、「我といっさいの物は存在するかしないかどちらかだ」 と。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
求信の第一歩において我々の犯す過失がある。それは、最も神聖な筈の祈り自身にひそんでゐる。人生の痛苦故に人は祈るであらう。(略) しかも祈ることによつてどんな報酬もないと知るまでには時間がかゝる。自己は昔さながらに空想的な自己である。たゞ信心に入つたといふ余計な虚栄が一つ加つただけだ。信そのものが迷ひの所作である。迷ひと自覚するものは幸ひである。多くの場合我々は小さな安心に落着く。少くとも一つの問題は解決したと思ひ易い。そして次の問題は、といふ風に上昇して行く。上昇して行くやうに思ひこむ。(略) 愚かしい演技である。
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/ 2019年 2月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 物としての連続とは因果性自体だということになる。これが悟性の原理に関する証明の様式である。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
何故私は信仰などといふことを考へたのだらう。無常の世に処する自分の心の、何とも云へない惨めな不安定。それが快癒するであらうと思つた錯誤から発してゐるやうだ。己の計量すべきことではないと知りつゝ、やはりどこかで何かを待つてゐるのである。再生と云つてもよい。第二の救世主と云つてもよい。だがこの期待もまた一つの錯誤を含む。不安定に対する凝視が、期待といふ美しい夢によつてさへぎられる。そして期待する心の裡に、明らかに 「自分もまた」 いい位置に昇るであらうといふ──それは精神的の意味だけだが──野心がある。信仰の世界にも立身出世主義といふものはあるのだ。いかに 「精神的」 と弁解してみても。 |
/ 2019年 3月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 理性の原理となると、一段と抽象的な段階にあるといわねばならぬ。すなわち、自然の支持が一段と薄弱なもので、精神はいわば健康上必要な規律として、おのれの好む原理に従うという具合だ。たとえば、既知の秩序では手にあまるような、しかもただ一度しか現れないような事件は、これを事物の気まぐれに帰すよりむしろ想像とか情熱とかの戯れに帰するという類である。(略) 要するになに一つ見のがすまいと注意して外界におこるさまざまな不思議のあとを追うよりむしろさまざまな情熱つまり感動的な意見をつつしむ側に理性の原理はあるのだ。 この種のおきては経験よりむしろ意志に由来するもので、だれもかくかくのおきてがあってどうにもならぬとは決して見なしはしないから、厳守されるというわけにはいかぬ。適切に言えば、判断なるものがこれで、広い意味で道徳上の秩序に属するものだ。したがってこの価値を感ずることのできるのは、情熱の陥穽とか言語の軽佻とかを充分に知った者に限る。言ってしまえば、堅くおのれを持するすることが精神に必要なのである。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
どうしてこんなに神さまが多いのだらう。そして人間はちつとも救はれない。何といふ奇怪な深さであらう。 |
/ 2019年 3月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば これは哲学者の大きな秘密だが、どんな証明も証明自体で一本だちできるものではない。証明は常にどこからか外敵を受けているもので、ただ鉄条網を張りめぐらして防禦しているようでは、さっそく圧倒されてしまうのである。精神は証明の背後にかくれているのでは強い精神といえない、証明の唯中に身を置き、証明を常に激励しているようなものが精神だ。(略) 哲学とはまさしく倫理学であり、空虚な好奇心ではないことを知らねばならぬゆえんだのだ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
信仰そのものが迷ひの所作である。つねに危機の上にのみそれは彷徨ふといふ意味だ。故に 「私は信仰を得た」 と云ふものも、「私は不信の徒である」 と明言するものも、いづれも傲慢で粗暴な自己欺瞞におちいつてゐるのである。むしろ信と不信と、そのあはひの戦慄に人間の受難があるのではなからうか。而して後、彼方よりおのづからに来るものに一切を委ぬべきなのだらう。むろん、何ぴともその時期を予測しえない。神の恩寵は推量しえない。
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/ 2019年 4月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば
深淵にのぞんでまず簡明な運動を投げ、あたかも網が魚類を捕え引き寄せるように、これを試験し複雑化して、ついに運動の正確な目録を編みだすあの精神の働きというものを (略)。メカニスム とはまさしく自由の証明であると同時に、自由の手段ないしは道具である (略)。自然はこのとてつもない システム をささえていてくれるが、この システム を提供してくれはしない。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
それは一つの幻想の放棄を教へつゝ、別の幻想をもたらしたからである。(略) 抑圧された活き物の嘆息は、畢竟 パン の保証によつて消え去るといふ驚くべき独断に達して行つたのであつた。人間の物質的関係こそ一切の基本であると。(略) 人間にとつての実体は人間自身であり、神はたゞ幻想にすぎぬといふ。宗教は、人間が自分自らを中心に動くやうになるまでの間だけ、人間の周囲をめぐる幻想的太陽にすぎないといふ。この自力の確認が我らを 「物質」 と 「生産」 に密着せしめた。(略) 一理論の裡に人間を限定し、刑罰をもつて抑制し、然る後与へられた パン が果して最上の美味であるか。それでも飢ゑよりはましであるか。
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/ 2019年 4月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば
まずなにをおいても、言語のたわむれが、どんなにたくみに精神を陥穽に引き入れるかに感心するがよい。言語をつくりだすためには、それがまず理解されていなければならぬ、だから話すことを学ぶまえにまず話すことを知らねばならぬ、という説をなす者がある。こういう議論こそ詭弁の典型であって、話さないでまず考えることを学ばなかった人が、これを哲学と間違える。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
おまへに食を保証するから、おまへの魂を売れと云ひうるか。人間の弱点を目安に築かれた原理が、生命の嘆きを癒しうるか。人間は果して人間を救ひうるか。厳密にいへば我らは悲惨な存在である。生きんがためには己が魂を売らねばならぬこともある。パン なくしては生きられない。この事実を無視することは出来ない。しかしその直視から、悲惨の原因を 「物質」 に換算し、さうすることによつて悲惨をもてあそぶことが人間に赦されるか。正に万人の弱点につけこんだのだ。「善意」 と思ひこんで為されたことが、罪悪と気づくには鋭敏な心がいる。
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/ 2019年 5月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば さて、言語が社会の子であることを考えてみなければならぬ。人間は最初孤独であったが、しだいに他の人々と提携するようになったというのはおろかな作り話にすぎぬ。いろいろな人の言葉があるが、アガシス の強い言葉引用しておきたい、「ヒース はつねに荒野に生えていたが、人間はつねに社会に住んでいた。」 人間はその誕生以前すでに社会生活をしていたのである。言語は人間と同時に生まれたのであって、僕らが社会における人間の力を感ずるのは、つねに言葉によってである。人々が逃げだせば逃げだす、ということがすなわち話すとかわかるとかいうことだといって、すこしもさしつかえない。そこで模倣によって、というのは教育によってと言うにほかならぬが、さまざまの記号がしぜんと単純化され普遍化されて、社会自体の表現となることを理解したまえ。したがって、さまざまの記号はつねに典礼的記号からなりたつ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
粉飾は剥奪されねばならない。しかも剥奪の後に、だゞ物質関係を基準として働く人間を発見するにすぎなかつたとすれば、これは悪意にみちた復讐であるか、錯誤か、或は人生智の偽らぬ相であるか。遺憾ながら、人間はつねに高貴であるとは限らない。パン 以上のものへ憧れつゝ、奴隷であることも多い。悲惨を悲惨と自覚せず、却てそれが世の実相だと考へないわけにゆかないこともある。この側面からの解決が一切の基本であると。かゝる問題に面して、人間はまさに妥協の一歩前に立つ。この誘惑に勝つか負けるか。
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/ 2019年 5月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 暇なときに人々が出会うと、めいめいの考えを交換するものだが、この交換はいってみれば、既知の諸公式によっておこなわれるのであって、精神はたかだか言葉を楽しんでいるだけだ、音楽の変調でも楽しむように、意外な音でも聞こえてこなければべつにおもしろいことはないといったふうをしている。(略) 精神がこれに反逆してみたところで、結局不毛な戦いに終わる。(略) 論戦に勝つことによってなんらかの真理が樹立された例はかつてなかった、そんなことがあったと信じるのは子供である。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
他に先んじて、己の裡に神性あるひは仏性を感受したといふ悦びが、人間の不安定からの韜晦をもたらしたとすればどうであるか。(略) 自分の悲惨だけは救はれたやうに錯覚する。そして一つの教にすがりつき、そこから他人を非常に至らぬものとして攻撃し或は説教するのである。
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/ 2019年 6月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 一般に論理学とよばれている純粋な修辞学の関するところは、ただ命題の等価というものである。いいかえれば種々さまざまな言葉における意味の一致という点である。またこうもいえる。純粋な修辞学は一つあるいは若干の命題から、対象を念頭におかず、ただ言語だけにたよって、新しい言いかたをどうしたら引き出すことができるかを調査するものだ。つまりすべての正しい人たちは幸福だ、という命題から、若干の幸福な人たちは正しい人たちだ、は引き出せるが、すべての幸福な人たちは正しい人たちだ、は引き出せない。しかし正しくない人たちはだれも幸福ではない、という否定体からは、幸福な人たちはだれも正しくない人たちではない、が引き出せる。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
人間の悲惨を己の外部にあるものとして眺め、戒律や道徳をもつて責める。そして必ず何らかの意味で善人と悪人とを区別断定しなければやまない。それが求信の行から得た当然の権利であり分別であるかのやうに振舞ふ。賭けた以上は元金 (もとで) をとらなければ損なのか。──かうしてかの無神論とは正反対の面から人間の悲惨をもてあそぶ。己は救はれたと思ひこむ幻想が傲慢な所作を生むのだ。凡そ古典を求むるものの先づ陥いる穽はこれなのである。主義の如何に拘らず指導者──先駆者意識もまた然り。
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/ 2019年 6月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 一つの書かれた思想から、もう一つの書かれた思想を、対象に無関心で、引き出すことは悟性にゆるされてはいない。有名な同一性の原理は、論理の研究において、ただ確定した言語だけに働きかけて認識の世界をひろげようとする理論家への警告として、おのずから姿を現わすのである。知覚を欠いたあらゆる推論は、精妙になるにしたがって必ずあやまりをふくんでくるようになる。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
一刻も早く悟りや幸福や解決がほしいのである。出来るだけ安全な道をとほつて、しかも他人の尊敬をかちえたいものは、聖典や古典を語るがいゝ。求信の途上において虚栄に見舞はれないものは稀であらう。聖典や古典の権威にふれて、小心な人間が抱く幻想ほど手に負へぬものはない。無神論とは別の意味で、神を己が幻想とすることはつねにありうるのだ。
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/ 2019年 7月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 真の科学は近似性によってすなわちあやまりを量の上で制限することによって、自然の事物をとらえるが、通俗な考え方は、経験の力にたよって、一種の蓋然性に到達する。累積によるこの種の証明は、帰納法としばしば呼ばれる。秩序ある探究にあっては、理論が経験を充分に厳格に枠に入れていれば、唯一の経験でも証明の役に立つ、また、それでも経験をいくどもくり返してみるのは、証明を確立するためというよりむしろ一段とはっきり知覚するためだ、そういうことを人々は忘れがちである。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
信を求むることによつて、神に近づいたと感ずるよりも、いかに神から遠く離れた存在であるかを絶えず知るやう努めること、(略) 即ち天国の方へ向いてゐた己が身をば、地獄の方へ強引に転換せしむる──実はこの転換せしむる力に、神の明智があらはれてゐるのだと云つてもよいのだ。求信はそのはじめにおいて、恩寵を享けるであらうといふ快い喜悦に我らを導く。だがさういふ期待をまづ激しく裏切るものは神自身なのである。神の裏切りを経験することが、求信における最初の試練となるであらう。
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/ 2019年 7月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 僕という言葉は、現われていようが隠れていようが、僕のあらゆる思想の主格だ。現在、過去、未来にわたり、僕がなにを描こうとし、なにを作ろうとしようとも、僕が形成するものあるいは僕が保持しているものは、常に僕についてのある観念であり、同時に僕の感ずる感情である。僕は変わる、僕は老いる、僕は否定する、僕は改宗する、諸命題の主格はいつも同じ言葉だ。僕はもはや僕ではない、僕は他人だ、というようになれば、命題の自壊だ。もっと空想的なものになると、僕は二人だ、なぜなら両方とも僕という不変なものだからというようなものになる。このきわめて自然は論理から、僕は存在しないという命題は不可能になる。つまり言葉の力によって僕は不滅なわけだ。これが霊魂不滅を証明する議論の根底にあるものだ。これが、生涯を通じて常に同一な僕を僕らに見つけさせる自称経験の原文である。他人からあるいはすべてのモノから截然と区別をつけて、僕のからだや行為をみごとに表現するこの僕というささやかな言葉は、ひとたびこれを自分に対立させたり、自分から区別したり、いわば自分で自分の葬式に出かけるようなことをすると、たちまち弁証法の源が姿を現わす。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
求信の当初において我々は、選ばれた人の悟りの世界に憧れ、その教をもつてわが身を守らうとする。そして追放されたものから自分を区別して考へがちだ。けれども是は求信において誰しも一度は陥いる最も大きな錯誤なのである。(略) いつの間にか 「追放されたもの」 の存在を忘れてしまふ。少くとも己は免れつゝあるという錯誤。自己反省といふ空想の為せる業だ。人間の思慮によつて定められた善悪是非の、いかに不安定で微少なものにすぎぬかを知らうとしない。
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/ 2019年 8月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば
ゲーテ が メフィストフェレス に、「ぶどう酒はぶどうの実からできる、ぶどうの実はぶどうの樹からできる、ぶどうの樹は木だ、だからぶどう酒は木からできる」 と言わせたのは偶然ではない。これがあらゆる魔法の主題なのだ。習慣的な信仰はむしろ動物のもので、語られた証明こそ人間的な信仰なのである。原始人の奇怪な迷信の数々は、充分に研究されているが、みな、軽卒な帰納法に近いよりむしろ抽象的な演繹的な神学に似ているのである。あらゆる魔術は一種の弁証法だ。だからあらゆる弁証法が魔術だとしても驚くにはあたらないのである。(略) |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
昂揚した刹那の決意は、気分として空想化され、或は 「道徳」 として形式化され易い。そして途方もない極限の言葉だけをもてあそぶ。
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/ 2019年 8月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば
他人からあるいはすべての物から截然と区別をつけて、僕のからだや行為をみごとに表現するこの僕というささやかな言葉は、ひとたびこれを自分に対立されたり、自分から区別したり、いわば自分で自分の葬式に出かけるようなことをすると、たちまち弁証法の源が姿を現わす。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
「無私」 を思ふものは 「私」 の地獄について知悉してゐなければならぬ筈だ。神の血統を承け継ぐとは、永久に追放されたものの血統を承け継ぐことである。即ち人間の救ひは保証出来ぬといふ課題を。即ち絶望を。こゝにおいて懐疑は一つの自己犠牲である。永遠に救はれざるものの裡以外、どこに神の証明の場があらう。神自身にあるのではない。
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/ 2019年 9月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば いわゆる実験心理学あるいは生理学的心理学というものの骨組の脆弱なことだ。「自己とは意識の諸状態の集合にほかならぬ」 おそらくこのくらい教訓に富む間違いもあるまい。この ヒューム の公式は、破壊にかけてはじつに勇敢だったが、再建にかけてはいかにも無邪気だったこの人物の限界を明らかに語っている。これでは意識の状態は事物の格好でうろつくものだということになるではないか。ヒューム の自称経験主義は、その細部に至るまで、弁証法的だ。彼は、石とか短刀とかくだものとかいうのと同じ調子で、感情とか心像とか記憶とかという。そしてこういうものを寄せ集めて、じょうずに精神を縫いあげてみせる。だが、じょうずにもへたにも縫い上げられた精神というものはこの世にない。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
即ち死の直前、奇蹟はつひにあらわれなかつた。これは驚くべきことではなからうか。二人の強盗とともに十字架に苦悶してゐたとき、祭司長・学者・長老・往来のものどもは口々に嘲弄して言つた。「汝もし神の子ならば怒れを救へ、十字架より下りよ」「人を救ひて己を救ふこと能はず。彼は イスラエル の王なり。いま十字架より下りよかし、然らば我ら彼を信ぜん」 と。これに対する耶蘇の断末魔の叫びは、世にも悲痛なものであつた。「わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし」──そして息絶えたのである。跛行者を立たしめ、石を変じて パン とした彼の奇蹟は、激甚な祈りにも拘らずつひにあらはれなかつたのである。万事をはれり。私にはこれが耶蘇自身における最大の 「奇蹟」 のやうに思へる。 |
/ 2019年 9月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば
確かに ある精妙な機械は蟻なみには みごとに動くが、考えはしない。ましてや、この機械のある部分が知覚だとか、ある部分は記憶だとか感情だとかいうことはできない。すべての知覚はこの世界と同じ広がりをもっている、いたるところで感情であり、記憶であり、予想である。思想は自己の内にも外にもない。自己の外というものもまた考えられるし、内外をいっしょにしたものも常に考えられるからだ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
人は奇蹟ゆゑに必ずしも彼を愛したのではない。奇蹟のない無慙な死によつて彼を愛したのである。私にはこれが人間の具現した最大の 「奇蹟」 のやうに思へる。(略) |
/ 2019年10月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 最も幸福なのは、適当に学ぶ余裕は充分にありながら、すべてを知りつくそうというむやみな野心に悩まされない人たちで、彼らは、物事を素直にむりなく考える。じつを言えばそういう精神の動きがいちばん正しいので、そういう精神は、他人の証明などは、いわば余計なお世話だと考える。(略) 彼らは、質問責めにもあい、相手の言い分をいちいち聞いて、理解もするが、証明の押売りにつけこまれぬような断固たる注意力で、各人の言い分を結びあわせてまとめ上げぬ、そういう術を知っているのだ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
つねに最後のものであれ、一切の赦されざるもの、呪はれたるもの、その業苦の海に身を没し、最深の地盤に御身の足が確乎とつくやうに、さうなるまで沈んで行くがいゝ。(略) 最低の地獄を継いで崩れざる人柱たること、これを捨身といふ。(略)──人生に耐へよ。
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/ 2019年10月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば たとえば正確な科学上の証明のようなものでも、僕にとって眼前の死物にすぎないこともしばしばある。その証明が立派だと、僕は承知している、が、その証明は立派だとは僕には証明してはくれない。その証明を蘇生させるにはよほどの骨折りが必要だ。放っておけばいよいよ僕から遠ざかるものだ。しかし蘇生するときにはいつも新しい姿を現わす、汚れない姿を現わす。もし諸君にそんな経験がないなら、先生として プラトン を選びたまえ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
様々の仏体のなかでも、観音像にはとくに美貌と柔軟性を追究したものが多く、形相から云へば厳粛な観音像をもととするが、これに艶麗な天女形を加味し、云はば東洋の ヴィーナス とでもいふべき位置を占めてゐる。(略) 飛鳥仏に宿る祈りは厳しく思索的であり、白鳳仏に宿る祈りは柔軟に音楽的であり、天平仏となればこれに舞踊性が加はる。仏師の芸術的才腕の推移を示すとともに、信仰の微妙に消化されて行く相を語つてゐるのはなからうか。
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/ 2019年11月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 証明は人間の業である。宇宙は少なくともあるがままのものだ。よろしい。だが宇宙はあるがままの姿では現われぬ。目をあけて見るがよい、はいってくるものは誤りに満ち満ちた世界である。あらゆる物が立直しを望んでいる。経験は粗大な間違いを不手ぎわに正すだけだ。(略) ある文学者が、星の流れが東から西へと回転すると聞いて驚き、「回っていたのなら、そうとわかっているはずだが」 と言った。しかし、星が回るのが見える見えないがたいしたことか。惑星の運動はもっと見えない。僕等の情熱や思い出や夢が、この天空の画面をもっと混乱させている。誤りの多様を考え、信仰の雑多を考えれば、誤りとはいやむしろ思想の混乱、不統一、動揺とは、僕らの自然的状態だと充分なっとくできるだろう。この無秩序からのがれるには、ある命令にたよるほかはない。命令はまず拒絶であり懐疑であり期待である。「そのままでは互いに前後の関係もない事物のうちにさえ秩序を仮定して」 とは デカルト の言葉だ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
教会にもぞくせず、受洗もせず、しかも聖書を自分なりに愛読してきたことは、「文学的」 にゆるされるかもれしないが、それだけ大きな危険を伴ふ。危険や不安を弄ぶにこれほど都合のよいものはないからだ。(略) 更に一歩まちがふと聖書は恰好な文学的 アクセサリー になるだらう。
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/ 2019年11月15日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば 道徳とか人格の完成とかの問題となると、少し考えれば、次のことは理解できるはずだ、すなわち、そういうものは存在していない、ただ考えられるものだ。しかも望まれなければ、考えられもしない、もっとはっきり言えば、経験の教えに反対しなければ考えられもしない、と。(略) 人間の間に正義は存在していない、正義は作り出されねばならぬものだということは明瞭だ。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
自己を悪徳の中に堕さうとも、悪徳の実体を描き出さうといふ意志は、或は神の証明のための逆手なのかもしれない。
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/ 2019年12月 1日 / ▲ ページ の トップ / |
● アラン (哲学者) のことば しかし、ここに仮定された内奥の性格なるものは抽象的偶像にすぎない、そういうものは弁証法的心理学の研究に似つかわしいものだ。ふつうの宗教が弁別しているように、さいわいなことに、人間は、自分の内奥の性格などよりも自分の行為に頼っているものである。 |
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亀井勝一郎 (批評家) のことば
彼 (ミレー、画家) の憎んだのは サロン の芸術である。或は芸術の サロン 化である。そこには サロン の快楽性に対する本能的な反撥もあったやうだ。
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/ 2019年12月15日 / ▲ ページ の トップ / |
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