● 提示された論点は ...
「サブセット」は、同一 entity のなかで、「is-a」 関係および 「instance-of」 関係を示す。
いっぽう、「VE」は、ちがう entity の性質を示す (「に対して」 という関係を示す)。
しかじかの性質が、かくかくの entity のなかに 「帰属する (attribute)」 という判断は、どのようなルール (指示規則・生成規則) を前提にしているのか。
● 哲学の考えかた (実体主義と関係主義) ...
「関係」は、一般的には、2つ以上の個体のあいだに成立する 結びつき・関わり のありかたをいう。したがって、「個体のあいだ」ということを前提にしているので、「個体」が一次的なモノであり、「関係」は二次的なモノである、と考えられてきた。
「個体と関係」に関する考えかたとして、以下の2つがある。
(1) 実体主義
(2) 関係主義
実体主義の考えかたは、独立自存する「実体」が、まず、あって、次に、(「実体のあいだ」に、) 「関係」が二次的に成立する、という考えかたである。
関係主義の考えかたは、「関係」が一次的であって、「実体」は、「関係のなかの変項」にすぎない、という考えかたである。
関係主義という用語を最初に使った人物は、リッカート氏 (Rickert, H.) である。彼は、「一者」と「他者」との統一である「関係」という ありかた こそが根源的である、と考えた--その考えかたは、仏教の縁起観に近い、と思う。
また、カッシーラー氏 (Cassirer, E.) は、「実体概念と関係概念」(1910年)のなかで、「個々の概念は、理論的複合体のなかで、項としてのみ確認される」ことを論証して、科学的な認識が、実体概念からはじまって、関係概念のほうに移ってきたことを明らかにした。
「関係」に関する考えかたは、哲学では、以下の4つにまとめることができる。(参考)
(1) アリストテレスのカテゴリー論
(2) カントのアプリオリ的定式化(悟性論)
(3) 英国の経験主義 (ロック、バークリ、ヒューム)
(4) ヘーゲルの弁証法
アリストテレスは、「カテゴリー論」のなかで、カテゴリーを 10個 考えて、そのなかの1つとして、「関係」を示し、以下のように定義している。
(1) 他の或るモノ-の
(2) 他の或るモノ-に対して
そして、「関係」の確認例として、「(に比べて、)より大きい」とか「2倍である」という概念を示している。アリストテレスでは、「関係」は、「類」概念であり、「実存」と考えられている。
それに対して、カントは、「関係」を、認識のなかで、「判断形式」(定言的・仮言的・選言的) を前提にして、導出した。定言的な「関係」として、「実体と偶有性」を、仮言的な「関係」として、「因果性と依存性」を、選言的な「関係」として、「相互性」を導出して、(カントでは、) 「関係」は、「認識の作用」であって、「実存」ではない、とした。ただ、認識は、悟性として、アプリオリ (先天的) とされている。
経験主義に関しては、いずれ、多くのページ数を割いて語りたい。というのは、(歴史的観点から言えば、) この考えかた--とくに、ヒューム氏 (Hume, D.)--が、ウィトゲンシュタイン氏やポパー氏に対して、大きな影響を及ぼしたから。ヒューム氏の考えかたを理解していれば、ウィトゲンシュタイン氏やポパー氏を理解しやすい、と思う。
本ページでは、経験主義を、以下のように、まとめて、いずれ、検討の対象にしたい。
(1) 人が知り得る対象は、「感覚と内省」を通じて得られる観念 (idea) である。
(2) 観念には、単純観念と、(それを合成して得られる) 複合観念がある。
したがって、1つの複合観念は、いくつかの単純観念として、ばらすことができる。
すなわち、経験主義では、「実体」は、「経験のなかで認識される属性として、単純観念から構成される複合観念にほかならない」とされる。この考えかたは、TMの考えかたに似ているでしょう。ただし、「経験のなかで認識される属性」という点は、大きな論点になる。それを批判したのが、ウィトゲンシュタイン氏である。
ヘーゲルは、弁証法的観点に立って、「A は A である」という同一性は、「A は Aであり、かつ、非A であることはない」ということであって、A という独立自存を示すのではなくて、非A との相関関係のなかで考えべきである、としている。パース氏 (Peice C. S.) は、これに近い考えかた (3項態) を提示した。小生は、パース氏の考えかたのほうを参照している。
● 数学の考えかた (直積集合) ...
数学 (集合論) では、集合 A と集合 B との積 「A×B」--精確には、「デカルト積」と云うが--の任意の部分集合 R を (A と B のあいだの) 「関係」という。つまり、「関係」は、順序対の集合として定義される。たとえば、2項関係は、aRb あるいは R(a, b) と記述される。2項関係では、以下の特徴が成立する。
(1) 反射性 (aRa)
(2) 対称性 (aRb⇒bRa)
(3) 推移性 (aRb∧bRc⇒aRc)
関係 R が反射性・対称性・推移性を、すべて、満たすなら、「同値関係」と云う。
そして、2項関係の「特殊な」関係として、1項関係を考えれば--たとえば、「x は従業員である」というふうに、1つの変項 x のみを扱えば--、「関係」は、「性質」を包摂することになる。そうすれば、「関係」は、「実体 (性質)」をふくむ上位概念になる。
こういう「関係」の論理は、1項述語の外延的論理 (クラス論理学) に対して、関係論理学と云われ、パースやド・モルガンやシュレーダが研究を進めた。ただ、現代では、関係の論理は、多項述語論理のなかで扱われている。
多項関係 (多項述語論理) は、以下のように、記述される。
R{n1∈N1, n2∈N2,..., ni∈Ni, ∧ P(n1, n2,..., ni)}.
R が「関係」を示し、P --P(n1, n2,..., ni)--が「存在性」を示している。すなわち、この世界のなかに、どのような事物が存在するか、という点は、偶然的な事実である。そうだとすれば、「すべての n について、N (n) 」は、n1∈N1, n2∈N2,..., ni∈Ni と同値ではなくて、正確には、「n1∈N1, n2∈N2,..., ni∈Ni、かつ、n1, n2,..., ni が すべての モノである」と同値である、と言うことができる。
さて、論点になるのは、P(n1, n2,..., ni) は、関係 R に対して、同語反復かどうか、という点である。小生は、同語反復である、と考えている。その理由は、いずれ、(本ホームページのなかで、) 語る--きょうは、割愛する。
● コッド関係モデルの考えかた (関数従属性) ...
直積集合と多項述語論理 (ただし、第1階の述語論理) を前提にして、関係 R (と P) を使って、データ構造の生成規則を示したモデルが、コッド関係モデルである。
コッド関係モデルの特徴は、以下の2点にある。
(1) 変項として、「属性値」集合を考える。
したがって、主体集合は、関係 R として記述される。
(2) P(n1, n2,..., ni)のなかで、空集合を考える。
したがって、属性値集合のなかで、値が成立しないなら、「null 値」として扱う。
したがって、しかじかの「性質」が、かくかくの「関係」のなかに帰属するかどうか、という点は、(直積集合のなかで考えられていて、) 関数従属性として判断される。具体的には、1つのテーブルのなかで、1つの属性値に対して、他の属性値が、「高々」一意になる、という判断規準が適用される。「高々」というのは、「多くとも1つ」という意味であり、前述したように、P が、関係 R と同じ次数の空集合を認めているので、「null値」があっても良い、ということである。
ちなみに、コッド関係モデルでは、主体集合のあいだに成立する「関係」は、包摂関係 (A⇒B) として示される。
なお、コッド関係モデルは、完全性 (Relational Completeness) を証明されている。
● 構文論 (生成規則) と意味論 (指示規則) ...
コッド関係モデルでは、「意味」は、以下の2つの従属性を使って記述される。
(1) 関数従属性
(2) 包摂従属性
論理的意味論では、生成規則と指示規則を提示しなければならない。
コッド関係モデルがぶつかった「致命的欠点」は、指示規則にあった。すなわち、生成規則のなかでは、「null 値」は、「(値が) 成立しない」という一義的な意味として扱うことができるが、指示規則 (意味論) のなかで、「null 値」が、「真」概念を検証できない、という「致命的欠点」に陥った。
論理的意味論では、「真」概念は、(タルスキー氏が示したように、) まず、「モデルの記号と、事実的対象 (つまり、現実世界の事態) との対応」のなかで検証される。とすれば、「null 値」は、意味論的には、「多義 (unknown と undefined)」になってしまい、(「真・偽」を扱う2値論理のなかでは、) 「真」を検証することができない。
とすれば、コッド関係モデルを、意味論的に充足するためには、以下のいずれかの対応をしなければならない。
(1) 2値論理を前提にして、「null 値」を排除する。
(2) 「null 値」を認めて、4値論理を導入する。
モデルは、整合性と同時に、実効性 (ききめがある) と単純性 (使いやすい) も考慮されなければならない。コッド関係モデルは、「致命的欠点」を気づいたあとに、4値論理を導入した。そのために、整合性の崩れを回避できたが、単純性を犠牲にした。
TMおよびTM’が--それらは、コッド関係モデルを起点にしているが--、2値論理のなかで、「null 値」そのものを回避することを考えた。そして、「関係」の「対称性と非対称性」を明示するために、「resource」概念と「event」概念を導入して--かつ、経験主義的な「感覚と内省」を抹消するために、「合意」概念として、「コード体系」を前提にして--、意味論 (指示関係) を前提にした。
そのために、「性質の帰属性」を判断するために、関数従属性を捨てることになった。
● 対応説 と 使用説 ...
関係 R のなかで判断される関数従属性は、「(構造を生成する) 恣意性」を排除できるが、かならずしも、言語外現象 (現実世界の事態) のなかに帰属する「性質」を指示している訳ではない。その典型的な確認例が、「入社日」である。「入社日」は、従業員番号 (the primary key) に対して、「1:1」の従属性を示すが、「従業員に帰属する性質か」と問われたら、検討の余地がある。というのは、「入社日」は、「入社」という作用のなかで、従業員という個体が関与した、という考えかたもできるから。
つまり、「状態 (第一性)」と「作用(第二性)」という切り離しが論点になる。
さて、ふたたび、実体主義と関係主義が、亡霊のように、現れてくる。関係主義を、あまねく伝幡しようすれば、地平線の向こうで、実体主義の崖がある、という次第である。
TMとTM’は、当初、意味論 (指示規則) として、「写像理論」を使った。すなわち、言語と事実的対象 (言語外現象) は、「論理的に、共有形式が成立していて」、語-言語を使って述べられた文を対象にしてデータ構造を作れば、データ構造は、現実の世界を記述できる、と考えていた。そのときに、「性質が帰属する」という判断規則として導入されたのが、以下の2つである。
(1) 「inborn」概念
(2) 「entity. 性質」概念
すなわち、性質は、「生まれながら (そのものに) 帰属していなければならない--「関係」のなかで成立する訳ではない--」という考えかたと、「生まれながら、帰属していなければならない」という判断は、「entity. 性質」という語の使いかたのなかで示される、という考えかたをしていた。言い換えれば、TMとTM’は、(関係主義を起点にして、) 逆に、実体主義的な考えかたを導入して、(写像理論を前提にして、) 語の概念を調べれば、判断できる、という考えかたであった。つまり、語の「形態素」を重視していた。
たとえば、「従業員名称」は、「従業員. 名称」という語構成であり、(コード体系のなかで、認知番号を付与された) 従業員のなかに、名称が帰属して、「従業員名称」となる、というふうに考えていた。しかし、この考えかたは、「混乱した」考えかたである。というのは、「名称」は、そのものが「生まれながら」もっていた性質ではなくて、外 (そと) から--たとえば、親とか--付与された呼称である。「佐藤正美」という呼称は、「ペ・ヨンジュン」という呼称でも良かったのであって、「そのもの-の」性質ではない。名称は、「関係」のなかで成立する概念である。「名指し」は、個体を指示するが、個体に帰属する性質ではない。
その間違いに気づいたので、(関係主義の弱点を補うために導入した) 実体主義的な「inborn」概念は、「黒本」のなかで使ったが、それ以後、小生は使っていない。
「entity. 性質」概念も、実体主義的な概念に近い。ただ、「形態素」という語用論的な考えかたを導入しているが、、、。
「論理データベース論考」では、ふたたび、集合論と述語論理を検討して、「個体と集合」を再考した。そのなかで、「言語の形態論 (語用論に近い)」という視点を、つよく導入した。すなわち、ウィトゲンシュタイン氏が、前期の考えかた (対応説) を修正して、後期の考えかた (使用説) を提示したように、TMとTM’は、「個体と集合」を「認知する」判断規則として、「ことばの使いかた」を重視するようになった。
事実的対象を、どのようにして、認知しているか、という点は、「情報 (語-言語)」のなかに記述されている。しかも、認知は、かならずしも、「形態素」として構成される訳でもない。たとえば、さきほど述べた「名称」が、そうである。ただ、「従業員名称は、従業員のなかに帰属する (従業員を記述するために使われている)」というふうに、事業過程に関与している人たちが判断しているのであって、個体そのものに帰属する根源的な性質ではない。
たとえば、ペンネームを使って出版された書物を考えてみればよい--{作者コード、作者名称、...} のなかで、ペンネームは、個体そのものに帰属する性質ではないが、個体を直示する性質として判断されている。ペンネームは、entity に帰属することもあれば、VEとして扱うこともある。したがって、「実体」などという概念は、成立しないし、事実的対象のなかに、「本質的な」構造がある訳でもない。
「名指し」理論が、あやういこと (整合的でないこと) を、カルナップ氏は、論証している (「意味と必然性」永井成男 ほか訳、紀伊國屋書店)。
さて、entity に帰属する性質なのか、それとも、VEとして扱う性質なのか、という点に関して、「法則的な」判断規則は、ない (笑)。判断規則があるとしても、せいぜい、おおまかな「そのもの-に対して」--つまり、認知番号を付与された entity に対して--という概念 (前回の論点を参照されたい) を適用して、逐一、確認するしかない。
しかじかの企業 (および事業) のなかで、「ことばが、いかに、使われているか」という点を調べるのがTM (およびTM’) であって、「性質の帰属性」に関して、「法則的な」定式がある訳ではない。「法則的な」定式化を期待していた人たちは、期待はずれだったでしょう (笑)。しかし、その「法則性」を疑って叩き壊すのが、まさに、TMの目的なのです。
TMとTM’は、「ことばの使いかた (「合意」概念)」を調べる手法--語の「意味」は、生活様式 (膨大な暗黙知) を前提にして、その生活様式に関与している人たちのあいだで 「合意」 された文法のなかで成立する、という考えかた--である。そのために、entity の認知は、コード体系を前提にしているので、TMの体系のなかでは、SEの「恣意性」を排除できるが、TM’の体系のなかで、VEを使えば、データ構造が揺らいでしまう、という あやうさ をふくんでいる。
VEを的確に認知できるようになれば、一人前 (4段)である。
(参考) 「哲学・思想 事典」、廣松 渉 ほか編集、岩波書店。