宗教 (道元禅師を読む) >> 目次 (テーマごと)


 道元禅師の宗教を解説した文献は夥しい数にのぼるので、われわれ シロート が、それらのすべてを読むことは無理であろう。われわれ シロート としては、最低限、この ページ に記載した文献 (★) を読んでおけばよい。

 注意:
 まず、澤木興道老師の提唱を筆録した書籍を読んでみてください (大きな書店の 「宗教」 コーナー に行けば、すぐに見つけることができるでしょう)。もし、澤木興道老師の筆録集を読んで、「なにも感じないなら」、道元禅師の著作を無理をして読まないほうがいいと思う。われわれ には、ほかにも読まなければならない書物が山ほどあるのだから。

 なお、禅は、文献を多量に読んでも体得することはできない。実際に坐禅するのがよい。
 ただ、われわれ在家は、いくら、坐禅してみても、しょせん、「健康増進」 程度の域にしかとどまることができない。
 「悟り」 というのは、貯金するように次第に増えて、いずれ、尋常とは違う世界を体験するのではなくて、禅の宗旨が 「本証妙修 (修行がそのまま悟りである)」 なのだから、出家しか 「悟る」 ことはできない。
 (「正法眼蔵」 にも、在家は悟ることができない、と綴られてある。)

 なお、文中、(★) は、「お薦め」 の意味です。



[ 読みかた ] (2007年 2月16日)

 宗教とか哲学という ことば が、どうも、いかがわしい 教えを暗示するようになったのは、どうしてかしら。宗教の本旨は 「覚醒 (のぼせを下げること)」 にあると私は思っています。宗教が いかがわしいと思っている人たちは、たぶん、多くの宗派が 「狂信」 に陥っている様態を観て、そう思っているのかもしれないですね。信者と信者らしきものは、全然、べつの対象ですし、「神」 「仏」 そして祖師の教えは、「聖書」 「仏典」 を直接に読むべきでしょう。
 亀井勝一郎氏は、以下の アフォリズム を遺しています。

   宗教の敵とは何か。けっして懐疑ではない。信仰の敵とは、「狂信」 であり 「軽信」 である。

   すべての思想とよばれるものの根源にあるものは、自己肯定と自己否定との格闘である。神や仏を求めるか、
   求めないですませるか、その対決であり、それをめぐっての肯定と否定の戦いである。この点で 「思いつめた経験」
   の有無が、我々の思想を決定する。これを念頭におかないで、思想という言葉を使ってはならない。

   鎌倉仏教が日本史上での唯一の宗教改革力となりえたのは、美的要素から離脱したからである。親鸞、道元、
   日蓮の純粋な教えからは芸術は生まれなかった。

   鎌倉の宗教改革の最大の特徴は、美的要素から離脱するとともに雑修 (ぞうしゆ) を否定したことである。祖師たち
   は唯ひとつの教えを信じた。そして簡潔に語った。唯ひとつの教えを信じないところに、いかなる本質的な改革も
   革命も起こりえない。根本において非寛容であることが重要なのだ。

   非寛容とは何か。寛容と同様に、それは人間としては完璧に行使しうる能力ではない。祖師たちにとっては、彼ら
   の信じた 「仏」 だけにゆるされた能力であった。救いも また然り。だからこそ仰ぎ信じたのだ。この根本を忘れた
   ところに、宗派としての傲慢と頽廃が生じた。

 
 そして、かれは、以下の アフォリズム も遺しています。

   楽屋に神仏を祭るということは、決して軽々しい習慣ではない。残骸のための祭壇であるか、あるいは、妄執への
   鎮魂の所作であるからだ。昔から、何ものかを信じようとしなかった芸能人はいない。神仏の赦すはずのない妄執と
   虚栄に生きるものであり、愛欲を演じて人を誘惑する職業であるからだ。芸術とは神仏に詫びながら為さなければ
   ならない虚構である。

 
 そして、かれは、「美と信仰」 のあいだで苦しみ、思いつめた。私が亀井勝一郎氏に惹かれるのは、この点にあります。というのは、私も そういう気質だから。

 道元禅師の著作を私が夢中で読み始めた頃は、30歳すぎだったと記憶しています。その頃に坐禅を始めました (ここ数年、坐禅を怠けているので、この文を綴るのがうしろめたいのですが、、、)。ただ、私が宗教 (禅) の門を訪ねた動機は、犯した罪を悔い改めるためでもなかったし、亀井勝一郎氏が 「人間教育」 として著された 「新生」 を模索したような転機でもなかった。寧ろ、当時の私は、日本のなかに RDB を導入して、流行作家のような 「売れっ子」 で忙しい状態でした。ただ、その降盛のさなかで、なにかしら、悲哀を感じていたのは事実ですが、、、。どうして、降盛のさなかに、悲哀を感じていたのか、そして、その悲哀が、どういう類の情感なのかを巧みに語る技術は、今の私にはないので、ここでは綴らないことにします。

 道元禅師の著作を読んで、私のなかで感応する点があったのでしょうね。それ以後、私は、ここに記載した書物を買いあつめて読み込んできました。道元禅師の著作を どうして読んでいるのかと問われても、私には、確固たる返事はできないし、「信じるほかに べつの仔細なし」 としか言いようがない。

 





 ▼ [ 入門編 ]

[ 道元禅師の著作 ]

 ● 現代訳 正法眼蔵、禅文化学院、誠信書房 [ 正法眼蔵の抜粋抄訳 ]

 ● 修訂 道元の言葉、大久保道舟 編、誠信書房(★) [ 道元禅師の著作集からの抜粋抄訳 ]

 
[ 伝記/評伝 ]

 ● 道元、角家文雄 編著、学文社

 




 ▼ [ 中級編 ]

[ 道元禅師の著作 ]

 ● 道元禅師全集 (全)、大久保道舟 編、春秋社

 ● 道元禅師全集 (上・下)、大久保道舟 編、筑摩書房(★)

 ● 古本校定 正法眼蔵 (全)、大久保道舟 編、筑摩書房

 ● 本山版縮刷 正法眼蔵 (全)、正法眼蔵刊行会 編、鴻盟社(★)

 ● 道元禅師四宝集、西嶋和夫 監修、金沢文庫(★) [ 普勧坐禅儀、宝慶記、学道用心集、真字正法眼蔵の収録 ]

 ● 永平元禅師清規、曹洞宗宗務庁(★)

 ● 永平開山道元禅師行状建撕記、河村孝道 編著、大修館書店

 ● 五写本影印 正法眼蔵随聞記、東 隆真 編著、圭文社

 ● 道元禅師真蹟集 (七百五十回大遠忌記念)、大修館書店

 
[ 校注、現代語訳、解説書 ]

 ● 全巻現代訳 正法眼蔵 (上・下)、高橋賢陳 訳、理想社(★)

 ● 全訳 正法眼蔵 (全 4巻)、中村宗一、誠信書房(★) [ 第 4巻目は、正法眼蔵用語辞典である。]

 ● 正法眼蔵 (全 4巻)、水野弥穂子 校注、岩波文庫(★)

 ● 澤木興道 筆録集 正法眼蔵 現成公案解釈、弟子丸泰仙 著、誠信書房

 ● 澤木興道 筆録集 正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜解釈、弟子丸泰仙 著、誠信書房

 ● 光明蔵三昧講話、酒井得元、大法輪閣

 ● 道元禅師のお袈裟 (正法眼蔵 袈裟功徳を読み解く)、水野弥穂子、柏樹社(★)

 ● 正法眼蔵随聞記、大久保道舟 校註、山喜房佛書林(★)

 ● 正法眼蔵随聞記、山崎正一 校註現代語訳、講談社学術文庫

 ● 正法眼蔵随聞記、水野弥穂子 訳、筑摩叢書 5

 ● 現代語訳 永平広録、横井雄峯 訳註、山喜房佛書林(★)

 ● 道元禅師清規、大久保道舟 訳註、岩波文庫(★)

 ● 永平大清規通解、安藤文英 著、伊藤俊光 補遺、鴻盟社

 ● 典座教訓 赴粥飯法、中村璋八・石川力山・中村信幸 訳註、講談社学術文庫(★)

 ● 典座教訓 赴粥飯法、平野雅章 訳、徳間書店

 ● 典座教訓新釋、田中俊英 著、国書刊行会

 ● 道元禅師の 「典座教訓」 を読む、秋月龍a、大法輪閣

 ● 道元禅師語録、大久保道舟 訳註、岩波文庫(★) [ 普勧坐禅儀、学道用心集、永平元禅師語録、傘松道詠の収録 ]

 ● 普勧坐禅儀講話、秦 慧玉 著、曹洞宗宗務庁

 ● 道元禅師語録、鏡島元隆 訳註、講談社学術文庫

 ● 道元禅師和歌集新釈、大場南北 著、仏教書林中山書房

 ● 宝慶記 (大東名著選 16)、池田魯参、大東出版社

 
[ 伝記/評伝 ]

 ● 京都周辺における道元禅師 (前半生とその宗門)、守屋 茂 著、同朋舎出版

 ● 比叡山 横川 解脱谷 道元禅師得度旧跡顕彰史談、笛岡自照 著、[ 非売品 ]

 
[ 読者からの推薦図書 ] (2003年 5月 3日)

 弊社の ホームページ を お読みいただいた読者 (「ashlin」 さん) から、以下の書物をご推薦いただきました。
 小生 (佐藤正美) も西嶋氏の著作を知っていて定評のあることを承知していたのですが、西嶋氏の著作を小生が読んでいなかったので、掲載を割愛しておりました。ご推薦いただき、ありがとうございます。

 現代語訳 正法眼蔵 (全 12巻)、西嶋和夫

 




 ▼ [ 辞典 ]

 ● 道元小事典、東 隆真、春秋社(★)

 ● 道元辞典、菅沼 晃 編、東京堂出版(★)

 




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