2001年 6月24日 作成 メタ 言語 >> 目次 (作成日順)
2006年 9月 1日 補遺  


 ラムジー (Ramsey P.) によれば、パラドックス には 「意味論的な」 ものと 「論理的な」 ものがある。「論理的な」 パラドックス の代表的な例が、「 ラッセル の パラドックス (集合論の パラドックス、W∈W)」 である。これについては、かつて、記述した。「意味論的な」 パラドックス の代表的な例が 「嘘つきの パラドックス」 である。以下に例を示す。

      「クレタ 人は嘘つきである」 と クレタ 人が 言った。

 タルスキー (Tarski A.) は真理の対応説 (*1) と 2値論理 (*2) を使って、「真理」 の定義を追究するために以下の定義の構造を導入した。

      定義 (T): 'p' が真であるのは、p ときに限る。

 例えば、「雪は白い」 という文を例にすれば、定義は、以下のようになる。

      文 「雪が白い」 が真であるのは、雪は白いときに限る。

 タルスキー によれば、言語L1 について語る別の言語L2 が存在するとき、L1 を 「対象言語」 といい、L2 を 「メタ 言語」 という。この考えかたは、言語のなかに階層を導入するので、「言語階層説」 と呼ばれている。語 「真」 の使 いかたは、対象言語に属する文に対して適用されるから、メタ 言語である。つまり、以下のように表現できる。

      文 「文 『雪は白い』 は真である」 は真である。

 この例文のなかの文 「文 『雪は白い』 は真である」 が対象言語に属する。そし て、メタ 言語に属する 「真」 という表現が同時に対象言語のなかにも属しているから パラドックス が起こるのである。「真」 という語が属し、定義 (T) の形の同値文がすべて肯定される言語のことを、タルスキー は「意味論的に閉じた言語 (semantically closed language)」 と呼んでいる。したがって、真理の定義は 「意味論的に閉じた言語」 を使うことを避けて メタ 言語を使って構築されなければならない。タルスキー は 「形式化された言語における真理概念」 という論文を 1933年に発表して、集合 (クラス ) 算の言語 (language of the calculus of classes) を扱い、真理の定義可能性を検討し、形式化された言語のなかでは、真理の定義が可能になることもある-- メタ 言語が構築できるなら真理の定義は可能である--ことを証明した。

 さて、ここで問題となるのは、日常言語が 「意味論的に閉じ られた言語」 であるかどうか、という点である。逆に言えば、日常言語が 「意味論的に閉じた言語」 ではない、という証明ができ るかどうか、という点である。現時点では (現時点に至るまで)、それは証明されていない。とすれば、われわれは日常言語を使った真理の定義はできない--日常言語のなかでは、真理を定義できる メタ 言語は存在しない--、ということである。ヴィトゲンシュ タイン は、以下のように言った。

 「はじまりを見出すことはむずかしい。否、はじめにおいて始めることが。そして、そこ から遡ろうとしないことが。」
 (「心理学の哲学」)

 つまり、われわれは、すでに、日常言語を使っていて、語の 「意味」 (言語 がなにに因って成立するか、という点) は 「人工言語 (形式化された言語)」 を使っても、到底、把握し得ない、ということであ る。日常言語が検証できる 「真」 という概念は、おそらく、「真理値表」 を使った検証ぐらいである。事務系の システム が 扱う画面や帳票などのなかに記述されている言語は日常言語である、ということを忘れてはならない。

 
(*1) 文の真理は、それ と実在との一致 (あるいは、対応) にある、という考えかた。
(*2) 「真」 と 「偽」 の 2値を扱う考えかた。つまり、「偽」 は 「 真でない」 と同じ意味として扱う。

 



[ 補遺 ] (2006年 9月 1日)

 ウィトゲンシュタイン は タルスキー の 「言語階層説」 を認めなかった。しかし、ウィトゲンシュタイン は、当初 (前期の著作 「論理哲学論考」では)、「写像理論」 を前提にして、「真理の対応説」 の典型とも云える 「真理値表」 を考案した。そして、「論理哲学論考」 は、当時の哲学界に多大な影響を及ぼした。
 ちなみに、私 (佐藤正美) は、TM (T字形 ER手法) を作ったときに、ウィトゲンシュタイン の 「論理哲学論考」 を底本にした。「真理値表」 は、(TM では、) 「対照表」 として記述される。

 ウィトゲンシュタイン は、後になって (後期の著作 「哲学探究」では)、「写像理論」 を否定して、「言語 ゲーム」 の考えかたを提示した。かれが、前期 (「論理哲学論考」) から後期 (「哲学探究」) に移る過程では、「文法」 概念--ただし、言語学の云う 「文法」 ではない点に注意されたい--と 「数学の基礎」 が大切な論点になっている。
 かれは天才的な哲学者であっても、数学に関して門外漢であるが、かれが数学を検討対象にしたのは、以下の点にあった。

    いかに奇妙に思われようとも、ゲーデル の不完全性定理に関する私の課題は、ただ単に、「これは
    証明可能である、と仮定せよ」 といった命題は数学においては何を意味するのか、ということを
    明確にすることであるように見える。(ウィトゲンシュタイン 「数学の基礎」)

 ウィトゲンシュタイン の視点は、クリプキ の言いかたを借りれば、「『真理条件』 を検討するのではなくて、『(言語の) 正当化条件』 を探求する」 点にあった。「言語 ゲーム」 という名称を使って、「(言語の) 正当化条件」 として提示された概念は、「合意・規則・行為」 であった。
 ちなみに、私 (佐藤正美) は、TM (T字形 ER手法) の前提を 「写像理論」 から 「言語 ゲーム」 に移すために、「論理 データベース 論考」 を執筆した。そして、「論理 データベース 論考」 で TM の前提を転回したあとで、「データベース設計論--T字形 ER (関係 モデル と オブジェクト指向の統合をめざして)」 を出版した。「データベース 設計論--T字形 ER」 の 「はしがき」 のなかで、私は、以下のように記している。

    当初、「情報」 (言語を使って記述された複文) が、いかにして 「意味」 を構成するか、という点を、
    単純に 「写像」 (事実と情報との対応関係) として考えていた。すなわち、「真理条件」 (「真」
    概念が成立する条件) と 「正当化条件」 (モデルが成立する条件) を混同していたのである。

    「ことば の意味」 が 「合意・同意・規則 (事業過程に関与している人たちが同じ 「仮定と適用」 を
    示せば、「ことば の意味」 が成立している、という考えかた)」 を前提にしていれば、記号と単語の
    あいだに指示関係 (真理条件) を適用することに対して、筆者は躊躇いはない。

 ただ、「記号と単語のあいだに指示関係 (真理条件) を適用することに対して、筆者は躊躇いはない」 という言いかたは、丁寧に言えば、「合意」 が規則として作用しているということを記すべきだったかもしれない。というのは、たとえば、「カラー・コード」 という個体指示子を使って指示される カラー (色) は、現実の世界では、物体に付着して存在しても、単独には存在しないのであって、あくまで、「『純粋な』 色が単独で存在している」 という 「合意」 で使われているのだから。

 日常言語には 「メタ 言語」 はないが、「メタ 言語」 と 「メタ 概念」 を混同してはならない。
 そして、「1つの言語 [ 形式的言語 ] が無矛盾であれば、その言語のなかで構成された モデル において 『真』 である式は、その言語のなかで証明できない」 ことを ゲーデル や タルスキー が証明した。この証明を構文論的に言えば、「言語 L が無矛盾であれば、L のなかの式 G について、G も ¬ G も L のなかでは証明できない」 ということである。この証明 (定理) が、いわゆる 「不完全性定理」 である。ヒルベルト は、数学に対して 「メタ数学」 を構成して、数学の無矛盾性を証明しようとしたが、ゲーデル は、数学が 「無矛盾であっても--いな、無矛盾であればこそ--その完全性を証明できない」 ことを示したのである。




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