2003年 9月 1日 作成 | 話しことばの使いかた | >> 目次 (作成日順) |
2008年 9月16日 補遺 |
前回 (242 ページ)、「話すことの実際」 として、以下のように綴りました。
話しことば は、書きことば に比べて、冗長です。
プレゼンテーション では、講師が言葉の使いかたを厳正にしようと思っているほど、聞き手のほうは正確さを期待 つまり、話しことば には、話しことば の使いかたがある、ということです。思想は構築物ですから、思想を訴えるために、文章とプレゼンテーション では、構成の ルール は、ほとんど、同じなのですが、話しことばは、文章に比べて、一過性である、という点が特徴です。したがって、話しことばの性質を活かした言いかたがある、ということです。
話しことばの一過性という性質から判断して、プレゼンテーション では、以下の 6点を注意したほうがよいでしょう。 たとえば、以下の文を例にして考えてみましょう。 従来の新入社員研修では、社会人としての マナー を指導してきましたが、部課長の アンケート の結果、次の点が強く要請されています。
この文章を、そのまま、しゃべれば、文章を「棒読み」 していると聞いている人たちは思うでしょう (笑)。
新入社員教育は、いままで、社会人としての マナー を指導してきました。(間) 文を短くすれば (「だれが、どうする」 とか 「なにが、どうなる」 という短い文にすれば)、話しの構成が はっきりします。 ちなみに、書きことばであれ、話しことばであれ、言葉を短くするために、「の」 を使うことが多いようですが、「の」 の使いかたには注意してください。たとえば、「部課長の アンケート」 は、「部課長に対して実施した」 アンケート なのか、あるいは、(新入社員教育に対して疑問を抱いていた) 部課長が自ら実施した アンケート なのか、という点が曖昧です。ほかの例として、「妻の写真」 といえば、「妻が映っている写真」 なのか、「妻が撮影した写真」 なのか、という点が曖昧になることを注意してください。 話しことばのなかで、漢語を使った 「わかりにくい」 例の典型は、私が、最近、或る人の プレゼンテーション のなかで聞いた 「ぞくじんせい」 という言葉です。私は、「ぞくじんせい」 という発音を聞いたときに、全然、言葉の意味がわからなかった。強いて想像して、「俗人性」 かな、と思ったのですが、話し手は 「属人性」 として使っていたことが、あとになって、わかった。ハンドアウト のなかに、「属人性」 と記述してあればよかったのですが、ハンドアウト には、そういう記述はなかった。いきなり、「ぞくじんせい」 と言われても、聴いているほうは戸惑います。
単語は、文の間で、対応したほうが、話しの進みかたがわかりやすいので、論旨がはっきりします。 ちなみに、話しことば は、聞いているうちに消えていきますから、指示語 (「それ」 など) も、できるだけ、使わないようにしたほうがいいでしょう。指示語を使えば、聞き手は、前に聞いた記憶を辿るために、いったん、聞くことを中断しなければならないので、聴くことに集中できない。
話しことばでは、接続語 (たとえば、「ので」 とか 「なのだが」 とか) を使えば、文が冗長になって、論旨が曖昧になりますし、逆に、文を短くして、接続詞を多用すれば、聴いているほうが、論理の展開を追うために疲れてしまいます。
話しことばは、聴いているうちに消えていきますから、最後に聴いた言葉が記憶に強烈に遺ります。
以上の 2つの文を比べたら、聞いた後に遺る印象が違うでしょう。
最後の言葉が記憶に遺る、という点を応用して、敬体は最後に使う、というのも効果的です。
わたくしどもといたしましては、監査制度につきまして、さまざまな公正な ルール を導入してきたのでありますが、 敬語の使いかたが間違っています。「きたのでありますが」 と 「ございます」 のほかの敬語は不用です。話し手は、敬語を使って、丁寧に謝罪しているつもりなのでしょうが、敬体が続いているがために、逆に、文が緩慢になって、「話している人には 『うしろめたさ』 があるのではないか」 と聞き手は感じるでしょう。 話しことばのなかで、敬語の使いかたに自信がないのであれば、(話しことばは、聞いているうちに消えていくという性質を応用して、) 以下のように、文末で、敬体を整えても、聞いていて不快にはならない。
わたくしどもは、監査制度について、さまざまな公正な ルール を導入してきたのですが、 敬語を最後にしか使っていない文のほうが──言い換えれば、敬語の使いかたが間違っているのですが──、話し手の緊張感を伝えているように感じるのは皮肉ですね。 |
[ 読みかた ] (2008年 9月16日)
本 エッセー で リスト した注意点は、話しかた の規則ではなくて (私は アナウンサー ではないので──話すことを職にしていないので──)、あくまで、私が プレゼンテーション するときに みずから心がけている点を随意に書き連ねただけです。 以前、テレビ 番組で、プレゼンテーション に関する興味深い実験結果を伝えていました──その実験は、以下の ふたつの プレゼンテーション について聴衆が抱いた感想を対比していました。
(1) 話し手は座ったままで、テーマ に関して精確な中身を語った。
聴衆は、(2) のほうが印象に残ると評していました。すなわち、プレゼンテーション では、「聴いて追跡する」 ことは 「観て把握する」 ことに比べて、強く作用しないということですね。そして、もし、話し手が、「はっきりした口調」 で語らなければ、「聴いて追跡する」 ことは もっと悲惨な結末──聴衆が居眠りするという状態──になるでしょう。 プレゼンテーション の一般形態として、ハンドアウト を パソコン に収納して、パソコン を プロジェクター に接続して、ハンドアウト を スクリーン に映して、話し手が その ハンドアウト を順次読みあげる やりかた が多いようですが、私は それを良しとしない。この やりかた は、あらかじめ、テーマ に関して精確に体系を整えて プレゼンテーション を構成してあるので、プレゼンテーション は漂流しないでしょう。しかし、プレゼンテーション そのものは魅力に欠けた──したがって、聴衆を惹きつける ちから の乏しい──ときには、形骸化した つまらない進みかたになるでしょう。私が理想とする プレゼンテーション は、ハンドアウト が書物のように厳正に記述されていて、話し手は、その ハンドアウト を前提にしながら、「全体像」 を要約して示し、次に、「全体像」 が どうして そのような構成になったのか を順次──ひとつの推論を着実に追跡するように──説明してくれる プレゼンテーション です。そういう プレゼンテーション をするためには、話し手は、「語りながら考え、考えながら語る」 ように集中していなければならない。それが 「生の プレゼンテーション」 であると私は思っています。プレゼンテーション 会場が緊張感に満ちていれば──聴衆が、「この話は 次に どのように進むのか」 を期待していれば──、居眠りする聴衆など でないでしょう。そして、話し手が思考に集中していれば、「話しかた の わざ」 などに意識が回らないでしょう。「話しかた の わざ」 は単純に体得できる わざ でなければ意味がない。だから、前回の 「問わず語り」 で、「プレゼンテーション の 『匠』 などあるはずがない」 と綴った次第です。あなたは、プロフェッショナル としての意見を述べることで金銭をもらっている、という点を くれぐれも忘れないように。 |
<< もどる | HOME | すすむ >> | |
佐藤正美の問わず語り |