2003年 3月16日 作成 | 江戸時代 (大奥・遊女・非人、中級編) | >> 目次 (作成日順) |
2007年 8月16日 更新 |
大奥・御殿女中・遊女・非人の生活を概説した史料・資料を記載します。 |
[ 読みかた ] (2007年 8月16日)
江戸城 (正式名称は、舞鶴 [ ぶかく ] 城、またの名が千代田城) は、本丸 (将軍の政務所・住宅) を中核にして、本丸を囲むように西丸・二の丸・三の丸が配置されて、総面積約三十万坪だった。天守閣は五層構成で、天守閣の下が本丸。天守閣は、明暦の大火 (1657年) で燃え落ちたが再建されなかった。本丸は、将軍の政務所であるとともに私邸でもあって、総面積約一万一千坪の半分以上を 「大奥」 が占めていた。 武家の居所を 「奥」 と云う--妻や家族の起き臥しする所のこと。「奥」 は、「奥方」 「奥様」 の語源である。「客を奥に通す」 という言いかたも同じ語源である。反対語は、「表」。「大奥」 は、徳川将軍家のみに使われた。将軍の政務所が 「表」 で、「大奥」 は、将軍の夫人である御台所 (みだいどころ) と側室の住居で、将軍以外には男子禁制であった。「表」 から 「大奥」 に通じる廊下は、「御錠口 (おじょうぐち)」 と呼ばれ--「御鈴口 (おすずぐち)」 とも云う--、銅板張りの戸が立てられていて、「此より内男入る可からず」 という紙札が掲げられていた。 「大奥」 には、下働きまでふくめたら、約一千人の女性がいた。将軍の正室は、公家や親王家から選ばれ、お付きの女中も数が多かったので、「大奥」 での風習は京都風であった。側室の人数は、たいがい、8人くらいで、一番に多かったのは、家斉 (11代将軍) で、21人だった。 「遊女」 と云えば、「吉原」 という地名が連想されるほど、吉原は、「遊女の町」だった。女性の数が絶対的に不足していた江戸では、吉原は、公認の遊里だった。吉原が公認の遊里になったのは、元和 (げんな) 四年 (1618年) で、当時、江戸中に散らばっていた私娼 (売春婦) を、市中の風俗を乱さぬようにと、日本橋葺屋町から延びる・葦の茂る湿地を割り振って一ヶ所に集めて公娼とした (「元吉原」 と云う)。当時、吉原の営業は、昼間のみ許可されていた。昼に吉原を訪れることのできる客筋といえば、武士であった。吉原は、明暦の大火 (1657年) で全焼した。当時、江戸の市街地が拡大していて、市街地の近くに遊郭があることを問題視した幕府は、明暦の大火で焼失した吉原を辺鄙な場所に移した (「新吉原」 と云う)。移転先は、浅草寺うらの田んぼ地帯だった。「新吉原」 は、「おはぐろどぶ」 と呼ばれる幅二間くらいの堀に囲まれた独立した町だった (総面積は、約二万坪)。吉原の出入り口は一ヶ所のみ (「大門口 (おおもんぐち)」) である。辺鄙な場所に移した代償として、夜の営業も許可された。大門は、明け六ツ (朝六時) に開門され、夜四ツ (午後十時) に閉められた。閉門後も、一刻 (いつとき、二時間) 営業されたが、出入りは、大門の横木戸を使った。夜の営業が許可されたのを契機に、客筋は町人が多くなった。「元吉原」 のときには、遊女の数は千人以下だったが、江戸時代の終わりには五千人くらいがいたという。吉原は、江戸時代に、火災を 36回も蒙っているが--そのなかで、全焼が 21回もあるが--、そのたびに、ほかの場所で仮設の宅にて営業を続けて、昭和 33年まで、340年間も継続した。 地図 「江戸砂子 (明和版)」 によれば、浅草川 (隅田川) に接する山谷堀から三ノ輪・上野 (東叡山) のほうに延びる日本堤 (「土手八丁」 とも云う) に沿って、日本堤の真ん中くらいに吉原がある。地図によれば、日本堤から衣紋坂 (えもんざか) を下り、五十間道 (ごじつけんみち) を歩いて大門口に至る。日本堤から衣紋坂に入る所に、番所 (町奉行の所轄) がある。「大奥」 は、男子禁制だったが、「吉原」 は、逆に、女の出入りが監視されていて、女性は大門切手 (通行証) がなければ出入りできなかった。地図を観るかぎりでは、江戸市中から吉原に往くには、そうとうに時間を費やす。「名所江戸百景」 (広重画) のなかに、「浅草首尾の松御厩河岸」 があるが、「首尾の松」 というのは、吉原通い遊客が、今宵の首尾を祈ったのが由来とのこと。舟で吉原通いをした人たちも多かったのであろう。また、日本堤から衣紋坂に下る番所の反対側に、「見返り柳」 と呼ばれる柳があったが、吉原帰りの遊客が、この柳のあたりで、廓を振り返ったのが由来だとのこと。 吉原で遊ぶ人向けに、「吉原細見 (さいけん)」 という案内書が出版されていた。初期は一枚綴りであったが、江戸時代の中期以後、版元の蔦屋 (つたや) 重三郎が小型の縦本に統一して、春秋の二回、定期的に出版した。「吉原細見」 には、吉原の略図をはじめとして、妓楼 (見世 [ 店 ] のこと、「青樓」 とも云う) と抱えの遊女名、揚代 (あげだい)、紋日 (もんび [ 花見・月見などの年中行事にからめて、遊女は、かならず、客を取らなければならない日、値段は普段の二倍になる ])などが一覧で記述されている。「吉原細見」 は、江戸土産にもなった。 大門をくぐると「仲 (なか) の町」 という大通りがあって--「仲の町」 というのは道の名前であって、町名ではない--、両側には引手 (ひきて) 茶屋が並んでいた。横丁に入れば、両側に、籬 (まがき) のなかで 「張見世 (はりみせ)」 があって、遊女が座っている。吉原は、ぶらりと訪れて、遊女を気ままに買って遊ぶ場所ではなかった。妓楼には、大小の 「格」 があって、籬とは、妓楼入口の土間の横にある格子の桟で、籬の形は見世 (店) の等級を示していて、大見世を大籬 (総籬) [ 揚代が二分以上の高級遊女しかいない高級見世 ] といい、中見世を中籬 [ 揚代が二分以上の遊女と二朱の遊女がいる中級見世 ] といい、小見世を小格子 [ 揚代が一分以下の遊女しかいない下級見世 ] と云った。「仲の町」のうらで、「おはぐろどぶ」 に沿った道には河岸見世が並んでいたが、性欲を満たすのみの・安いだけが取り柄の見世だった。
上級の見世では、客と遊女との関係は夫婦に近い関係であって、親密な関係になるまでに、数々の 「廓のしきたり」 を踏んで、最低 3回通わなければならないとされていた。一回目が 「初会」、二回目が 「うら」、三回目で、ようやく、「首尾」 となるが、「床花 (とこばな、チップのこと)」 をはずまなければならないので--上級の遊女であれば、一回 (一日) の揚代が職人の日当でいえば数ヶ月に相当するし、揚代のほかに、幇間 (ほうかん [ 太鼓持 (たいこもち) のこと ])・遣手 (やりて [ 楼主に代わって遊女たちを監督する女性 (遊女の古手が多い ]) などへのチップをはずまなければならないので--、吉原で上客になるには、そうとうな出費を覚悟しなければならない。 吉原の上級見世では、上級客を相手にしていたので、食事や菓子は、名品揃いだった。ちなみに、吉原名物として、甘露梅・袖の梅・巻きせんべい・最中の月・山屋の豆腐・釣瓶そば などが有名だった。 吉原のほかに、「もぐり (非公認) の」 売春街があった。それらを岡場所 (おかばしょ) という。多いときには、二百ヶ所もあったという。四宿 (品川、新宿、板橋、千住) では、飯盛 (めしもり) 女として 「定員」 が決められていて、売春は黙認されていた。市中の岡場所は、寛政改革と天保改革で摘発されて根絶した。岡場所のほかに、個人で営業していた売春婦 (夜鷹、船饅頭、比丘尼、綿摘、提重など) もいた。岡場所のなかには、陰間 (かげま) 茶屋もあった。陰間とは男娼のこと。 |
▼ [ 大奥・御殿女中の生活 ] ● 定本 江戸城大奥、永島今四郎・太田贇雄 編、人物往来社 ● 江戸城 大奥の生活、高柳金芳 著、雄山閣 ● 史料 徳川夫人伝、高柳金芳 校注、新人物往来社 ● 御殿女中、三田村鳶魚 著、青蛙選書 2 ● 「女礼十冊書弁解」 全注、陶 智子、和泉書院 |
▼ [ 遊女の生活 ] ● 遊女の生活、中野栄三 著、雄山閣 ● 郭の生活、中野栄三 著、雄山閣 ● 遊女の世界 (目で見る日本風俗誌 7)、今戸榮一 編、日本放送出版協会 ● 復刻版 吉原風俗資料 全、蘇武緑郎 編、永田社 ● 吉原艶史、北村長吉、新人物往来社 ● 江戸のかげま茶屋、花咲一男、三樹書房 ● 江戸売色百姿、花咲一男、三樹書房 ● 青樓和談 新造図彙、山東京伝 作、佐藤要人 解説、三樹書房 |
▼ [ 被差別民衆の生活 ] ● 江戸時代の被差別民衆、久保井規夫 著、明石書店 ● 江戸時代 部落民の生活、高柳金芳 著、雄山閣 ● 江戸時代 非人の生活、高柳金芳 著、雄山閣 ● 江戸の下層社会、朝野新聞 編、明石書店 |
<< もどる | HOME | すすむ >> | |
読書案内 |