2003年12月16日 作成 | 枕草子 | >> 目次 (作成日順) |
2008年 5月16日 更新 |
以下に掲載する書物は、「枕草子」を、単独に「研究」しようとして所蔵しているのではなくて、文学史のなかで、日本人の「考えかた」を知りたいために所蔵している。 それが目的なので、文献を、枕草子研究のために、網羅的に収集しているのではないことを御了承ください。 |
[ 読みかた ] (2008年 5月16日)
作者 清少納言 (966年?〜1025年?) の本名は未詳です。「清」 は 「清原」 氏、「少納言」 は 近親者の官職名 (あるいは、家格身分) を表しています。父が亡くなってから、一条天皇中宮 定子 (ていし) に仕えた (正暦四年 [ 993年 ]、28歳のとき) とのこと。宮仕えする前に (981年、16歳のとき)、橘 則光 (たちばなの のりみつ) と結婚して、翌年に 則長 (のりなが) を出産しています。 「枕草子」 は、長徳二年 (996年) 頃に いちぶ綴られて流布して、一書としての成立は長保三年 (1001年) の頃だそうです。ただ、以後も、加筆・増補されたそうです。中宮定子 (のちに、皇后) に宮仕えした頃 (993年)、「枕草子」 を書きはじめています [ 枕草子 177段の記述 ]。清少納言の年齢は、中宮定子よりも 10歳ほど上です。 清少納言が仕えた中宮 定子は、紆余曲折の人生を送っています──正暦元年 (990年) に、15歳で入内 (じゅだい) しましたが、父 藤原道隆 (関白職、通称 「中関白 (なかのかんぱく)」) が──大酒飲みで、今で云う糖尿病で倒れ── 995年に病死し、兄 伊周 (これちか、内大臣職) が 996年に [ 従者が花山法皇を射った罪で ] 太宰権帥 (だざいのごんのそち) に左遷され [ 翌年に赦免帰京 ]、一条天皇の中宮 定子は 996年に仏門に下り宮中を退きました。997年に、中宮定子は 「職の御曹司 (しきの みぞうし)」 に移り [ 枕草子 46段・82段・74段 ]、正式には、長保元年 (999年) まで入内しなかった。なお、長保元年 (999年) には、藤原道長 (藤原道隆の実弟) の娘 彰子 (しょうし) が 12歳で入内しています。この年に、定子は、第一皇子 敦康 (あつやす) を出産して [ 枕草子 102段 ]、翌年に 皇后になりました──ちなみに、定子が皇后になった年 (長保二年 [ 1000年 ]) に、女御 彰子は中宮になっています。彰子の女房として、和泉式部や紫式部が仕えていました。清少納言・紫式部・和泉式部は、ほぼ、同年代に生きていました──清少納言は、定子の女房として、和泉式部は、昌子内親王の女房として、それぞれ、ぼほ同じ時期に宮中にいて、さらに、紫式部と和泉式部は、彰子の女房として、いっしょに宮中にいた時期もあります。清少納言は、長保三年 (1001年) に、36歳で宮仕えを退きました。
さて、「枕草子」 は、「源氏物語」 とともに、平安文学の双璧と云われています。 男性が綴った 「私日記」 には、「御堂関白記」 (藤原道長) や 「小右記」 (藤原実資) がありますが、公事 (公的行事) の次第・作法が子孫に伝えるための備忘録として記されています。ちなみに、道長は、通称 「御堂関白 (みどうかんぱく)」 と称され、正式には、関白にならなかったのですが、「この世をばわが世とぞ」 の歌に示されたように、「一家立三后 (一家に三人の皇后を立てる)」 の栄華を極めた摂政です。道隆も道長も、兼家の息子で──道隆が長男、道長が五男ですが──、道隆が亡くなったあとで、道長は氏長になって、定子 (前述したように、道隆の娘で、一条帝の中宮) と敦明親王 (定子の子) や 「中関白」 家 (道隆の子等) を退けて、どんどんと権力を得てゆきました。 「枕草子」 は、「日記文学」 であっても、類聚的な文と回想的な文が混成されていて、文体も、「源氏物語」 のような物語文に比べて──「源氏物語」 は、一文が長く、しかも、文のなかに、さらに、単文が挿入されていて (はさみこまれていて)、かつ、待遇表現 (敬語) を多用して主語を省略した文が多いのですが──、短文が多くて、体言止め・連体形止めが多用されています。「源氏物語」 が流麗な文体であるとすれば、「枕草子」 は簡潔な文です。本 ホームページ 「読書案内」 の 「源氏物語」 のなかで、「『源氏物語』 が 『あはれ』 の文学で、『枕草子』 が 『をかし』 の文学である、と云われている」 ことを記しました。この点に関して、渡辺実 氏は、以下のように説明しています (「新日本古典文学大系」 の解説)。
「源氏物語」 の登場人物が よく 「泣く」 に対して、「枕草子」 の人物は よく笑う。使用頻度は、数を なお、類聚的な文というのは、自然・人事を対象にして、嗜好・美意識を述べる文で、「枕草子」 では、「山は、、、」 というように、「、、、は」 ではじまる文や、「にくきもの、、、」 というように 「、、、もの」 ではじまる文です。これらの文を、「ものづくし」 とか 「ものはづけ」 とも云います。「枕草子」 の全体の文のなかで、約半数を占める文です。短文が多い。いっぽう、(類聚的な文に対して、) 日記的な文は、宮仕えの体験を綴った段で、長文が多い。 さて、紫式部は、清少納言を どのように観ていたか、という文を以下に引用します (「紫式部日記」)。
清少納言こそ、したり顔に いみじう侍りける人、さばかり さかしだち、真名書き散らして侍るほども、 てきびしい批評ですねえ。現代文に訳せば、「得意顔で 大げさで、利口ぶって、漢文を書き散らしてはいるけれど勉強不足で、風流惚けになっている」 とのこと。んー、まるで、私 (佐藤正美) のことを非難されているみたいです。 さて、「そのあだになりぬる人の果て、いかで良く侍らん (そういう風流惚けになったひとの ゆくすえは、良い人生にはならないでしょう)」 という点に関して、「無名草子」 は、清少納言の零落ぶりを以下のような説話として記しています。
乳母の子なりける者に具して、遙かなる田舎にまかりて住みけるに、青葉といふもの干しに外に出づ 現代文に訳せば、「昔の宮中生活が忘れられなくて、青葉を干すときでも、つぎはぎの布を烏帽子に真似て着用している」 すがた は、「いと あはれ」 とのこと──「いと あはれ」 を 「いと をかし」 にすれば、清少納言の 「気骨」 も示されたでしょうに、、、。 「枕草子」 は、後世、「源氏物語」 と並ぶ平安文学になるとは、紫式部も想像だにしなかったでしょうね。兼好法師は、「枕草子」 で示された観察眼 (「をかし」) に感応しました。そして、「枕草子」 が綴られた 約1000年後に生活している私も。 |
▼ [ 史料、資料 ] ● 北村季吟註 枕草子春曙抄、寛政六甲寅年七月購版 須原屋、明治 20年 9月求版 橋本幸蔵 ● 枕草子春曙抄 (上・下)、北村季吟、新典社 (北村季吟古註釋集成 3・4) ● 能因本 枕草子 (上・下) 学習院大学蔵、松尾聰 編、笠間影印叢刊 9・10 ● 枕草子、寛文七丁未暦二月 流布本 ● 校訂 三巻本 枕草子、岸上慎二 編、武蔵野書店 ● 枕草子総索引、松村博司 監修、右文書院 |
▼ [ 現代語訳、英訳 ] ● 枕草子・方丈記・徒然草、塩田良平・唐木順三・臼井吉見 訳、フランクリン・ライブラリー ● 枕草子・方丈記・徒然草 (日本古典文庫 10)、田中澄江・佐藤春夫 訳、河出書房新社 ● THE PILLOW BOOK OF SEISHONAGON、translated and edited by Ivan Morris、PENGUN BOOKS |
▼ [ 概説書、解説書 ] ● 全講 枕草子 (上・下)、池田亀鑑、至文堂 ● 枕草子評釈、塩田良平 著、學生社版 ● 堺本 枕草子評釈、速水博司 著、有朋堂 ● 諸説一覧 枕草子、塩田良平 編、明治書院
● 枕草子 (古典新釈シリーズ 8)、簗瀬一雄 監修、榊原邦彦 著、中道館
● 文法全釈 枕草子 (古典解釈 シリーズ)、今泉忠義・鈴木一雄 監修、安西迪夫 著、旺文社 |
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