2005年 1月16日 作成 | 読書のしかた (実相) | >> 目次 (作成日順) |
2010年 1月16日 補遺 |
「実相」 という単語は、普段の使いかたでは、「実際のありさま」 のことを云うようですが、眼の前で起こっている 「実際のありさま」 というのは、そもそも、我々が、(いままで習得してきた) 知識を前提にして、「認知」 しなければ、「実相」 にはならない。つまり、現象そのものは、そもそも、「無相」 である、ということでしょうね。「実相」 というのは、我々が、習慣や制度のなかで作ってきた認識力のことでしょうね。この認識力を養う 1つの手段が読書です。 「実相」 という単語は、仏法では、そういう 「実際のありさま」 のなかで、煩悩を捨てた 「真実のすがた」 のことを云い、真如とか法性と、ほぼ、同義語として使われて、真如は、(我執を排除した) 「如是」 の状態ですから、実相は、そのまま、現象として起こっている一切を示すことになって、「実際のありさま=真実のすがた」 という逆転現象になるようです。 「実相」 を、そのまま、凝視する、という行為は、非常に、むずかしい。というのは、「実相」 を記述しようとした時点で、なんらかの 「価値判断」 が関与しているから。「事実を記述する」 ということは、かならず、1つの (あるいは、1つ以上の) 視点を前提にしているので、ことさように、むずかしい行為です。「(事実を、ありのままに、) 観る」 ということを体得するためには、そうとうな修練を積まなければならないようです。「眼横鼻直 (眼は横、鼻は縦)」(道元禅師のことば) という文を聞いて、「当然のことだ」 としか思えないとしたら、自らの思考が、ゆがんでいるからでしょうね。 「実相」 を認識する力を養う 1つの手段が読書だとすれば、うっかりすると、読書が、(「実相」 のなかに潜んでいる) 「法則」 (あるいは、「認知の パターン」) を得るための手段のように思い違いされるかもしれない。そういう間違いに陥れば、「当為癖 (こうでなければならない、という意識)」 が出るようです。 正しい思考というのは、かならず、視点 (「目的」、「前提」および「制約」) を、はっきりと、自覚しています。したがって、文の記述というのは、「無相」 たる 「実相」 を、どのようにして視ているか、という点を提示するにすぎない。正しい思考には、かならず、数多い視点のなかの 1つにすぎない、という自省がある。逆に言えば、「視点」 が、つよく提示されていれば、それが、整合的かどうか、役立つかどうか、という点を検証しやすい。「視点」 を排除することが、「科学的」 である、ということではない。「視点」 を排除して、あたかも、事実的対象に即しているかのように、体系や思想を述べている書物を、我々は警戒しなければならない。 |
[ 読みかた ] (2010年 1月16日)
他の人たちの意見・技術を聞く──あるいは、書物で読む──ときに、私は、かならず、「目的・前提・制約」 を聞き取る (あるいは、読み取る) ことにしています。そういう点を明らかにしていない意見・技術を私は信用しない。というのは、「範囲を限定する」 というのが、なんらかの形 (フォルム) を 「構成する」 前提だから。 ただ、本 エッセー を今読み返してみて、私が じぶんで確認するように文を綴っている点は、「目的・前提・制約」 の反対側に立っている 「当為癖」 を指弾する点にあったようです。今の私なら、以下のように綴るでしょう──現実的事態は、ひとつの視点で書き尽くすことなどできない、と。 では、「複眼的」 な見かたは、われわれに対して、事態を いっそう 「正確に」 観れるようにできるのか、、、私には、「複眼的」 な見かたというのは、複数の視点が束ねられただけであって、様々な視点の上での 「解釈」 の存在性を確認するにすぎないと思われます。視点が複数・多数になっても、われわれは、事態を 「包括的に」 観るのではなくて、「(しかじかの見かたのほかにも、) そういうふうな見かたもできる」 という認識を超えることができないのではないかしら。そして、現実的事態というのは、われわれの視点を超えて豊富である、という意識を確認するに終わるでしょう。 |
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▼ 佐藤正美の問わず語り |