2004年12月 1日 作成 読書のしかた (源泉の感情) >> 目次 (作成日順)
2009年12月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「源泉の感情」 について考えてみましょう。

 
 我々が、様々な事象のなかにいて、直接に関与する状態は、長い人生のなかでも、場数が限られています。すなわち、自らの行為が及ぶ界域というのは、時間的にも空間的にも、限られています。たとえば、私は、「イラク 戦争」 も 「イチロー の安打記録」 も、直接に観ている訳ではない。新聞・テレビ の報道を読んだり観たりして、(「情報」として、) 間接的に 「知っている」 にすぎない。言い換えれば、そういう事象の渦中にいる訳ではない。

 「観てきたように、物を言う」 という言いかたがありますね。間接的に入手した情報を、あたかも、事象の渦中のなかにいて、観てきたようにしゃべることを、揶揄した言いかたです。

 仏教用語として、「一水四見」 という言いかたがあります。1つの事象は、立場が違えば、様々に見える、という意味です。「『この目で観た』 と言っても、その目が怪しい」 というふうに、故・澤木興道老師 (禅僧) は、おっしゃていらっしゃいました。事象は、事実ではない。事実は、判断です。したがって、事象を、事実として記述する際、個人として、「FOR (Frame Of Reference)」 が関与する、ということです。つまり、個人の bias が作用する、ということです。

 判断は、限定を意味します。自らが体得している 「FOR」 を基礎資料にして、判断をするのですから、当然ながら、事実の記述は、「或る観点からの限定」 にならざるを得ない。ただ、判断は、限定するがゆえに、簡明な外観を与えます。そして、自らが関与していない・「情報」 として知りたい事象に関して、ほかの人が、簡明な言い切りをしてくれたほうが、「わかりやすい」 という錯覚を抱いてしまう。夥しい情報のなかで生活している 「忙しい現代人」 は、うっかりすると、「簡明なわかりやすさ」 の罠に陥りやすい。脳味噌が単細胞であるがゆえに、「簡明なわかりやすさ」 を、つねに、しゃべる、という人たちも多いようです。「思想」 に関して、簡明でわかりやすい、ということを警戒しなければならない。

 気晴らしに書物を読むこともあれば、「情報」 を仕入れるために文献を読むこともあります。私は、大学生の頃、多数の書物 (文学・哲学) を読んで、それぞれの書物の中身を、なかなか、覚えられない、と嘆いたこともありました。すなわち、当時、文学・哲学を 「learn」 することに夢中になっていて──それは、それで大切なことなのですが──、「unlearn」 という濾過のなかで遺る 「作者の礎石とも云える 『源泉の感情』」 を配慮していなかった。作者の 「源泉の感情」 を体得することは、(故・小林秀雄氏の言いかたを借用すれば、) 「暗闇のなかで握手する」 ような行為です。その行為を記述しようとしても、曰く、「言い難し」。この感覚を体得するためには、作者の全集 (あるいは、多量の書物) を読み込んで、作者といっしょに談話しているような 「生々しい事象を復原できる 『健全な思考力』」 がなければならない。独りよがりの想像力は、事象を復原することができない。

 読書技術を覚えるためには、少ない書物を 「材料」 にして、丁寧に読むことが大切です。そして、いっぽうでは、或る作者の全集を読むことも大切です。全集を読むとなれば、自らの気質に似た作者を選ぶことになるでしょうね。なぜなら、そうでなければ、全集を読み通すことなどできないから。そういう作者が、「鑑・鏡」 になるのでしょうね。

 



[ 読みかた ] (2009年12月16日)

 作家の 「源泉の感情」 を感じるほどに 「全集 (あるいは、選集)」 を愛読するとなれば、一日の生活のなかで読書のために割くことのできる時間は限られているので、愛読する作家の数は、どうしても少なくならざるを得ないでしょうね。勿論、多くの作家の作品を次々に読んで知見を広げるという読書も読書のひとつであって、いささかも、読書を少数の作家に限らなければならないことはないでしょう。読書は、生身の人間との つきあい に似ていて、人脈の広い ひともいれば、数少ないけれど気が置けない親友と深交を温めている ひともいるでしょう。他の人たちと どういう ついあいかたをするかは、そのひとの人生観に沿った判断であって、他人が どうこう謂える筋合いじゃない──同じことが読書にも謂えるでしょう。

 私の場合は、数少ない人たちと じっくり つきあうほうが気質にあうようです。だから、私の読書も、そういう傾向を帯びています。私が どういう作家と つきあっているか という点は、本 ホームページ 「読書案内」 を ご覧いただければ直ぐにわかることなので、ここでは再録しないで、最近になって つきあいはじめた哲学者のことを述べましょう。その哲学者は、ソクラテス です。私が青年期から今に至るまで つきあってきた哲学者は、ウィトゲンシュタイン ですが、最近になって、ソクラテス とも つきあいはじめました。ソクラテス の考えかたに共感を覚えたのは、「プラトン 名著集」(参考)を読んだときです。この書物は、たしか、私が大学生の頃にも読んだ記憶があるのですが、当時は、ソクラテス に対して 全然 感応しなかった。

 ウィトゲンシュタイン と ゲーデル のことを、それぞれ、「現代の ソクラテス」 と 「アリストテレス 以来 最高の ロジシャン」 というふうに喩えられることがありますが、絶妙な喩えだと思います──ウィトゲンシュタイン の場合で謂えば、かれの論法が ソクラテス の論法に似ているし [ ただし、ウィトゲンシュタイン は、ソクラテス に比べて、「対偶」 を使うことが多いのですが ]、「思いもよらない巧みな比喩」 を使う点も似ていますし、ふたりとも、論法を重視していて、その論法から導かれる帰着を つゆぞ体系化しようとしない点も似ています。私が今になって ソクラテス に共感を抱くようになった理由は、たぶん、ウィトゲンシュタイン を読んできていたからかもしれない。

 「パイドン」 を読んでいて、ソクラテス が毒を呷 (あお) って、毒が体内に回るようにするために部屋を歩き回って、毒が次第に効いてきて終に脚が重くなって仰向けになった件 (くだり) では、私は、じぶんの心臓が ドキドキ する臨場感を味わいました。したがって、「パイドン」 に綴られている文は、私にとって、紀元前に綴られた古い文ではなかった──生々しい報告文でした [ その場面を綴った プラトン の筆さばきが見事だからでしょうね ]。ソクラテス・プラトン・アリストテレス のなかで、私は、ソクラテス を特に好きです。

(参考)「プラトン 名著集」、田中美知太郎 編、新潮社、昭和 38年。





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  佐藤正美の問わず語り