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 ●  アラン (哲学者) のことば

  確かに、僕らは、どういうふうに自分らの思想が肉体の運動に翻訳されるか知らない、また将来もおそらく知ることはできまい。僕らにわかっているのは、肉体の動きがなくては、思想を形作ることはできないということだけだ。この緊密な関係でいちばんより知られているところ、すなわち判断によって僕らは僕らの筋肉を動かすということを考えるだけで、すでに、想像力の諸結果の大部分を、いやおそらくは全部を説明している。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  しかし今ふりかへつてみて、非常に遺憾だと思ふのは、せつかく仏教や仏教芸術を学びながら、もつと視野をひろくして、東洋全体に眼をあけなかつたことである。ことにお隣の中国に対しては、全く無智、無関心であり、それのみならず侮蔑感さへ抱いてゐた。近代ヨーロッパの文化に対しては卑屈なほどこれを讃美しながら、東洋に対しては優越感を抱き、まるで自分が東洋人でないかのごとく考へてゐた。


/ 2021年 1月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  想像力は、空想を生む肉体の運動がなければ空想裡になんら現実的なものをもつことができない。(略) 内に蔵した心配は、身体を動かしはしないが、烈しい努力と同様に人を疲らす。これがために生じた諸結果は、今度はさまざまな徴候をなって現われる。恐怖によって生じたさまざまな結果が、恐怖心を増大さす。思想は生命の首を絞める。(略) 考えないようにする、こういうことは、考えているよりはるかに容易な仕事だ。ことわっておくが、そんなことはできないと信じこめば、実際に不可能事になる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  私は二十代にかいたものはむろん、つい昨日書いたものでも、過ぎ去つた文章は悉く意にみたない。何かを書くことは悦びではあるが、また悔恨の種になるものである。それだからこそ次から次へと執念ふかく書きつゞけるとも云へるわけだが、表現の苦心だけは一生かゝつても減らないと思ふ。小説家もさうである。十年二十年と小説をかいてゐると、誰でも一応は表現の技術を身につけるわけだが、そこで満足してゐると忽ち腕がおちてしまふ。語り難い難問題にいつもぶつかつて、一番表現しにくいところで表現しようと身もだえしてゐなければならない。


/ 2021年 1月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  およそ恐怖には、恐怖に対する恐怖というものしかないのである。だれでも承知しているところだが、行動は恐怖心を追い払うし、また危険がはっきりわかれば恐怖が静まることも少なくない、そのかわり明瞭な知覚が欠けていると、たとえば演説とか試験とかが近づくにつれてはかりがたいおそれを感ずるように、恐怖の念は、おのずから養われるものだ。(略) 恐怖が始まる、ぎょっとしては ほっとする、そういう小さな驚きがいくつも重なって、恐怖は増大する、要するに行為の伴わなぬ警戒が相重なって恐怖は大きくなる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  同時にいつかは終局に達するであらうと考へるのも駄目で、一歩一歩がそのまゝ終局のつもりで書かねばならぬ。(略) 芭蕉の言つたやうに、わが句作はすべて辞世といふ覚悟がなければならない。我々凡庸な人間には、さういふ張りつめた心を持続することは出来ないにしても、一作一作が終焉のきざみであることは事実だから仕方がない。(略) 人間はその永遠を思ひつゝ、やはり一歩を大切にして行かねばならぬわけである。


/ 2021年 2月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  この病気から救ってくれるものは行動だ、不安と躊躇とは病勢を悪化する。手を下すことができず待っているというのがすでに苦痛だ、恐怖とは本来、これからなにをしたらよいかがわからずに待っていることにほかならぬ。しかし、この場合、こまごました、むずかしいが、よく心得た行為をあれこれとやって気がまえていれば、やがて心は落ち着く、(略)

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  私はひまさへあれば古今の名人の言葉を読むことにしてゐる。私の最も尊敬する人物とは、どの道でもいゝ、そこで四十年も五十年も年期をいれた達人、つまり熟練者である。私はさういふ人の言葉を自分の座右の銘にしてゐる。(略)隠れたところに驚くべき達人がゐて、感動するやうな言葉を何げなく吐くものである。そしてさういふ人が日本の背骨であり、支柱であると私は思つてゐる。私は自分が文章をかくときも、これらの言葉を味ひつゝ、自分の技術のはげましとしてゐる。


/ 2021年 2月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  ここまでくると、自分自身を知るとはどういう意味かはっきりわかる。自分が弱く無力だと思えば実際にそうなってしまうのだ。自分自身を知って、結局行為するようになりはしない、行為はしばしば希望以上のものだから、苦しむのが落ちだ。そういうしだいで、自己観察というのが、まさしく一種の狂気の端緒にほかならないのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  ものを書いてゐると、傑作意識につきまとはれやすいものである。何かすばらしい傑作を書かう、人をあつと言はせよう、鋭さうな言葉や機智にみちた言葉を書かう、そんな気になるものであるが、さういふときなど、私は最初に挙げた 「徒然草」 の双六の名人の言葉を思ひ出す。傑作を書かうと思つてものを書くべからず、駄作を書くまいと思つて書け、といふ風に考へる。つまり地味で、着実で、ほんたうに自分の考へたこと感じたことを、出来るだけ正確に書くことを心がける。どんなに平凡でも、その点は着実にかいて、決して人を脅かすやうな文句や過度の飾りや、よけいな形容詞を使ふまいと心がける。むろんそのとほりにはゆかないが、しかしほんたうに熟練してくるにつれて、文章は簡潔に正確になるものである。


/ 2021年 3月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  怒りは恐れから生れがちなものだ。(略) これは力いっぱいわめいている子供でも見ればよくわかることで、わめく苦しさと耳に はいるわめき声とにあおられていよいよわめくのである。いったいそこにあるものは怒りか、それとも恐れか、だれも知らない、おそらく両方の混合だ。これが大人となると、どんな怒りにでも常に自己に対する ある恐れがあり、同時に、怒れば救われるといったような安心への希望がある。(略) しかし、怒りにしても効果をおさめるには、明察がいるし、あるていどの自己統御もいるわけで、だから プラトン も、猟師に犬が役立つように、怒りは勇気の手助けをすると言った。
 しかし、怒りは、手足や言語のように、僕らの注文どおりになるものではない。怒りのために、思わぬところまで引きずられていくのはだれも承知している。また、怒りがもはやただ神経的な痙攣や発作ではなくなってしまうと、怒りのうちには、おそらく当人が白状する以上の粉飾があるものだ。人間は腹を立てることを学ぶ、腹立ちをどう持ってまわろうかを学ぶ、なにごとであれ学ぶように。自分を反省しながら行動をおこす、すなわち自在に力をふるいながら、しかもなにごとができるか正確に知らずに行動をおこすと、たちまちそこに怒りが現われるだろう。(略) だから、真の即興には恐れが先立ち、常に怒りが伴うというわけになる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  私の家へは小説の志望者はたくさん来るが、評論を書かうといふ人はめつたに来ない。何かむづかしく勉強して、むづかしい表現をとらねばならぬやうに考へてゐるらしいが、決してさういうものではない。私はさういふ人に、自分の精神生活の一断面を素直にかくこと、或は自分の尊敬する作家の作品論か、作家論をかくことをすゝめる。尊敬のあるところ必ず愛情があり、愛情のあるところ必ず人をうつものがある。


/ 2021年 3月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  充分予見せずに、やっつけようとする際には、いつでもそこに少しばかりの怒りがあるはずだろう。恐怖を押しておこなおうとすることが、そもそも怒りそのものだといえよう。(略) 思いきって言えないことが言いたいということと怒るということとは同じものだ。臆病者やうそつきに共通したあの赤面というものもおそらく内攻した怒りなのだ。(略)相手を傷つけやしないか相手から悪く思われやしないかという恐れのために、怒りの助けをかりなければ思い切って恋愛行為ができないという始末になるのだ。ところで、どんな結果を見せつけられようが、僕にはどうも憎悪というものは信じがたい、愛とおそれとがあれば僕らの罪悪の説明には充分なのである。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  尊敬も愛情も興味もない題材の場合は、どんなに工夫したところでいゝものが出来る筈がない。また色々の本を参考にして、それをぬき書きして間にあはせようとする人も多いが、どんなに拙くとも自分の感じたことを率直にかくことから始めなければ、少なくとも文学の場合は害毒のみ多い。(略) いつも ペン をとつてゐなければ、表現力は養はれないものである。(略) 書くこともまた長年月の熟練を要する仕事だからである。


/ 2021年 4月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  怒りは常に自分に対する恐れだ、まさしくこれからしようとすること、いま、準備中だと感ずることに対する恐れである。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  人からちよつとほめられると大へんうぬぼれるし、人からちよつとけなされると忽ち失望するし、人間は自己について実に不安定である。自己の才能について空想的になりやすい。文学は我々の空想力を甚だ刺戟するもので、いゝ作品をよむと、自分も書きたいと思ひ、筆をとるのだが、しかし天才とか達人の作品はすべて長い間の努力、熟練のたまものであることを忘れてはならない。空想や インスピレーション にたよつてものを書かうと思つても駄目である。やはり表現上の異常なまでの苦心、そこでの知性と感情の極度に精密な計量がなくては、決して作品は出来あがらないのである。詩でも小説でも評論でも同じことである。


/ 2021年 4月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  僕は、憎悪を怒りの原因というよりむしろ結果だと考える。憎むとは、自分がいらだつのを見越すことだ。(略) 怒りを我慢するのはむずかしいが、怒りから憎悪に飛び移ることは賢者が決してやらないことだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  文学を志す人、或は文学好きの人に、案外怠け者が多いといふことである。文学とはやはり一種の学問である。自分の経験や周囲の事件をたゞ書くのではなく、ひまさへあれば自分の範となるに足る古人先輩の作品に接して、これを学ぶ必要がある。(略) 誰か尊敬する人をひとり選んで模倣することが必要である。独創的たらんとするよりは、尊敬する人の前に自己を放棄して、専ら模倣することが、結局人間を独創的たらしめるのである。模倣のうちにすでにその人の能力はあらはれてくる。高く模倣する人もあり、低く模倣する人もある。模倣を実は非常に困難なことなのだ。さういふ点で勉強は一刻も忘れてはならぬ。


/ 2021年 5月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  最大の不幸はおそらく正義は権力によってできあがるというところにある、人は、ために、正義をにくみ、悪を愛するに至るからだ。しかし、この事情には、たちのよくない混同があるだけだ。つまり、思想はあくまでも法を信じてゆずらない、一方肉体は肉体で行為を要求する、この二つのものの混同だ、そう考えれば、この不幸にやみに、どうやら微光がさすのであって、怒りが思索の務めを明かすこともある。正義の復讐の成るまえに眠ってはならぬ、と感情は言うが、じつはまず眠らなければいけないのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  私は多面的に色々のものを摂取してきた。文学を学ぶことは人生を学ぶことであり、人生いかに生くべきかを問ふことであり、その意味は決して単純ではない (略)。そして与へられた時代の苦しみと人生の苦しみを、まともに背負つて、よろめきながらも生きてゆきたいと思つてゐるのである。
  現代は云ふまでもなく、日本にとつて大へんな苦難の時代である。かういふ時代には過去のものは美しくうらやましくみえるものである。しかし過去の芸術家も宗教人も、やはりその時代の苦悩はまともに背負つて生きたわけで、時代苦や人生苦を味ふ点では変わらなかつたであらう。人一倍感じやすい人々にとつて、楽な環境などある筈はない。どんな時代、どんな環境にめぐまれても、与へられただけのものには不満を感じ、それに抵抗し、孤独において仕事を残したのである。


/ 2021年 5月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  (略) 僕になかなかいいことを言ってくれた。他人の考えを変える思想の力とは、自分には一種の暴力に思われた、と。もっともだ。多数人にとって、思想とは職人のようなもので、保護者を持っている方が勝つに決まったものだ。なんとかして僕をものにしようとかかる作家は、実際、僕は大きらいだ。能弁の無価値な理由の一つもそこにある。精神は孤独でなければならぬ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  どんなときに批評家としての生き甲斐を一番感じるかと云へば、文学の場合には、何と云つても感動した作品に出会ふこと、その作者から直接に教をうけるときである。そしてその作者の肖像を描くことが喜びである。批評の最高はこの意味で云ふなら「讃歌」をかくことにつきると云つてよい。随分悪口もかくし、悪口も云はれるが、批評家としての喜びは何と云つても快く「讃歌」を書けるときであり、私はそれを人生の幸福と思つてゐる。


/ 2021年 6月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  戦いはあらゆる情熱の終末であり、いわば解放だ。情熱はみなそこへいく。めいめいがただ機会を待ちかまえているにすぎない。恋人が不貞な相手を罰しようと思うとか、富者が貧者をあるいは貧者が富者を罰しよう、あるいは不正の徒が正義の徒を、正義の人が不正な人間を罰したいと思うとかいう状態は、みな真に平和な状態ではない。そういう際には、思想はもはやただいろいろなとげにさされて不眠の状態を続けている。そこで自然の諸原因が戦いのうちに戦いにそむくものも投げ入れたのだ。とげにさされた思想は、なにか大きな衝動とか無碍の怒りとかがなければ収りがつかなかったのだ。(略) 戦いは一つの解決ではない、戦いと解決とは同じものだ。嫉妬に燃えた男は、喜びに燃えて女を殺す、こわくなるのは殺してからだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  私は宗教に関心を深め、文明批評に興味をもち、人生論とか恋愛論もかき、また古典の地を訪れて古美術を語ることも楽しみにしてゐるわけで、その上文学批評もやるので、いかにも多才のやうにみえるかもしれないが、決してさうではない。人生いかに生きるかといふ唯ひとつの問ひから出てくることで、貫くものは一つである。表現の様式は異つても、表現上の苦労をかさねてゐる点ではすこしも他の文学者と異つてゐるわけではない。私は更に視野をひろくし、山積する日本の様々の問題にとり組んで行きたいと思つてゐる。


/ 2021年 6月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  どうやら人間は泣くことを学ぶものらしい。どうにもこうにもならなくなり、われとわが身に腹がたってくると、人は涙を求める。(略) 涙に身をまかせてしまえば、人の命をつるしあげ、すぐにも息の根を止めかねない絶対的な絶望からは救われるが、同時に自分の無力を身にしみて味わわされる。これは立ち上がろうと唐突な努力を試みてはまたくずれ落ちるあの動きによく現われている。ただし、反省と判断との力で、人間はこの種のいたましいあがきを、純然たる メカニスム の手びきにわたす、つまり、自然の手にそれだけのことをさせてやるのだ。そのとき、人間は嗚咽せずに泣く、涙をとおすと、おのれの不幸がいっそう見わけられさえする、こうなればちょうど雹害のあとの農夫のように、すでに人はおのれの不幸に制限を付している。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  上代において 「東洋」 を学んだときは、周知のとおり儒教と仏教という源泉思想にまず直面した。この二代思想の伝来によって上代史は大きく転回している。思想が時代をつくるのだ。同様に、現代において、「西洋」 に立向うときには、必ず キリスト 教と ギリシャ 精神に直接参入しなければならないのは当然であろう。


/ 2021年 7月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  涙の羞恥というものがあって、礼儀の上から言っても人前ではあまり泣かぬものとされている。これはあたりまえで、人前であまり泣くのは、相手が隠したがっているかもしれぬ苦しみを無遠慮に尋ねだすことだからだ。だから喪中の婦人は面衣をまとう。(略) 涙についていろいろ述べていると読者の胸裡に、こんどは正気の不幸という一種の不幸がうかびあがるだろう。そういう不幸は、思慮ある哲学者の扱わぬものだとはすでに述べたはずだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  外国文学を専門としながら、キリスト 教に無関心でいられるということも考えてみれば奇妙な現象だ。「西洋」 を学んだ様々の専門家が、互に共通の広場をもたない一つの理由も、個々の部分は学んだが、背景となる二大源泉思想 (キリスト 教と ギリシャ 精神) に無関心であったからではなかろうか。


/ 2021年 7月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  疑心が疑心を呼ぶように、微笑は微笑を目ざめさす。微笑は、他人にわが身をかえりみて安堵させ、すべてのものが微笑のまわりに落ち着く。幸福な人が、すべてが自分にほほえみかけたというのも、もっともなことだ。見知らぬ他人の苦痛も、微笑でいやしてやることもできる。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  エホバ は何よりもまず怒りの神である。


/ 2021年 8月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  さまざまな情熱におぼれないようにする、なにごとにつけてこれが精神の力だ。(略) 最も深い意味での精神は、微笑自体のうちにあるのだ。なぜかというと、みずから制限してはるかかなたに置いたものをみて仰天してしまうのは、人間の暗愚の最も隠微な最後の現われだからだ。この恐怖のうちにすべての偶像崇拝がある。これに反し、神はおのれの姿を見て微笑する。形を成就してこれを解説する動きはそこにある。あらゆる偉大さは、準備された力の盛りあがるところに、易々として成るものだ。そのような人の風格ないしは表現こそ、その報酬だ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  エホバ の愛は、はじめから赦すための愛ではない。十誡に示されたようにまず神の正義をうちたて、その正義が実行されるかどうか、実行されないところに対しては容赦なくこれを裁断するという云わば神の義が中心である。その愛とは義の愛である。愛の故に 「義」 はいささかもゆるがせにされない。(略) 同時に キリスト 教の固有の 「非寛容」 がここにみられるであろう。それは頑固とか偏狭とはちがう。「義」 のために妥協をゆるさない精神である。人間がこれを行使するときはむろん危険だ。あくまでも神の義であり、人間としてはそれへの祈りと随順がゆるされるだけであろう。


/ 2021年 8月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  人は意志の力で笑うこともできる。ことに微笑することができる。この心の動きは情熱に抗していちばん強く働くもので、微笑こそ意志の、というのはもう前にも言ったはずだが、理性の本質の最高の標識だとさえ言いたい。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  唯一の神に対する帰依の絶対性が要求されていることである。ギリシャ においても、また日本においても、宗教は多神教的である。様々な神が存在し、またそれにたいする解釈も各人に自由意志による面が多い。これはある意味では信仰の自由性を保つ上に大切なことにちがいないが、しかしそのために信仰が純化されるかどうか、反面の危惧が出てくる。各人のほしいままな解釈がはびこり、人間の心が分散する危険が生ずるのではなかろうか。
  これにたいして エホバ の神は強烈な統一力を振るものである。エホバ 以外の何ものをも神としてはならず、また各人は自己のためにいかなる偶像をもつくってはならない。信仰の自由の名において様々な偶像をつくるものに対しては、さきに述べたように嫉みの神として痛烈な復讐を行うのである。


/ 2021年 9月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  人間ぎらいは、いちばん美しい道徳はまたいちばんふつうな道徳だということを率直に考えるべきだ、そうすればこの人間という高貴な種が好きになるだろうし、あわせて自分自身もかわいくなるだろう。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  信仰の強烈な統一は、反面に必ずその形式化を生じ、信仰が生硬なものになる危険が生ずるからである。そのために、外部にあらわれない内面の信仰の深さを強調する必要があったのであろう。エホバ の名を妄に口にあぐべからずとは、信仰における沈黙の尊さを示したものであり、信仰の外的誇示を厳しく戒めたものと解してよかろう。この点は新約聖書における キリスト の態度に、より深いかたちで、あらわれている。


/ 2021年 9月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  この恐怖の小さな世界もただ君の手でささえられてこそ一つの世界であり、しかも君の恐怖の念はただ君の勇気にささえられて立っているものだからだ。ここには地獄落ちの道開けている、恐怖に屈する者は、思想のないやみに落ちる。さて諸君は道徳的意識とは意識自体にほかならぬ、ということがなっとくしたくはないか。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  「我ら エジプト の地において肉の鍋の側に坐り飽くまで パン を食らひし時に、エホバ の手によりて死にたらば善 (よか) りしものを、汝はこの曠野に我らを導き出してこの全会を飢えに死なしめんとするなり」
 これは イスラエル の民が奴隷状態から脱しようとして苦難の最中に、その指導者 モーゼ に向って放ったうらみの言葉である。ここに奴隷というものの本質がある。たとえ自分では奴隷と思っていなくても、困難の回避によって何ものかに束縛されている方が楽だと思う人間の通有性かもしれない。惰性の恐ろしさと云ってもよい。


/ 2021年10月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  恐怖の念をおこさせるものは正しく想像だ、想像物の不安定だ、まぼろしの原因でもあり同時に結果でもある唐突なつぎ穂のない心の動きだ、要するに、事物の力につながりがもてず、ただ事物の提供するやくざな手がかりに頼っている行為上の無力が恐怖の種を作るのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  ついに釈放され脱出しても、(略) エホバ は彼らの前途に決して安易な道はおかない。救いではなく、次々と試練をおく。同時に人間の習慣性がいかに根ぶかく強いものであるか。イスラエル の民は脱出のための苦難よりは、むしろ奴隷であることの安易さを選ぶと言っているのである。あらゆる意味で困難の回避こそ 「奴隷状態」 というもので、エホバ は様々の奇蹟を行って彼らを救うが、その次には更に倍加した困難を課する。奴隷から神の選民に至る道のいかに険しいかを、「出 エジプト 記」 ほど巧みに語っているものはないであろう。そして最後にはあの峻烈な十誡が下されるのである。


/ 2021年10月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  人はただ怒りによって相手を憎む、怒りとは底を割れば恐怖である。僕は僕に恐怖の念をおこさせた人間を憎む。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  指導者と民衆の結合がいかに困難であり、また指導者の先見の明も常に民衆に理解されるとは限らず、逆に民衆のうらみの対象となることすらあることを 「出 エジプト 記」 は語っている。モーゼ の性格はこの困難の中で形成される。彼は 「耐える人」 である。神への忍従は民衆への忍従を意味した。迷える イスラエル の民の不平不満に対して、彼は忍んであらゆる方法をつくして導いている。それにふさわしい性格の人であったらしい。エホバ に言う彼の言葉に、こういう一句がある。「わが主よ、我はもと言葉に敏き人にあらず」 「我は口重く舌重き者なり」 (第四章) と。民を率いるにふさわしい指導者としての雄弁をもちあわせなかったのである。


/ 2021年11月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  世の中は思いきってやる機会にことをかかぬものだ。思いきって真実の価値を評価すること、警察官がどんなにえらかろうと、警察官は警察官だ、うそつきはうそつきだ、おだて屋はおだて屋だ、と評価すること、しかもすべてを精神にしたがって評価して、明察の力によってすべてを許すというところまでいく。これが戦争よりもっと冒険なのだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  「進歩」 を無条件に信ずることは出来ない。知恵が増すにつれて憂いもまた多くなる。そして未来についての 「言葉」 だけが涯もなく空転しているようにみえる。文明の発達と饒舌は不可分にむすびついているらしい。


/ 2021年11月15日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  古代人は、伝統的な知恵の力で、放縦の感激や饗宴の興奮のその場限りの楽しみを、なにか人間をさわがす神さまのしわざにすることを忘れなかった。儀式によって、いわば秩序ある酩酊によって、神さまの心を鎮めることを考えた。この同じ考え方から、古代の賢者たちは、僕らよりはるかに礼節の形式というものをすべて重んじた。これにくらべれば、節制というものを、恐れからくる禁欲に化してしまおうとしている僕らは、僕らの真実な動機や真実な力を忘れすぎている。だから、僕らは常に個人にねらいをつけていながら、個人には触れない。儀式の好きな古代人は、もっと大道を闊歩して人間の魂に到達した。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  喜びや歓楽よりも、憂いや悲哀の方に人生の実相があると言っているのだ。すべての人間を、その 「終末」 の側から眺めようとしている。終末において眺めたとき、はじめて人間性に関する知恵にめざめるのではないか。幸福よりもむしろ不幸を信ずべきではないか。生よりも死を。一種の厭世感にはちがいないが、しかし伝道の書の作者は、人間の空しさを教えることによって神の知恵への覚醒を促しているのである。


/ 2021年12月 1日 /  ページ の トップ /


 ●  アラン (哲学者) のことば

  無遠慮な作家あるいははずかしがりの作家は少なくない、力がないとはいわぬが、常に優美なものを欠いている。この危い修練で無上の均衡を物にしている作家を僕はほとんど知らぬ。必要なものはおそらく反抗でも戦いでもない、むしろ解放だ、こういう放縦の動きを計るのにかけては、羞恥より節度というものの方が一段とたくみなものだ。神々の歩いた道もそれだ。

 

 ●  亀井勝一郎 (批評家) のことば

  伝道の書は信仰について語るよりも、むしろ懐疑の声を次々と放っているわけで、信仰にとっては危険な書といえるかもしれない。しかし、旧約の中に敢えてこれを収めたところに、私は西洋の古人の深い知恵を感ずる。人生への深い懐疑なくして、信仰はないのみならず、信仰そのものへの懐疑もまた必要である。というよりは必然的につきまとうものだと思う。云わば対決の精神のないところに信仰そのものも鍛えられないということだ。信仰の敵は、決して懐疑ではなくむしろ軽信ではなかろうか。


/ 2021年12月15日 /  ページ の トップ /

[ END ]


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