2005年 5月 1日 作成 | 対象と語、 事態と言明 | >> 目次 (作成日順) |
2009年 6月 1日 補遺 |
「算術」 の定理は、「数」 に関する性質と、「数」 のあいだに成立する関係を述べている。そして、われわれは、ふだんの生活のなかで、算術を使っている。しかし、われわれは、「数」 というのが、どのような 「対象(objekt)」 なのか、というような検討をしないで、「数」 に関する文法を使っている。「数」 に関する文法を使わないで、ふだんの生活を送っている人は、まず、いない──典型的には、生活のなかで、貨幣の計算を考えてみればよい。 「科学」 という総称が、どのような個々の 「科学」 を ふくんでいるのか、という点に関して、小生は、意見を述べるほど、「科学」 を知っている訳ではないが、少なくとも、自然科学と精神科学 (心理学) と文化科学の 3つは、成立するのではないか。自然科学の定式は、全称言明として示されるので、膨大な数に及ぶ単称言明を集めた体系ではない──単称言明の連言ではない。逆に、全称言明を起点にして、単称言明を導出できるので、全称言明は、単称言明を対象にした 「実験」 という 「あやまり排除」 のなかで、妥当性を検証される。逆に、精神科学と文化科学では、(「事態」 を観察対象としているが、) 「知・情・意」 を前提として、「行為の選択可能性」 という恣意性が関与するので、自然科学的な やりかた (あるいは、数学・論理学を使った定式化) を使って、「正確に記述する」 ことはできない、と みなされている。したがって、精神科学と文化科学は、「事態」 を観察して、帰納的に、「傾向値」 を定立する性質を帯びていている、とされる。つまり、精神科学と文化科学では、(被観察対象の) 「主観」 が関与すると みなされて、「個々の主観」 を前提にすれば、「傾向値」 を語るしかない。 「主観」 の性質を述べるのであれば、「主観」 のあいだに成立する関係も考慮されなければならない──「主観」 のあいだに成立する性質 (関係) を、「間主観的」 と云う。「間主観的」 状態が成立するためには、「間主観的」 な伝達のなかで、「間主観的な有意味性」 の成立が前提となる。「間主観的」 な伝達は、なんらかの「間主観的な言語 (同意された文法を前提にした言語)」 を使って成立する。 「事態」 の表象は、認識主体にとって、主観的な 「内的な」 像である。すなわち、或る人が抱く像 (表象) は、ほかの人が抱く像 (表象) と同じではない。どのような像 (表象) を抱くか、という点は、主観的である。語の 「意味」 とは、語と 「事態」 との指示関係をいう。「意味」 と 「像」 との中間に、「意義 (記述のしかた)」 が成立する。「像」 は、「主観」 に帰属する領域である。語の 「意義」 は、「間主観的」 であるが、「表現関係」 を示す領域である。そして、語の 「意味」 は、「間主観的」 であり、「指示関係」 を示す領域である──語の 「意味」 は、最終的に、真理値 (真あるいは偽) を示す。
[ 主観的 ]
[ 主観的、間主観的 ]
[ 間主観的 ] |
[ 補遺 ] (2009年 6月 1日)
本 エッセー は、TM (T字形 ER手法の改良版) の正当化条件・真理条件を整えるための転換点となった考えかたを大掴みに綴っています。本 エッセー の後半 (「意義と意味」、フレーゲ 氏の説) は、2005年 9月に出版した 「赤本 (データベース 設計論)」 に取り入れられていますが、前半 (「数」 の例え話) は、本 エッセー のなかで後半を導入するための前振りとして──「間主観的」 という概念を導入するために──記述されているのみで、「赤本」 には取り入れられませんでした。 しかし、「『数』 の性質・関係 (『算術』 の言語) は、それを使う人たちの 『同意』 を前提にしている」 という意見は、「赤本」 のなかで、「『間主観的』 に、 『対象 (Objekt)』 の代わりとして、『語 (Wort)』 について語り、『事態』 の代わりとして、『言明』 について語る」 とのみ言い換えられただけであって、「合意」 概念が モデル のなかで 「真」 概念に対して どのように係わっているのかを明らかにしないまま──明らかにできないまま──ほったらかしになっていました。本 エッセー の題名になっている 「対象と語、 事態と言明」 という考えは、TM の前身であるT字形 ER手法を作ったときから ズッ と 「対象の代わりに語を、事態の変わりに言明を」 分析するという接近法で実施していたのですが──ウィトゲンシュタイン 氏の後期哲学を参考にして、語の 「意味」 を 「合意」 概念として捉えて、モデル の対象にしていたのですが──、「赤本」 では 「意味論」 を テーマ にしていながら、「合意」 概念が数学的な 「真」 概念と どのように係わるのかを丁寧に検討しないままに モデル (TM) を論じていました。 「合意」 概念と 「真」 概念 (カルナップ 氏流の 「導出的な L-真、事実的な F-真」) との関わりを検討した拙著が 「いざない (モデル への いざない)」 (2009年 2月出版) です。「いざない」 は、数学基礎論の (モデル に係わる) 基本技術を説明するいっぽうで、数学的な 「真」 と言語哲学的な 「合意」 を モデル のなかで整合的に結ぼうとした著作です。すなわち、数学的な完全性 「F-真 ←→ L-真」 において 「F-真」 のありかた──その 「F-真」 が どのようにして認められるのか、ということ──を問い直して、以下の体系として構成しました。 合意された語彙 → L-真の構成 → F-真の験証 自然言語を対象にして モデル を構成する場合には、「合意された語彙」 を 「F-真」 とすることはできないでしょうね。たとえば、「分類 コード」 という語で指示される対象は存在しない──たとえ、数学的に、「分類 コード」 を、関数のなかで変数として、変数を充足する 「値」 が存在するとしても、「分類 コード」 で指示される対象 (「分類」 という対象) は実存しない [ 言い換えれば、「分類」 は、「構成できても指示できない」 ので実在的対象ではない ]。「分類 コード」 が使用される理由は、そういう コード があれば、事業を管理しやすいので、事業過程・管理過程のなかで 「同意されて」 使われている語です。したがって、そういう語を対象にして モデル を構成するのであれば、意味論的に 「F-真 → L-真」 という手続きを導入できないでしょう。そこで、「合意された語彙」 を前提にして文法を適用して 「L-真 (文)」 を構成して、その構成された 「文」 が 「F-真」 かどうかを問えばいいでしょう [ 勿論、構成された 「文」 は、「F-真」 になるときもあれば、(「L-真」 であっても、) 「F-真」 にならないときもあります ]。たとえば、「分類 コード」 と 「商品 コード」 で構成された { 分類 コード (R)、商品 コード (R) } は、「L-真」 であって 「F-真」 ではない。 拙著 「いざない」 において、TM の モデル としての正当化条件・真理条件を 「合意された語彙 → L-真の構成 → F-真の験証」 として整えたのですが、その起点 (あるいは、転換点) になった考えかたが 本 エッセー で綴った前半でした。 |
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