2003年11月 1日 作成 三角点 (1つの仕事と 2つの趣味) >> 目次 (作成日順)
2008年11月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、趣味について お話しましょう。
 ただし、趣味の選びかた とか趣味の中味について語るのではなくて、いくつの趣味を嗜めばいいのか、という 「趣味の数」 について述べましょう。

 
仕事のほかに、2つの趣味を嗜みたい。

 パース (Peirce, C.S., 哲学者) は、「3」 という数字に対して関心を抱いて、現象観察学として、三分法的 カテゴリー 原理を提示しました。私は、ウィトゲンシュタイン の考えかたを敬愛していますが、パース の考えかたも尊敬しています──ただ、二人の考えかたは対極にあるのですが、、、。

 これから述べることは、パース のように詳しい推論を提示できないし、そもそも、科学的な前提もない・単なる思い込みにすぎないのですが、写真を撮影する際、「てぶれ」 が起こらないようにするために、三脚を使って カメラ を固定することになぞらえて、専門の仕事のほかに、2つの趣味を嗜んで、合計して、3つの立脚点を取るようにしたらどうでしょう。

 
趣味の領域では、セミプロ 並の実力を養いたい。

 しかも、2つの趣味は、専門の仕事に負けないくらい、豊富な知識と長い 「キャリア」 がなければならない。つまり、趣味として嗜んでいる対象は、(当然ながら、その領域の専門家には及ばないけれど、) セミプロ 並みの実力がある、ということです。
 専門領域のなかで新しい着想を得るために、ほかの領域を趣味として嗜む、というような 「下衆 (げす)い」 ことを私は薦めているのではなくて、2つの趣味には、純粋に没頭すればいい、と思う。2つの趣味のなかに没頭していれば、意識しようがしまいが、どうせ、なんらかの形で、思考に対して影響を及ぼすでしょうから。

 
趣味も、仕事と同じように、まいにち、継続したい。

 専門の仕事が人生を形成しますが、趣味も人生に対して多大な影響を及ぼしている、と思います。
 専門の仕事のほかに、2つの趣味があれば、少なくとも、人生のなかで退屈を感じることはないでしょうね。仕事に相対する 「気晴らし」 として趣味を嗜むのではなくて、専門の仕事に負けないくらいの知識を習得するためには、(1日のおおかたの時間は、仕事に割り当てられているので、それ以外の時間のなかから、) まいにち、継続して、趣味に打ち込むことになるでしょうね。

 私自身のことをいえば、スポーツ を観ますが、実際に やらないので、趣味は、ほとんど、読書になっています。
 読書のなかで、2つの領域を研究対象として選んでいます。1つは、哲学・宗教であり、もう 1つは、歴史です。さらに、詳しくいえば、哲学・宗教では、ウィトゲンシュタイン と道元禅師を対象にしていますし、歴史は、(日本史では、) 江戸時代を対象とし、(世界史では、) アウシュヴィッツ を対象としています。私の仕事とは、全然、関係のない領域を対象としていますが、それらの趣味が仕事に対して、多大な影響を及ぼしました。
 読書に疲れたら、「気晴らし」 に クラシック 音楽を聴いています。もっとも、私は 「ながら族」 なので、家にいて仕事をするときには、クラシック 音楽を聴きながら、執筆したり、メール を綴ったりしていますが。

 
2つの間に成立する関係に比べて、3つの間に成立する関係は豊かな綾を織りなす。

 愚息たちは 3人です。私には 1人の弟がいるので、愚息たちが 2人なら、(私の子ども時代を振り返って) 愚息たちの兄弟関係を想像することができるのですが、3人になると、2人だけの間に成立する関係とは、全然、ちがう関係が成立しているようです。
 それと同じように、仕事と 1つの趣味に比べて、仕事と 2つの趣味のほうが、豊かな綾を織りなすようです。
 趣味は多ければ多いほど、豊かな人生になるのでしょうが、趣味の中味を仕事と負けないくらいの品質にするのなら、(日々の仕事のあいまに趣味に打ち込むしかないのですから、) 趣味の数は 2つが限界かな、と思っています。
 趣味に没頭するあまり、仕事が疎かになってしまった、というのでは困りますから。

 



[ 読みかた ] (2008年11月16日)

 本文の導入部で 「仕事のほかに 2つの趣味を嗜みたい」 というふうに述べて、私の場合には趣味の数が 2つ以上になっていますが、「哲学・宗教と歴史」 (および、音楽) に親しんできたことを綴っています。本 エッセー が綴られた時点は 5年前 (2003年) なので、この 5年間に、私の趣味対象が変わってきたようです。私が今 (いま) 親しんでいる趣味領域は、哲学・数学・文学 (および、音楽) です。そして、これらの領域は、最近になってはじめた訳ではないので、たぶん、本 エッセー を綴った頃から趣味領域をずらしたのだと思います──たしかに、私の読書対象のなかで歴史は、おおきな比率を占めているのですが (そして、蔵書のなかでも、歴史の書物が非常に多いのですが [ たぶん、蔵書の 1/3 は、歴史の書物だと思いますが ])、ここ数年、歴史の書物を丁寧に読んだ記憶がない。ここ数年のあいだ、私が丁寧に読んできた書物は、哲学・数学の書物です──そして、今年になって、文学作品を読んでいます。

 私は データ・モデル を作る仕事に従事しているので、その仕事の性質上、読書の対象として、どこまでが仕事に関する書物で、どこからが趣味に関する書物なのかを判断するのが難しいようです。たとえば、哲学・数学の書物は──そして、文学や音楽も──、仕事のための書物であると言うこともできます。というよりも、仕事のための書物であるというのが ほんとうの様 (さま) でしょうね。というのは、私は、コンピュータ 関連の書物を読まないから。
 私は書斎を ふたつ使っています。ひとつは拙宅 (6階建ての アパート のなかの一戸) のなかの六畳間で、もうひとつは、ほかの アパート を (拙宅が入っている アパート に隣接している 3階建ての アパート で、3階の 一戸を書斎専用に) 借りています。それらの書斎には多量の書物が置かれているのですが、コンピュータ 関連の書物は、ほんの 30冊しかないと思います。2000冊弱の蔵書のなかで コンピュータ 関連の書物が 30冊くらいですから、コンピュータ 関連の書物は無いに等しいですね。誤解されないように断っておきますが、コンピュータ 関連の仕事に従事している私が コンピュータ 関連の書物を読んでいないというのは気を衒っているのではなくて、私は、1980年代、リレーショナル・データベース を日本に導入・普及する仕事をしていたので、コンピュータ 関連の書物を多量に読んできましたが、1990年以後、私の興味が モデル 作りのほうに移ったので、コンピュータ 関連の書物を読まなくなって、読書の対象が ほとんど数学・哲学の書物になった次第です。当時、読んだ コンピュータ 関連の書物を ほとんど捨てたので、いま、30冊くらいしか遺っていないという次第です。哲学は、20歳の頃 (35年前) から親しんでいました。

 34歳で結婚して新居 (アパート) に引っ越したとき、新居が狭かったので、独身の頃に読んで所蔵していた書物のほとんどを捨てなければならなかったというのが──捨てた書物は 4 トン積載の トラック に満載でしたが──事実です。捨てないで新居に携帯した書物は、本立て (幅 80センチ、高さ 180センチ) 1つの量しかなかった。当時、書物を捨てるのが辛かったのですが──4 トン トラック が書物を積み終えて下宿から離れてゆくのを愛惜の念で 暫し見送っていましたが──、今になってみれば、それで良かったと思っています。というのは、当時、私が読んだ書物は、たとえ、多量に読んだと言っても、たかが ミーハー 本を多量に読んでいたにすぎなかったので、蔵書に値する書物ではなかった。そして、てもとに遺した少量の書物を基底にして、私は、ふたたび、読書を進めて、新たな書物を買い集めることになった次第です。そして、いまの蔵書は──本 ホームページ の 「読書案内」 を ご覧ください──、定評のある書物を読んで集めてきたつもりです。

 本 エッセー のなかで、「三角点」 法を述べていますが、この読書法は、それぞれの領域に対して そうとうに相互作用をもたらすようです。哲学・数学の書物を読んだあとで、文学作品を読んで──私が、いま、読んでいる作品は、三島由紀夫 氏が綴った文学評論を集めた選集ですが──、それらのあいだに、「家族的類似性」 を強く感じることがあります。本 ホームページ の 「反 コンピュータ 的断章」 に綴っている エッセー 群において、「技術」 に関する説明は数学の書物から出ていますが、「着想・視点」 は哲学・文学から出てきています。そういう訳なので、私にとって、数学・哲学・文学は、やっぱり、仕事の書物なのかもしれない、、、。





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  佐藤正美の問わず語り