2004年 2月16日 作成 パラグラフ の並べかた >> 目次 (作成日順)
2009年 3月 1日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、パラグラフ の構成について考えてみましょう。

 
 センテンス を並べて パラグラフ を作ります。そのとき、主張 (結論) となる センテンス を最初に置いたほうがよいことを、前回 (286ページ 参照)、述べました。すなわち、「why-because 」 形式 (あるいは、「I think..., because...」 形式)」 を使えば、論点が最初に提示されるので、logical thread (論理の流れ) を追跡しやすいことを、「一般論として」、述べました。

 
実用的な文の目的に合わせて、パラグラフ の構成を考えなければならない。

 実用的な文には、様々な目的があり、目的ごとに文の名称が付与されています。たとえば、提案書、企画書、論文、報告文、記録文、レポート という名称が、それぞれの文の目的を示しています。文章というのは、主題と構想が大切ですから、同じ主題を扱っても、目的が違えば、文の構想も違ってきます。したがって、「なんとかの 1つ覚え」 のように、つねに、「why-because」 形式を機械的に使うというのでは、文章作法に違反します。パラグラフ の構成は、実用的な文の目的に合わせて、以下のように考えればよいでしょう。

 (1) 提案書・企画書の基本形は、「問題点-改善案」 の並びがよい。
 (2) 論文の基本形は、「序論・本論・結論」 か 「意見・証明」 の構成がよい。
 (3) 報告文・記録文・レポート の基本形は、「時系列」 か 「箇条書き」 がよい。

 
 たとえば、報告文や記録文のなかで、「I think..., because...」 形式を使えば、「きみの意見は、どうでもいいから、事実を報告してくれ」 と非難されるでしょうし、提案書や企画書や論文のなかで、事実の記述や文献の引用が羅列されていれば、「ところで、きみの意見は、どうなのですか」 と訊かれるでしょう。
 目的に合わせて、文章の構成を考えてください。

 文章の綴りかたとして、センテンス を綴って、センテンス を並べて パラグラフ を構成して、パラグラフ を並べて文章を構成するような言いかたをしてきましたが、実際の執筆では、そういう手順にはならない。
 実際の執筆では、主題を選んだら、上述した パラグラフ の作法を前提にして、文章の体系 (章立て) を、おおまかに計画して、「順次」、執筆するという進めかたになるでしょう──ただし、文章の執筆順は、「順次」 とは言っても、たとえば、論文であれば、「結論 → 本論 → 序論」 の順に綴るほうが執筆しやすいでしょうね (230ページ 参照)。

 
1つの ページ (文字数 800文字) を、1つのまとまった概念の単位 (モジュール) として執筆すればよい。

 さて、執筆量が数 ページ や十数 ページ であれば、章立てを前提にして、一気に綴ることができるのですが、数十 ページ や (書物のように) 数百 ページ になれば、断続的に執筆するしかない。断続的に執筆せざるを得ないということは、思考が中断されるということです。中断した執筆を、再度、続けるには、以前に執筆した中味を読み返すことからはじめなければならない。この 「読み返し」 という準備作業は、意外に、時間と労力を費やします。たとえば、プログラマ が、プログラム を作成する際、「読み返し」 が、たびたび、起こります──プログラム の生産性を考えるとき、この 「読み返し」 を考慮しないで、作成日数を単純に日割り計算してしまうと、スケジュール が狂ってしまいます。

 それを回避するためには、「順次に」 執筆するのではなくて、いくつかの 「閉じた (完結した)」 断章の形にして、文章を綴ればよいでしょう。私は、「800字 (あるいは、1,000字)」 を 1つの 「閉じた (完結した)」 論点の単位として、執筆しています。この文字数は経験値なので、理論的に正しい、という証明はできないのですが、B5 版の書物では、1ページの文字数です。1998年以後に出版した拙著 (3冊) には、この ルール を適用しています。私は、今後も、この ルール を使うでしょう。私は、新書版形式の書物を執筆したことはないのですが、もし、新書版であっても、やはり、1ページ を 1つの単位として執筆するでしょう。1つの ページ を、1つのまとまった概念の単位 (モジュール) として執筆しておけば、「読み返し」 が、ほとんど、起こらない。

 

 



[ 読みかた ] (2009年 3月 1日)

 執筆のやりかたとして、本 エッセー のなかで述べた 「モジュール 法 (800字くらいの断章形式で綴るやりかた)」 は、たぶん、小説を綴るには適切でないかもしれないのですが、実用文を綴るには向いていると思います。

 三島由紀夫氏は、かれの著作 「三島由紀夫文学論集 1970. 講談社」 (三島由紀夫氏がそれまでに公表してきた文学論を虫明亜呂無氏が選択編輯した書物) のなかで、断片的に (たとえば、新聞・雑誌で連載形式で) 綴ってきた短い段落を集めて 1つの長編小説を構成しても小説として的確でないことを述べています──というのは、かれによれば、そういうやりかだだと小さい山場がいくつかあっても全体のなかでの大きな山場に欠けるから、とのこと。(参考)小説家がそう言うのだから──しかも、第一級の小説家がそう言うのだから──、そうなのでしょうね (私は小説を書いたことがないので、この点は本職の意見を引用するしかないので)。小説をはじめとして芸術的な構成では、たぶん、「序・破・急」 という構成が大切なのでしょう──世阿弥も 「花鏡」 のなかで、「序・破・急」 が能を作るうえで (能の脚本を執筆するうえで) 大切であると記しています。

 「序・破・急」 は、基調講演などのような演説では、勿論、配慮されなければならない──私も、基調講演をやるときには、そういうふうに話を構成しています。ただ、セミナー の構成や技術書の執筆では、1つの主題 (あるいは、せいぜい 2つの主題) のときには、「序・破・急」 の構成で良いと思うのですが、或る専門領域で使われている具体的な技術を数多く述べるときには、構成法は どちらかと言えば、報告文・記録文に近い構成になるでしょうし、いままで使われていない新しい技術を述べるのであれば、論文の形式や提案書・企画書に近い構成になるでしょうね。そして、そうであれば、「モジュール 法」 が役立つでしょう。

 
(参考) 引用した三島由紀夫氏の意見は、私が要約した文であって、かれの文は、正確には以下のとおり。

   つまり長篇を連載する代わりに、あちこちの雑誌に短篇形式で各章を発表して行き、それをつなぎ
   合はせて長篇として上梓するといふ慣行はある。しかしこれは作者と雑誌と読者の三方損である。
   一応短篇形式をとるだけに、纏まりがなければならず、それを無理に長篇としてつなぎ合はせると、
   小さい波ばかりが起伏してゐて、大きな頂点の効果が出ない。又、短編としても独立しない不完全
   なものであるから、短編の完結性を味はふことができない。かういふ発表形式は日本の伝統に長篇
   と短編の ジャンル が峻別されてゐず、源氏物語や西鶴以来の連作形式の長篇が多く行はれてゐる
   ためであらう。





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  佐藤正美の問わず語り