この エッセー も 6回目を迎えました。昨年を振り返ってみて、私は、年始めから年末まで、ずっと、憂鬱な状態が続いて、書物も、一年のあいだに、たった 6冊しか読まなかった。その 6冊のなかで、私の研究に関与する書物といえば、1冊しかないという だらしない状態でした。年末になって、やっと、やや、やる気が出てきて、再び、哲学の書物を読むようになりました。
書物を ほとんど読まなかったのであれば、考えることに集中して、研究を進めて さらなる論点を定立していても良さそうなのだけれど、研究を進めるという訳でもなかった。昨年、研究として実現したことといえば、一昨年 出版した 「赤本」 を推敲して、TM の体系を整えたにすぎない。
昨年の具体的な実りとして、私は、いったい、どういうことを実現して、どういうふうにして さらなる一歩を進めたのだろうか、、、。昨年の生活は、30歳以後、一番に実りの少ない年だったかもしれない。
憂鬱な状態が続いて気持ちが荒れるという訳ではなくて、逆に、穏やかな澄み切った気持ちになってきているのは、妙に 訝しい。
研究 テーマ は、「赤本」 を脱稿した時点で、すでに、明らかになっていて、哲学上、実体主義の系譜と関係主義の系図を学習して、「真理論・意味論」 を再検討しなければならない。
いっぽうで、「荻生徂徠」 を研究したい。私は、荻生徂徠の考えかたのなかに、ウィトゲンシュタイン に近い気質があると感じています。小林秀雄 (文芸評論家) は、荻生徂徠について、以下のように記しています
(参考)。
徂徠は、無論、懐疑派でも非合理主義者でもない。事物に自然にある理を否定するのではない。理を操る心という
ものを思うのである。心の適くところ、至るところに理に出会うのはいいが、世界は理だとか、理のうちに世界が
あると言い出すなら、理という言葉に酔ったのである。学者の酔心を見付けて了えば、学説の首尾一貫など取るに
足らぬ、という考えである。
学問は、事物が、どんな具合に在るのか或いは生ずるのか、その条件を説明すれば足りるのだ。人生とは何か
とか、人間如何に生くべきかというような問題は、学問の関知しないところである。学問が、その研究方法の
厳密を期する為に、止むを得ず取った手段が、いつの間にか、人生観、世界観として その正しさを主張するに
至ったについては、学問的理由は少しもない。それは、夥しい条件病患者達の集合表象に過ぎない。為に、
哲学とか形而上学とかいう言葉が、ひどく評判を落とした。徂徠の言うように、「世ハ言ヲ載セテ以テ遷ル」
それだけの事で、それ以上の意味がある筈はない。
物を重んずるという考えは、徂徠の独創ではない。当時の学者達は、皆これを言っていた。「格物致知」 と
いう事が、やかましく言われていたが、そんな事を、皆、上わの空で言っているのだ、と看破したところに
徂徠の卓見があった。格物とは、元来、物来るの意であって、学者達が皆誤解しているように、物を窮むの
意ではない。物の理を窮めて知を致すというような安易な道を行くから、物が理に化けるのである。せっかく
物が来るのに出会いながら、物を得ず理しか得られぬとは、まことに詰まらぬ話だ、とするのが徂徠の考え
だ。物来る時は、全経験を挙げて これに応じ、これを習い、これに熟し、「我ガ有ト為セバ、思ハズシテ得ル
ナリ」 という考えだ。
学問の為に、合理的経験の抽出へ赴かず、むしろ逆に、日常経験の、在るが儘の形の反省による充実、という
方向に向かっている。
学者は、ひたすら身にとりて思うことを努めればよいので、何も思に細工を施す事はない。何を思うかという
確かな対象が、あれば足りるのだ。
そして、小林秀雄は、学問の そういう進めかたについて、以下の鋭い洞察を綴っています。
長持ちするには、ちょっと微妙すぎるものを蔵していて、安易に受取ろうとすれば、その形骸しか極めないという
性質を持っていたからである。
学問の こういう進めかたは、考えることと生きることが同じこととして重なるので、こういう やりかた を私が信じているのであれば、こういう やりかた を私が死ぬまでやり続けるほかに仔細はないでしょうね。昨年のふがいなさを反省しつつ、再生を祈って、この エッセー を綴ってみました。
(参考) 「古典と伝統について」、小林秀雄、思想との対話 6、講談社
(この書物に収録されている 「学問」「徂徠」 の 2編から引用しました。)