2005年 2月16日 作成 「モノ」 の認知 と 「関係の論理」 >> 目次 (作成日順)
2009年 3月16日 補遺  


 
 「関係の論理 (aRb)」── a は b に対して、関係 R にある──は、数学的には──直積集合として──、ふつう、以下のように記述することができる。

       R { n1∈N1, n2∈N2,・・・, ni∈Ni, ∧ P(n1, n2,・・・, ni ) }.

 P (n1, n2,・・・, ni) は、モノ の存在を示している。
 さて、この世界のなかに、どのような事物が存在するか、という点は、偶然的な事実である。そうだとすれば、「すべての n について、f (n) 」 は、n1∈N1, n2∈N2,・・・, ni∈Ni と同値ではなくて、正確には、「n1∈N1, n2∈N2,・・・, ni∈Niかつ、n1, n2,・・・, ni が すべての モノ である」 と同値である、と言うことができる。

 論点になるは、「n1, n2,・・・, ni が すべての モノ である」 という記述が、同語反復 (トートロジー) か、どうか、という点である。 もし、同語反復であるとすれば、この記述は、無意味になる。つまり、R { n1∈N1, n2∈N2,・・・, ni∈Ni } という記述で良いことになる。そして、もし、選択公理を 「つよく」 適用して、「空でない集合のなかから メンバー を選ぶ」 とすれば、つまり、「n1∈N1」 を考えれば、「或る n が存在して、n1∈N1」 が必然的に帰結することなる。(参考)

 そして、もし、n1 と n2 が、すべて ではなくて、ほかにも、n3 が存在すると考えれば──世のなかには、同じ個体はない、ということを前提にすれば、言い換えれば、個体に対して、認知番号を付与することができれば (あるいは、もっと、「つよい」 意味で、認知番号を使って、並べることができれば)──、n3 が、 n1 と n2 の いずれ とも同じではない (同一性が成立しない) というのは、当然な事実である。

 小生は、P (n1, n2,・・・, ni) を同語反復である、とみなしている。したがって、T字形 ER手法では、使わない。 ただし、コッド 関係 モデル では、この記述は意味を与えられている。すなわち、 関係 R のなかに、null を認める前提になっている (R と同じ次数の空集合を前提にしている)。

 
(参考)

 選択公理 (ツェルメロ 氏が証明した公理) は、「哲学的な」 証明であって、「数学的な」 証明ではない、として、認めない数学者たちもいる。



[ 補遺 ] (2009年 3月16日)

 はて、私は、どうして、この時期 (2005年 2月) に、「直積集合」 の述語論理的記述を わざわざ 確認しているのかしら、、、本 エッセー を綴った理由を私は思い起こすことができない、、、。

 本 エッセー に先だって (前回の エッセー では、) 「認知番号としての コード」 を論じて、「個体」 を実体主義的に定立しているので──ただし、「個体」 は、本来、定義が難しいのですが、TM では、「個体指定子 (entity-setter)」 を起点にして、「個体 (entity)」 を定義しているので──、「関係」 を記述する テクニック として 「直積集合」 を再検討しているのかもしれない。だから、本 エッセー の題を 「『モノ』 の認知と 『関係の論理』」 としているのでしょうね。

 さて、「関係」 は、「直積」 の部分集合であるというのが数学的表現です。そして、コッド 関係 モデル は、「直積」 を使って、属性値集合 (の値) を 「並べて」 タプル を組んで、タプル が 「主体」 を指示するという構造を作っています──そして、タプル のなかに 「空集合」 を認めています。「直積」 を基底にして 「主体」 を記述するのであれば、たぶん、この やりかた が妥当な やりかた でしょうね。そして、「主体集合」 のあいだでは、包摂関係を適用するというのが妥当な やりかた でしょう。もし、TM (T字形 ER手法の改良版) が 「直積」 を基底にして データ 構造を考えるのであれば、コッド 関係 モデル を継承するしか やりかた はないでしょうね。

 本 エッセー を綴った 2005年 2月という時期は、拙著 「赤本 (データベース 設計論〜関係 モデル と オブジェクト 指向の統合をめざして〜」 (2005年 9月出版) を執筆する直前の頃です。(拙著 「論考」 [ 2000年出版 ] で 「構文論」 の テクニック を棚卸しして、「意味論」 を 、ウィトゲンシュタイン 氏の哲学に沿って、「写像理論」 から 「言語 ゲーム」 に移して、) 「赤本」 では、「意味論」 を 「真」 (導出的な L-真と、事実的な F-真と、「合意」 された認知) という観点から見直した著作です。その著作 (「赤本」) を執筆する直前に、「直積」 を再検討しているというのは、たぶん、「関係」 文法として 「直積」 を使うことに対して私は非常な抵抗を感じていたのでしょうね。ただ、そういう感じを抱きながらも、「赤本」 では、「関係」 を、せいぜい、「対称性・非対称性」 の観点でしか論じることができなかった──当然ながら、「対称性・非対称性」 を論じて、「関係」 に対して、ひとつの 「関数」 を一律適用することを反対しているのですが。

 今年 (2009年 2月)、拙著 「SE のための モデル への いざない〜データ・モデル とは何か〜」 を出版しました。拙著 「いざない」 は、再度、数学基礎論の テクニック を棚卸しして (拙著 「論考」 とは べつの観点に立って、) 「関数」 を再検討しています。そして、「構造」 を作るときに、ブルバキ が示した 「代数的構造、順序的構造、位相的構造」 を確認して、「位相的構造」 を 「関係の対称性・非対称性」 の観点から見直して、「閉包、外点、特性関数」 を 「個体 (entity)」 に適用して、「event と resource」 を再検討しています。そして、「個体 (entity)」 のなかには、「全順序」 という特性を示す集合 (event) 群と 「半順序」 という特性を示す集合 (resource) 群が存在することを再確認して、「(TM の) 関係文法」 の妥当性を検証しています。言い換えれば、「直積」 という観点ではなくて──TM においては、「個体 (entity)」 は実体主義的に定立されてるので──、「特性関数」 の観点から、集合 (閉包) を論じています。したがって、本 エッセー で述べた P (n1, n2,・・・, ni) の ありかた を、全順序を示す集合群と半順序を示す集合群に適用するときに、「直積」 のみでは論じられないことを 「いざない」 のなかで はっきりと記述しました。「いざない」 は、モデル の正当化条件 (および、いっぽうで、真理条件) を検討した著作です。本 エッセー で記述したことを、4年も費やして、「いざない」 のなかで、なんとか、具体的に示すことができた次第です──4年も費やしたということは、或る意味では、私の頭の悪さを [ 数学が苦手であることを ] 露呈しているのかもしれない、、、。





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