2005年 5月16日 作成 日記 (人生の航海日誌) >> 目次 (作成日順)
2010年 5月16日 補遺  


 
 TH さん、きょうは、「日記」 について考えてみましょう。

 
 作家 (小説家や画家などの芸術家) が遺した日記・手紙を読むことは──他人の生活を覗き観して、喜ぶような趣味は、私には、無いつもりだけれど──、愉しい。梶井基次郎の遺した手紙は、文芸作品と言って良いほど、文体や音調が魅力的です。

 今回の話題として取り扱いたい 「日記」 は、作家の遺品ではなくて、われわれが綴る日記です。
 日記を綴るのは、良い習慣だと思う。他人に見せるために綴るのではなくて、自分だけのために綴る、という行為が、どのような意味があるのか、と問われたら、私は、的確な返事をすることができないのですが、敢えて、一言で云うなら、日記は「人生の航海日誌」かもしれないですね

 私自身のことを言えば、1975年から、日本語で日記を綴っていたのですが──ただし、まいにち、綴っていたのではなくて、じぶんの考えを 「断章」 形式として綴っていたのですが──、1992年頃から、英文で日記を綴るようになりました。日本語の日記と英文日記では、中身が違っています。日本語の日記 (1992年以前) では、思い浮かんだ着想を、なんとかして、まとめるために、「思索の跡」 を記しているのですが、英文日記 (1992年以後) では、日々の 「できごと」──自らの日常生活のなかで起こった 「できごと」──を、まいにち、記録しています。

 日記が 「人生の航海日誌」 であるとすれば、以下の 2つの性質を帯びているでしょうね。

 (1) 日々の備忘記録 (記録的日記)
 (2) 感想・意見の記録 (反省的日記)

 以上の 2点が、ともに、記されているのが、日記として良質なのでしょうが、以上の 2点を、丁寧に記すとなれば、日記を綴るために、1時間ほど費やすことになるでしょうね。私は、日記を綴るために、1時間も費やすほど内省的な性質ではないし、そういう時間を、まいにち、取るほど暇でもない。そうすれば、日記を綴らないようになってしまうけれど、いっぽうで、「人生の航海日誌」 を遺しておきたいとも思うでしょう。

 とすれば、日記を、次のように綴ってみては、どうでしょうか。それは、(白紙と向きあって、文を、どのようにして綴ろうか、と考えながら、呻吟するのではなくて、) 読書したときに、気に入った文・語句を写し取ったり、思い浮かんだ文・語句を書き込むことです。たとえば、私は、(いま、振り返ってみれば、) 1985年 5月19日付けの日記では、「情緒よりも構成」 という語句を、書き記していました。当時 (31歳でしたが)、私は、すでに、「構成」 ということに対して、関心を抱いていたことが記されていますし、その語句を読んだら、すぐに、当時の仕事・生活を、生々しく、思い起こすことができます。そして、その語句 (「情緒よりも構成」) は、20年の時を超えて、2005年 3月23日付けの (本 ホームページ のなかの) 「反・文芸的断章」 のなかに再現しました。その 20年のあいだ、私は、TM の体系を作ることに専念していて、「体系」 ということが、つねに、頭から離れなかったようですね。

 そういうふうな日記を綴れば──読書していて気に入った語句を写し取るとか、「できごと」 に対して思い浮かんだ語句を書き記しておけば──、「読書と思索と人生」 の結節点として 「人生の航海日誌」 になるでしょうし、日記を綴るために、わざわざ、時間を費やすこともないでしょう。
 たとえば、手帳などに、スケジュール を記しているのなら──当日の スケジュール が終わったら──、寝る前に、一日の感想や読書した語句を、書き添えておけば良いでしょう。「○年○月○日、10:00〜12:00、読書 (カルナップ)」 という記録に添えて、カルナップ 氏の書物を読んでいて、気になる語句として、「事実的な F-真、導出的な L-真 (カルナップ)」 という語句を、日記のなかに綴っておけば、しかじかの日に、私が、どういうことを気にしていたか、ということが、のちのち、振り返ることができるでしょうし、あるいは、クリプキ 氏の書物を読んでいて、「名指し、固定指示子」 というふうに記していれば、しかじかの日に、どういうことを気にしていたか、という点を振る返ることができます。
 仕事や読書に、終日、専念していれば、そうとうに疲れるので、一日の終わりに、改めて、思考をふりしぼって、日記を認 (したた) めることは難しいでしょう。そういうときには、日記として、簡単な文・語句を書き写す、あるいは、書き下すのが、良いでしょうね。



[ 読みかた ] (2010年 5月16日)

 私は、英文日記を今でも綴っています。英文で日記を綴るという行為は、私の思考に対して、とても良い作用をしているようです。というのは、英文を綴るためには、ロジカル に考えなければならないので──英文を綴るためには、日本語では ほとんど意識してこなかった文法 [ 冠詞、数 (単数・複数)、時制、助動詞、前置詞など ] を つねに意識しなければならないので。たとえば、「私は、手に本 (書物) を持っている」 という日本語の文は、なんとなく意味がわかる (伝達される) ように感じるのですが、実は、なんら 「事実」 を伝えてはいないでしょう。というのは、この日本文に対応する英文として、以下の 4つが候補になるので。

 (1) I have a book in my hand.
 (2) I have books in my hand.
 (3) I have a book in my hands.
 (4) I habe books in my hands.

 それらの 4つの候補のなかで、私が 「事実」 として記録したい状態は どれなのかを選ばなければならない。
 あるいは、「そういうことは ありえないだろう」 という日本文に対して、以下の英文の どれに翻訳するかによって、推測の度合い (確率) が違ってきます。

 (1) It will not be possible.
 (2) It may not be.
 (3) It cannnot be.

 勿論、日本語でも、「確率」 の表現はあります──たとえば、「ひょっとして」 とか 「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」 とか、「絶対に」 とか。ただ、日記を綴るときに、「そういうことは ありえないだろう」 と大雑把な文 (日本語) が頭のなかに浮かんでも、その概念を英文で綴ろうとすれば、文を綴る前に ちょっと立ち止まって、助動詞が示す 「確率」 を考えなければならないでしょう。そういうふうに考えさせられることが私の思考に役立つ、ということ。

 私は日記を綴っていると言っても、だれに見せる訳でもないので、私の寿命の尽きるのを感じたときには、私は日記を焼却してから この世を去るでしょうね。私の日記を愚息たちに遺して、私が どういう生きかたをしたのかを伝えるつもりはない──というのは、日記に綴られている 「事実」 は、あくまで、私の個人事 (個人の人生航海日誌) であって秘密事もあるので。





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  佐藤正美の問わず語り