2002年 4月 1日 作成 | 辞書の使いかた (国語辞典) | >> 目次 (作成日順) |
2007年 6月 1日 補遺 |
小生が尊敬する英語の達人 (technical writing の第一人者)・篠田義明早稲田大学教授は、かって、以下のようにおっしゃったことがあります。「英作文を綴るときには、国語辞典を多く使っている。」 また、小生が尊敬している文芸評論家の故・亀井勝一郎さんは、著作 「思想の花びら」 のなかで、以下のようにおっしゃっています。「私は日本人だ。だから日本語なら自由に話せる。これが錯覚の第一である。言語表現の自由がある。だから私は何でもしゃべることができる。これが錯覚の第二である。自分の使っている言葉はわかりきっている。これが錯覚の第三である。そしてこれらの錯覚のおかげで、私たちは何となく日常の用を足しているのである。」
英語を学習するときに英語辞典を使うのですが、英語辞典を使っている頻度と同じほどに日本語の辞書を使っている日本人は、ほとんど、いないのではないでしょうか。
三島由紀夫さんは豊饒な日本語を華麗に綴ることができた天才ですが 「日本語の辞書を読んでいた」 そうです。文筆を生業としていた彼ほどの天才は われわれにはないけれど、「辞書を読む」 ということを われわれも習慣にすれば、概念の形成や記述を、もっと上手にできるようになる、と思います。ギットン 氏曰く、 まず最初に正直に言っておかなければならない点は、国語辞典を、普段、使う習慣のない人が、文章を綴るときになって、急遽、国語辞典を使っても上手に使いこなすことができない、という点です。そして、そういう習慣のない人々が語る中身は薄い。 或る書物の広告が新聞に記載されていたのですが、「刺身」 は切るのになぜ 「刺す」 かとか、「面食らう」 は何を食らうのか、などということを 「常識として知っておきたい」 というふうに (書物を セールス するために) 意表をついたような広告を掲載してあったのですが、そういうことは 「国語力」 とは、全然、関係のないことです。
小生は、職業柄、「(データ を解析するための) 新しい方法」 を考え、それを公にするために書物を執筆します。そういうことを仕事にしていれば、どうしても、国語辞典 (日本語の辞典) を、多々、参照することになります。
まず、大型版の辞書は、以下の 2つを お薦めします。 以上の 2つは、常に参照するという辞書ではないのですが、「拾い読みしながら、読めば読むほど」 日本語の感度が養われるでしょう。一家に 1 セットずつ揃えておいても損はしない。子どもの学習ために (10巻を超える) 百科事典を揃える家庭があるようですが、大人のために、以上の国語辞典を家庭に揃えることを お薦めします。
次に、中型版ですが、以下を お薦めします (なお、古い辞書も対象としました)。 以上の辞典も常に参照するという辞書ではないのですが、大正時代以前の文献を読むときには役立ちます。
さて、座右に置いて常に参照する辞典は、どうしても使いやすさ--版が大きくなくて携帯しやすいこと--を優先することになるでしょう。以下を お薦めします (なお、古い辞書も対象としました)。
(1) は 「中学生向け」 の辞書ですが、われわれが文章を綴るときに使う 「一押しの」 国語辞典です。
CD-ROM 版の以下の辞書は--値段が高いのですが(7万円ほど)--日本語を使って 「概念」 を検討するためには最高に お薦めの辞書です。 文章を綴るときには、国語辞典といっしょに類語辞典を、多々、使えば良いでしょう--小生の経験から言えば、国語辞典を使う頻度よりも類語辞典を使う頻度のほうが多い。
類語辞典の大型版は以下を お薦めします。
[ 補筆 ](2002年11月22日)
CD-ROM 版の以下の類語辞書も お薦めします。
漢和辞典は--前述した大漢和辞典を所蔵しているのであれば、他には--以下を揃えておけば充分でしょう。
なお、歴史の文献を読んでいて難読語があれば、以下の書物は漢字の読みかたを調べるのに役立ちます。国語辞典を引くための補いとして非常に重宝な書物です。
文筆を生業としている人々は、(独自の文体と同じように) 「お気に入り」 の言葉--好んで使う言葉--をもっているようです。今まで述べてきた辞書を使いながら [ 読みながら ]、そういう言葉をいくつかもつようになれば、「国語力」 が向上したと言ってもよいのではないでしょうか。
出張のとき、疲れていて、車中、読書する気力がないようなら、例えば、「ローマ 字で引く国語新辞典」 を携帯して拾い読みすればよいでしょう。
さて、自らの論法のなかに 「欠点 (= 短所、あら [defeat]) があったのかどうか、、、。ここでいう 「欠点」 とは なにか、、、「論理の矛盾」 をいうのか、「論理の飛躍」 をいうのか、「プレゼンテーションの拙さ」 をいうのか。
(1) わざと、故意に [ intentionally ] 「ことさらに」 というのは 「意図的」 なことだから、論点とは関係の薄い・べつの観点から非難しているのは、どうしてか、、、。はなから、こちらの論点を無視して攻撃しようという意図ならば、「intentionally」 でよいが、もし、全体の体系から判断して priority を下げた論点を故意に非難してきたのなら、(「intentionally」 という言いかたよりも) 「knowingly」 というほうがいいのではないか、、、などなど。
そういうふうにして、辞書を読んで、閉じて考えて、また、辞書を読んで、閉じて考える、ということを繰り返していれば、会議が終わってからも尾を引いていた [ 難癖をつけてきた相手に対する ] 「怒り」 は収まるでしょう (笑)。
ちなみに、「難癖」 を類語辞典 (柏書房、「ハンディ 版 類語辞典」) で調べたら、以下の類語がありました。
これらの ニュアンス の違いを言うことができますか。これらを以下のような順序で並べたら、どうでしょうか。 さて、この順序 [ R (a, b, c,...) ] の関係 R はなんでしょうか。(「ベーシックス」 の中身みたいになってきましたね--笑) 芥川竜之介曰く、
「矜誇
以上、長々と述べてきましたが、今回も、結論は単純な一言で終わるようです。
以上に お薦めした辞書以外にも特徴ある辞書は多い。 |
[ 読みかた ] (2007年 6月 1日)
本 エッセー (2002年 4月 1日作成) は、「読書案内 (近世・近代・現代の日本語辞典)」 (171 ページ、2002年11月16日執筆) よりも先立って綴られました。そのために、本 エッセー では、国語辞典 (日本語辞典) のなかで定評ある辞典を いくつか 列挙することに ページ を費やしました。それゆえに、本 エッセー の記述と 「読書案内」 の中身が、いちぶ、重なってしまいました。
「言海」 の序文や 「大字典」 の序文を読めば、辞典を作る仕事が、いかに艱苦かを想像できるでしょう。 さて、辞典のなかで、用例が豊富に示されているといっても、「わかりきった」 用例を多数 収録していても、なんら、役には立たないでしょうね--勿論、日本語を初めて学習する人たちには、そういう用例は非常に役立つでしょうが、日本で生まれて日本で育って日本語を生活のなかで習得してきた人たちが普段に使用する辞典としては役に立たないでしょう。「的確な」 用例が選ばれているか (記載されているか) という点が辞典の最大の評価点でしょうね。その点では、「新潮 現代国語辞典」 「新潮 国語辞典 古語・現代語」 を私は とても気に入っています。 「定義」 そのものに関しては、「明解 国語辞典」 が色々と話題になったそうですが--賛否の取り沙汰があったようですが--、私は、「用例」 に興味を抱いていますが、「定義」 そのものに興味がないし、lexicographer でもないので、「明解 国語辞典」 の定義法について論じるつもりはない。ただ、(「明解 国語辞典」 の定義法が独断的すぎると非難する人たちのなかで、)「定義」 というのは、いわゆる 「客観的」 でなければならないと言っている人たちに対しては、異議を申し立てたい。ひとつの概念は、主要概念・重要細目・用例を示して説明しなければならないのですが、類概念を 「定義」 することは非常に難しい--たとえば、将棋と チェス があって、将棋も チェス も 「或る規則 (規約) を前提にして」 play するのですが、では、将棋と チェス の類 (クラス) 概念として 「ゲーム」 を定義しようとしたら、とたんに難しくなるでしょうし、もし、「ゲーム」 を 「或る規約を前提にして営まれる云々」 という定義にしてしまったら、およそ、社会生活の営み すべてが 「ゲーム」 になるでしょう。 もし、定義の 「客観性」 があるとすれば、概念の 「解析」 のしかたでしょうね。「解析」 とは、数学的な論法の一つであって、証明しなければならない対象 A が存在しているとき、A が成り立つためには、B1 が成り立たなければならないことを示し、さらに、B1 が成り立つためには、B2 が成り立たなければならないことを示すというふうに、以下のように、順次、対象を導出する手順です。 A → B1 → B2 → ... → Bn.
そして、A を、終いには、「既知の ことがら」 Bn に帰着する やりかた を 「解析」 と云います。この 「既知の ことがら」 が、たとえば、現実の事実に対する指示であったり--つまり、だれもが知っている物であったり--、多くの人たちが 「合意している」 周知の概念です。 私は、「定義」 を、もっと、主観的にみていて、辞典を編修したひとの 「視点」 だとみなしています。そういうふうにみなしているから、前述したように、辞典を 「単独の 『読み物』」 として考えています。そして、「単独の 『読み物』」 として読み応えのある辞典を 「読書案内」 で記載しました。 ちなみに、辞典の 「定義」 は、文を綴っていて、ことば の言い換えや テーマ を整えるときに使うこともできます。この目的には、「例解新国語辞典」 (林 四郎 編修代表、三省堂) が重宝です。どういうふうに使えば良いか 具体例を 426ページに綴ってあるので、参照して下さい。 |
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